スタァライト水族館 後編
アルタイルは、赤いスゥエットスゥツに着替えていた。アルタイルが、ピッと笛を吹いた瞬間。
「ワッ」
僕と少年は、同時に叫んでいた。プゥルの中から、二頭のイルカが跳び上がったのた。水飛沫は、星屑でも撒いたようにキラキラと光る。僕も、急いで少年と同じようにベンチの上に立ち上がった。
二度目の笛が鳴ると、四頭のイルカが跳び上がった。僕達は、暫く声もなくイルカ達の演技に見入っていた。時々黙って瓶から飲み物を回して飲み合う他は、僕達は歓声を上げるだけで話はしなかった。
それにしてもイルカと言うのは、本当に頭が良くて器用だ。調教師のアルタイルの笛に合わせて、左右から交差するようにジャンプしたり、身体の上半分を水の上に出したまま、後退して泳いだりする。
人間で言えば、ちょうど立ち泳ぎをしているようなものだ。イルカはアシカと違って、餌が貰えるからと言うより、演技するのも一つの遊びと思って楽しんでいるように見える。笛の鳴っていない時でも色々な動作をして見せて、それは演技と言うより、やはり彼らのアドリブのようだった。
みんなで遊べて餌まで貰えて、何だかとってもラッキィだとでも思っているんじゃないかな。イルカ達は、まるで笑っているかのような顔をしている。アルタイルは、ボォルを水の上に放った。
四頭のイルカ達は、サッカァでもしているようにボォルを追い掛けて泳ぎ出す。アルタイルはその間に、稼働式のバスケットゴォルを引っ張って来た。イルカの一頭が、水中から勢いを付けてボォルを跳ね上げた。
ボォルはスルスルと飛んで行って、アルタイルの背中に当たった。アルタイルはびっくりして振り返る。イルカ達は、キョキョキョキョキョと鳴いて、ヒレで水を叩いて騒いだ。どうやら笑っているようだ。観客席からも笑い声が起こる。アルタイルは、床を転がっていくボォルを追い掛けて拾い上げると、
「駄目じゃないか、私がゴォルを用意してから、ゴォルにボォルを入れる約束だろう。こんな悪戯をするのは誰だ?」
と、怒って見せた。イルカは笑い止めて、知らん顔をする。アルタイルがボォルを再び投げ戻すと、狙い澄ましたように一頭のイルカが、ヘディングでボォルをアルタイルの手の中に跳ね返した。アルタイルは、ボォルを掴むと叫ぶ。
「違う。違う。ボォル投げじゃない。ゴォルに入れるんだ。ゴォルに」
僕らは、腹を抱えて笑った。アルタイルは、今度はもっと遠くにボォルを投げた。イルカ達がボォルを目指して泳ぎ去った内に、アルタイルはプゥルの縁にゴォルを据えた。
イルカ達はボォルのとり合いをし、一旦ボォルを捉えると、他の仲間に奪われないようにジグザクに泳いだり、フェイントを掛けたりして、ゴォルの方に向かって行く。僕はふと気付いて、
「あのボォル、色が変わるってことは」
と、言い掛けた。少年がそれを引き取って、言う。
「うん。変光星だからだな」
僕も、随分スタァライト水族館のやり方には慣れてきた。イルカは、一際輝くボォルを鼻の頭に乗せたまま伸び上がり、ゴォルのカゴの中に一度で落とし込んだ。アルタイルはバケツから餌をやった後で、ゴォルを決めたイルカの頭を撫でてやった。
イルカはアルタイルの頬にキスをした。不意打ちだったらしく、アルタイルは鼻面をぶつけられたようなキスに、身体を傾がせた。イルカは二度三度とキスをする。アルタイルは、イルカの頭をポンポン叩いて、
「あー、分かった、分かった。熱烈なキスはもういいから」
と、言って立ち上がった。僕らは、また笑った。
イルカ達は再びプゥルに散り、縦横無尽に泳ぎ回った。キラキとした水飛沫を上げるのが、イルカ達も楽しくて仕方がないようだ。 多分イルカ達も、今夜が特別だって言うことを良く分かっているのだろう。
アルタイルはゴォルを下げて、フラフゥプのような輪をとり出した。輪は、まるで手品のように忽然と現れたように見えた。アルタイルが輪を割るようにすると、一回り小さな輪が現れた。少年がクスクスと笑いながら、ジュウスの最後の一滴を喉に流し込み、
「土星の二重リングだ。もし今天体望遠鏡で、土星を見ている天文学者がいたら、木星と一瞬見間違うかも知れないな」
僕もそれに、和して笑う。アルタイルが、輪を持った両手をプゥルに出す。初めは大きな輪っか一つだった。ピッと笛を鳴らすと、イルカが飛んで輪を潜った。イルカはすぐに身を翻して、反対側からもう一度輪を潜って見せた。
輪潜りは一度に全員出来ないので、飛ぶ役以外のイルカは、自分にも注目してくれと言わんばかりに、プゥルの端まで泳いで来ていた。
アルタイルは今度は、高々と輪を持った手を上げた。イルカは高く飛んで、これも見事に潜り抜けた。今度はアルタイルは、大きい方と小さい方の二つの輪を上下に並べて出した。笛と同時に、左右からイルカが飛び出て来て、右側のイルカは上の輪を、左側のイルカは下の輪を潜り抜けた。
僕らは一生懸命、拍手をする。不意に少年が「あっ、そうだ」と叫んで、プゥルの側に寄った。
ちょうど側に寄って来ていたイルカに向かって、言う。
「少し星の破片を落として欲しいんだ」
イルカは彼の声が聞こえたように水から顔を出すと、ヒレを掻いて水をプゥルの端から溢れさせた。少年は空になったジュウスの瓶を持っていて、おっとっとと言いながら、溢れた水を瓶で受け止めた。少年とイルカは暫くその動きを続けていたが、やがて少年が、
「とれた」
と、叫んで、瓶に慌てて蓋をした。イルカは水を掻くのを止めて、少年を見下ろした。少年はイルカに向かって、サンキュと声を掛けた。イルカはお安い御用とばかりに再び水に潜ると、自分の出番が近付いたことに気付いたように、慌てて舞台の方に泳いで行った。
「何をしていたの?」
僕は戻って来た少年に、そう尋ねた。少年は、瓶を僕の前にかざして見せる。瓶の底には、僅かにキラキラ光る水が入っていた。
「星の破片を、一つとったんだ。空気に触れると星はすぐに蒸発するけれど、こうしてきっちり蓋をしてたら暫くは保つんだ。お前にやるよ。今夜の記念だ。星明かりの夜になら丁度いいランプになる」
少年は、瓶を僕にくれた。僕は、
「ありがとう」と言って、それを受けとった。
イルカたちは最後は全員で、次々と大技を披露してくれた。僕達も、惜しみない拍手をした。
サァビス精神旺盛なイルカたちのショウが終わると、もう何時間も経ったような気がした。その癖、もう終わってしまうのが残念でならなかった。これ以上素晴らしいものなんてもう見られないだろうと思っていたけれど、出し物はこれで終わりじゃなかった。
アルタイルの後に出て来たのは、青白いスゥエットスゥツ姿の女の人だった。髪の毛を一つに束ねてまとめているが、とても綺麗な人だった。僕は思い付いて、言ってみる。
「あの人は、スピカじゃない?」
スピカは、乙女座の星だ。
女の人が笛を吹くと、イルカとは比べ物にならない程重量感のある物が、空に飛び出した。僕らは声にならない声を上げる。
海のハンタァ、シャチだ。シャチが跳ねると、水がうねってプゥルの縁から水が零れた。光る水は、僕らの足元の床に飛び散ったけれど、身体には掛からなかった。少年は慎重な様子で、
「決めるのは、まだ早いかも知れないぜ」
女の人がもう一度笛を吹くと、シャチは床の上に乗り上げて、その堂々として巨大の身体を、僕らにしっかり見せてくれた。女の人がシャチの顔の前で跪くと、シャチは口を開けて、そのギザギザて恐ろしげな歯を見せながら、ソッと首を動かして女の人の頬に口付けをした。イルカの痛そうなキスより、シャチのキスの方が良さそうだ。
女の人がサッと立ち上がると、シャチは横倒しになって水の中に戻った。シャチを追って女の人もプゥルに飛び込み、シャチの背に跨った。シャチは女の人を背に乗せて、悠々と円を描くように泳ぐ。女の人は、シャチの背から手を振った。手を降り返していると隣で、
「お前も分かってきたじゃないか、チビ。確かにあれはスピカだ。ベガじゃない」
と、言うのが聞こえた。ベガじゃないスピカは、シャチの背から降りると見えなくなった。シャチも潜ったかと思うと、水の中からスピカが弾丸のように飛び出してきて、後をシャチが追って跳ねた。シャチがスピカを、打ち上げ花火のように飛ばしたのだ。
そんなスゴイ出し物を見て僕は勿論驚いていたし、隣ではあの少年が激しく手を叩いていたけれど、僕は少年の言葉が引っ掛かって、どうしても出し物に集中出来なかった。
彼はとてもいい子だし、チビと言うのも悪意はなく、愛称のつもりなのかも知れない。それでもせっかくこれだけ仲良くなったのに、チビと呼ばれると僕は何だか物寂しいような気持ちになる。少年が、すげぇと口をまぁるく開けている横で、僕は俯くようにしながら言った。
「あの、僕のこと、チビって呼ばないでくれる。僕にはちゃんと、名前があるんだ」
少年はきょとんとして、ショウから目を離し僕を見た。何を言っているのかと馬鹿にされるかと思ったが、少年は目を丸くする。
「へぇ、小さい内は猫ってのは八割方がチビって呼ばれるから、チビって呼んでおけば間違いはないものなんだけど。それならそうと、早く言ってくれよ。俺はてっきり、チビで合ってるんだと思ってたぞ」
「チビって。僕、猫じゃないよ」
僕は思いっきり途惑いながら、言う。少年は、今まで通り僕の言葉を良く聞かずに、
「それで、名前は何て言うんだ?」 と、聞き返してきた。
僕は仕方なく、
「ラジニ」
と、名乗る。少年は暫く考えた後で、
「それ、お前んとこの言葉で、チビって意味じゃないのか?」
何が何でも、僕をチビと言う名にしたいらしい。僕は違うよと強く言い切ったけれど、自分の名前の由来は知らないことを思い出した。僕が知らない異国の言葉で、ラジニと言うのは小さいと言う意味があるんだろうか。僕は口を濁らせながら、違うと思うと言い換える。その後続けて、
「弟は、降誕祭に生まれたからノエルだけど」
少年はふぅんと感心した様子で言った後、
「ラジニなんて珍しい名前ってことは、あのおじさんが付けたのかな。俺なんか、そのまんま、チビだぜ」
僕は、彼が遊んでいるんだと思って、
「チビって、猫の子じゃあるまいし」
と、言い掛ける。ちょうどそこでシャチが、先程より近いところでジャンプして背中から水に落ちたものだから、頭の上から水が降って来た。僕は、ウワッと悲鳴を上げて目を閉じる。頭から洋服までびしょ濡れになるかと思ったけれど、少しも濡れた感じはしなかった。
僕がオズオズと目を開けると、少年が僕の顔を覗き込んでいた。
「なっ、平気だろう?」
少年――チビとはどうしても呼べない――は、僕にニコリと微笑み掛けた。僕は、自分の身体を見下ろしてみる。何も変わったところはない。
「瓶にでも詰めればまだ別だけど、身体に染みたのじゃ、星雲のこんな近くだと分からなくて当然さ。暗い所に行けば、光るのが見えるぜ。と言っても一生そのまんまって訳じゃなく、保つのは三日ぐらいだ。匂いなら一週間はとれないけど、渦巻き星雲なんてそう匂わないだろう」
少年はそう言って、自分の腕に鼻を近付けて、フンフンと匂いを嗅いだ。僕も真似して嗅いでみる。匂いと言う匂いはしないのに、どこか遠くからきた匂いがしたような気がする。僕は思い付いて、悪戯っぽく笑いながら聞いてみる。
「今度は、カニ星雲だったらどうする? 一週間も、自分の身体からカニの匂いがするかも知れないよ」
少年は言葉に詰まった様子で、暫く考えた後、
「薔薇の方がマシかも」
結論付けた。カニはおいしいし、食べる時に匂いがするのはいいけれど、それが一週間も続くのは、流石にどんな食いしん坊でも勘弁して欲しいと思うだろう。
舞台に顔を向けると、プゥルの上にクレェンが突き出ててくるところだった。クレェンの先には薬玉がぶら下がっていて、アルタイルとシリウスがクレェンに乗って手を振っていた。僕が二人を指して、
「アルタイルとシリウスだ」
と言うと、少年は薬玉を指して、
「グランドフィナァレだ」と、言った。
鋭い笛が鳴ると、イルカが放射状に飛び、アシカが水面を跳ね、シャチは今までで一番高く跳ね上がった。プゥルは水路で控えのプゥルと繋がっているのだ。最後を飾る為に、イルカとアシカの柵も開けて、中のプゥルに入れておいたらしい。
シャチはクルリとでんぐり返ると、その尾ビレで薬玉を叩いた。薬玉が割れた途端、辺りはキラキラと光る紙吹雪で一杯になった。目の奥や頭の中まで、輝きで一杯になる。僕の横で少年が、
「超新星の爆発だ」
と、叫んでいたように思うけれど、それも定かではない。
僕は光の洪水に包まれて、永遠を一瞬で通り過ぎたような、はたまた永遠に存在し続けているような、不思議な感覚を味わっていた。まだ漂っているような不思議な感覚を引きずっていたにも関わらず、僕の身体はベンチの上で横になっていた。横になった記憶などないので僕は驚いて、顔を上げてみると、すぐに視界に先生の姿が入って来た。
「先生」
僕が身体を起こすと、掛けられていた先生の上着が、身体から滑り落ちた。僕は地面に落ちない内に掴んで、胸の前に引き寄せる。先生は、眠そうに微笑みながら仰る。
「目が覚めましたか。朝食を買って来たんですが、水族館の人が来る前に、出た方がいいかも知れませんね」
僕は、キョロキョロと辺りを見回す。辺りはいつの間にか明るくなって、夜が明けていた。
僕は、円形舞台の硝子の水槽の前のベンチと言う、昨夜と同じ場所にいたが、朝の光の中で見る辺りの景色は夜とは全然違って見えた。
硝子は薄汚れ、中の水も濁っている。キラキラ輝くラメなど、何処にも見あたらない。
僕は、昨夜の記憶が甦ると言うより、昨夜の記憶の中に今までいたものだから、どうして朝になっているのかが分からなかった。グランドフィナァレの薬玉が割れたのは、ほんの数秒前のことにしか思えない。
「あっ、あれ、僕」
僕は、何が何だか分からない、狐に抓まれたような気分だった。先生は、僕を心配したように見ながら、
「私の所為で、結局、野宿になってしまいましたね。風邪など引いていないといいんですが。大丈夫ですか?」
と、聞いてくださる。僕は先程まで寒いとも思っていなかった――先生の上着を掛けて貰っていたらそれもそうなんだろうけど――ので、何度も頷き返しながら、
「ショウは、あの子は」
と、だけ言った。階段席には、誰の姿も見当たらない。僕と先生だけだ。
ショウ? あの子って誰ですか、夢でも見たんですかと先生に言われるかと思ったが、先生は、不思議そうに辺りを見回される。
「さっきまで、君と一緒に眠っていましたよ。私が朝食を買いに行っている間に、一足先に外に出たんでしょう。ショウが終わった時には、二人はもう寝ていたんです。流石に男の子二人抱き上げて、どこにあるか分からない宿を探して歩き回れませんから、ここに留まったんです」
先生は、眠らずに僕らを見ていて下さったに違いない。だから、眠そうなのだ。僕は慌てて、
「す、済みませんでした」
と言いながら、先生に上着を差し出した。先生は、リネンの襯衣だけで寒そうだ。先生は上着を受けとりながら、いいえと首を振り微笑まれた。
「二人とも、何だか素敵な夢を見ているようでしたよ」
僕はついさっきの、いや昨夜の出来事を思い出しながら呟く。
「夢、だったんでしょうか?」
先生は首を傾げられて、僕の詳しい言葉を待った。僕は口を開き掛けるが、ベンチの下に落ちていた瓶に気付くと、違う言葉が口から飛び出してきた。
「あっ。蓋が」
昨夜、あの少年が星の滴を集めてくれた瓶は横倒しになって、蓋も外れていた。瓶を拾い上げてみるが、瓶のどこにもキラキラと光る輝きは見えなかった。空気に触れると蒸発すると言うから消えてしまったのか、それともそんな物始めからなかったのか。
「寝ながら二人とももぞもぞしていましたから、寝ている内に倒してしまったんでしょうね」
僕は、どこからどこまでが夢だったんだろうと思いながら立ち上がった。奇妙な青白い光に照らされた水槽や円形劇場は、如何にも不思議な感じがしたけれど、朝の光で見る今は、古ぼけたただの野外観覧場に過ぎない。僕はもう一度、
「やっぱり夢だったんだろうか」
と、呟く。先生は、何もかも分かっていると言いたげな様子で悪戯っぽく笑うと、
「夢かも知れないし、そうじゃないかも知れません。ただ、星が低く掛かる場所では、不思議なことが起こると、昔から言われています」と、仰った。
やっぱり、夢じゃなかったのかも知れない。そうすると、あれは本当に星たちだったのだろうか。空に掛かっているのに飽きて、地上に降りて来て一夜限りのショウを見せてくれる。僕は、どうなんだろうと思いながら、これだけははっきりしているとばかりに、
「僕、また来たいです。いつかの夜、星が低く掛かっているのが見えたら」
「その時は、野宿を覚悟で、また行きましょう」
先生も微笑んで、答えられた。僕は、はいと大きく頷いた。僕と先生は荷物をまとめたり、ゴミの後始末をしてから、誰もいない観覧席を抜けて、従業員用の裏口から水族館の外に出た。先生は、
「少し宿で休んで、それから午後にでも水族館の方を見に行きましょうか?」
と、僕に合わせて誘ってくださった。あんな素敵なショウを見た後で、普通の水族館の硝子の水槽を、見て回る気にもなれない。
もしかしたらアシカのリックやカイ、シィナやイルカたち、シャチのショウもあるかも知れない。でもそれは、昨夜とは似ても似つかないものになるだろう。アルタイルやシリウス達にそっくりな人が、調教師として登場したとしても、やっぱり昨日とは違うと感じるに違いない。僕は、この世界の特性を思い出しながら、
「戻って来られたら、でしょう」
と、先生に一応の念を押す。先生は、細かいことにはあまりこだわらない様子をされる。
「ええ。そうなりますが。どうしても戻って来たいと言う気持ちがあれば、いつか戻って来られるでしょう。今日が、いつかの午後になるだけのことです」
僕は、ううんと唸った後、少ししょんぼりしながら言う。
「ここに戻って来るより、星の低く掛かる場所を目指した方が、彼と会える確率は高くなると思います。良く来るって、言ってたし。でも、それにしてもひどいです。挨拶もせずに、行ってしまうなんて」
「朝帰りを家の人に咎められると、慌てていたんじゃないですか?」
先生はそう言われるが、僕の話も良く聞かなかったせっかちな少年だから、挨拶するのも忘れたに違いない。僕は、寂しいような気持ちで呟く。
「本当の名前も、知らないままになってしまった」
「そうなんですか。まるで、ずっと先からの友達同士のように見えましたよ。過去かそれとも遠い未来か、別の世界では友人だったかのように。」
彼に馴れ馴れしくされても嫌でなかったのは、その所為だろうか。チビと呼ばれたり、挨拶もなしで行ってしまったことが、これだけ気になるのも、いつかどこかで僕と彼が友達だった所為かも知れない。
先生と僕は人気のない道を歩いていたが、僕は不意に誰かの、または何かの気配を感じて顔を上げた。民家の間の細い路地で、黒い子猫が踞っているのと目が合った。
子猫は僕を見ると、口を開けて笑ったように見えた。本当は、欠伸をしただけなのかも知れないが。子猫は僕に一瞥だけくれて、サッと身をくねらせて立ち上がって後ろを向いた。
屋根の下の陰の中、黒猫の身体は虹のように輝いた。昨日のアシカやシャチと、ちょうど同じ具合だった。
暗いところでなら数日は光って見えると、彼は教えてくれたっけ。猫の毛並みは、昨夜の少年の頭のようにボサボサだ。昨日の少年も上から下まで、黒猫みたいに黒ずくめだった。猫は身軽な動作で、路地の奥に走り込む。僕はそれに気付くと無我夢中で、
「あっ、チ、チビ?」
と、呼び掛けてしまっていた。路地の中から、
「ニャアン」と、言う声だけが返ってくる。
子猫の名前は、小さい内は八割方がチビだと少年が言っていたので、子猫も自分の名前を呼ばれたと思ったのかも知れない。それとも・・・?
先生が不思議そうに、キョロキョロと辺りを見回される。先生にも猫の声が聞こえたのだと思ったが、先生は全然違うことを言われた。
「今、男の子の声がしませんでしたか?」
僕は、え?と聞き返した後で、ハッとなると勢い込んで、
「その子は、何て言っていましたか?」と、聞いてみた。
「またな、と」
僕は、目を見開いた。僕は、やっぱりさっきの黒猫はあの少年だったのかも知れないと思いながら、笑う。
「挨拶だけは、してくれたみたいです。それに、ちゃんと名前も教えてくれていたみたいだし」
先生も微笑んで、それは良かったと満足そうに言ってくださった。
僕は、先生に付いて再び歩き出した。道の上に張り出した屋根の下の陰を通り掛かった時、僕の焦げ茶色の上着の上を、虹色の輝きが走ったように見えた。次に星が低く輝く晩には、一体どんなことが起こるだろうか?
他の星たちに会えるかも知れないだけでなく、チビと名乗った彼にも会えるかも知れない。