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海に続く時間 後編*挿絵付き 

 三階の扉も全て開け放されていて、一つの扉の中からは、子供の騒ぐ声がしていた。

 そんなに騒がないのと、母親の嗜める声も聞こえた。

 揺り椅子の軋みや、ラジオの音楽は空耳か、風に乗って遠くから運ばれてきたとも考えられるが、今の人の声は、決して聞き間違いなんかではない。子供の声は、まだ小さい女の子と男の子の二つで、しつこく両親に遊んでくれとせがんでいた。

 僕は、上の階での奇妙な出来事の後だったので、確かな人声を聞いて、とてもホッとした。僕は、下に弟もいるし、小さい子と一緒に遊ぶのも嫌いじゃない。僕は声の聞こえてくる部屋に早足で近付くと、ヒョイと部屋の中に顔を覗かせた。その途端、やはり全ての物音は、一瞬にして消えてしまったのだ。

 部屋の中には、誰もいない。但し、その部屋も空き部屋ではない証拠に、旅行用のトランクと、ボストンバックが置いてあった。

 僕は、部屋の中に足を踏み入れた。ツインのベッドは刺繍のしたベッドカバァが、半分床にズリ落ちた状態でかけられ、ぬいぐるみや人形が放り出してあった。

 今まで部屋に、誰かがいたような気配はない。僕は、ゾッとなった。その時僕は、目の端に何かが動くのを見た。部屋の壁には、海ガメやマンタ、回遊魚の姿が描かれている。

 そして、僕は見たのだ。天井と壁に跨って描かれた、マンタのヒレが波立つのも、海ガメがオゥルのような手足を、水を掻くように動かしたのも。僕は、弾かれたように、クルリときびすを返すと、速やかに部屋を出ようと、入口に突進した。

 廊下に出ようとした僕の鼻先を、赤い物が掠め、僕は驚いてのけぞった。赤い物は再び今度は右から左に、僕の目の前をツイと横切ったかと思うと、魚の姿になった。僕は、目を見開いた。

 廊下は、熱帯魚で一杯だったのだ。絵に描かれたチョウチョウウオやエンゼルフィッシュ、コバルトスズメたちが、壁から抜け出して、水の中を泳ぐように空中を飛び回っていた。

 僕は驚いて、思わずピョンと跳び上がってしまった。僕は、先生、先生と大きな声を出しつつ、熱帯魚たちの間を駆け抜けながら、廊下をグルッと走った。上の階からは、材木が軋む、まるで巨大なイカが、船を締めつけているような音が聞こえていた。

 僕は頭が真っ白になって、繰り返し先生の名を呼ぶことしか出来なかった。僕は、とても慌てていた。そして、階段を駆け降りようとした僕はなぜか、ドボンと水の中に填まっていたのだった。突然のことで、先生と呼びかけた声は、途中で泡になった。

 少しだけ水を飲んでしまった。その塩辛い味も、水の入った目がチカチカと痛むのも、海水特有のものだ。

 僕は、口を両手で押さえながら、二階へと沈んで行った。

 僕は、泳げないのだ。その時、白い壁が動いた。壁ではない。シロナガスクジラだ。

 黒い笑っているような目が僕の横を通り過ぎたと思うと、シロナガスクジラは鼻の頭で僕を、扉が開いたままの先生の部屋へと押しやった。

僕は、部屋の中に転がり込んだ。部屋の中は水がなく、僕は再び息がつけるようになった。僕は、部屋の中に、水が入ってきては大変だと思って、慌ててドアを閉めた。

 僕は、まだ胸がドキドキしていて、うまく考えがまとめられなかった。息切れがしている。

 そこに、背後から先生の声が聞こえてきた。

「どうしたんですか。ラジニ君」

 僕は、その声に驚いて先生を振り返った。僕の様子に先生も驚いて、目をぱちくりとさせた。先生は、不思議そうにきょとんとされている。僕は、何からまず言っていいのか分からなかったが、最初に、

「先生、今まで何処にいたんですか」と、聞いていた。

「何処って、私なら、ずっと部屋で眠っていて、今、目が覚めたところですよ」

 先生は、そう仰ると、ベッドの方に目を向けられた。先生は上着も着たまま、しかもベッドカバァの上に寝ていたようだ。

 カバァには皴が寄っていて、それが波のようだった。

 僕は、ハッとして自分の服を見る。服を着たまま水に落ちた筈なのに、服も身体も髪も少しも濡れていなかった。

「あまりに気持ち良さそうで、寝転んでいたら、いつの間にか、ついウトウトしてしまったようですね。夢まで見ましたよ」

 先生は、おかしそうに、フフと微笑まれた。いつもならば、先生ってばと思うところだが、僕は先生の話もよく聞いていなかった。僕は閉めた扉を、ソッと開けて廊下を見てみた。

 先生は先生で余程楽しい夢を見たのか、僕が聞いていないことにも気付かずに、聞いて欲しいと言わんばかりに、何か話そうとされている。

「それが、素敵なんですよ」

 扉を開けて覗いた廊下は、海水に満たされていなければ、シロナガスクジラもいなかった、ただの廊下でしかないことを確かめると、僕は再び扉を閉め直す。流石に先生も、僕の様子がおかしいのに気が付いた。僕はまだ、息が元に戻っていない。

「どうしたんですか。ホテルの中を、駆け回ってきたんですか。私が起きるのが待てなくて、一人で見に行ったんですね。何かありましたか」

 僕の頭の中は、言わなければいけないことで一杯になった。誰もいない部屋から聞こえる物音。壁の絵が動いたり、壁の中から魚が抜け出て泳いでいたり、それどころか本当の海になったり。言うことが一杯で、結局僕は、

「先生、このホテル、変です」

 先生はそれを聞くと、懐かしそうな眼差しで、壁に描かれたウミユリを眺めた。それを見ると、先生は何もかも分かってらっしゃるんじゃないかと僕は思った。先生は、

「そうかも知れませんね。嫌なら、別の宿に移りましょうか」

 僕は、その言葉を聞くと、目をパチパチとさせた。

 思ってもみなかった言葉だ。

 それは、ちょっと薄気味悪く思ったり、びっくりしたけれど、嫌なんてとんでもない。心の準備が出来ていなかったから、あれ程とり乱しただけだ。先生の言葉に僕は、勿論大きく首を横に振っていた。

 しかし、それにしても不思議だ。

「僕も、夢でも見たんだろうか」

 ベッドに寝転んで、天井の絵を見ている内に僕も眠ってしまい、その夢の中でホテルの中を歩き回る夢を見たのだろうか。しかし、硝子のテェブルのケェキの皿は二枚とも空っぽで、フルゥツジュウスのグラスには、溶けた氷の水だけが溜っていただけだった。

 先生のアイス珈琲だけが、手をつけられないまま残されている。

 確かに僕は、ケェキを食べてジュウスも飲んだのだ。僕が体験したことが全て現実だとすれば、先生の姿が部屋になかったのは妙だ。でも、妙でも何でもないのかも知れない。きっと夢を見たと先生が思っているだけで、先生も僕と似たような体験をしたのだと考えられる。

 先生の見た夢? それは、また後で・・・・。

 それより僕と先生は、今度は一緒にホテルの客室を、それぞれ見て回った。他の部屋の中には、プランクトンを拡大した絵やシィラカンスや、海に棲む魚竜の絵なんかもあった。五階のレストランとバァにも行ったが、バァの壁には発光する深海魚の絵が描いてあった。

 どれ一つとして同じ絵はなかったが、共通していたのは、全て海が舞台になっていることだ。 そこから、〈ホテル/ノスタルジア〉と言う名前が、僕らが心の底で持っている筈の、海に感じる郷愁を、意味して付けられていることが分かるだろう。

 全ての生き物は、海から生まれ、海を故郷に持っている。

 この地球で最初の命は海で生まれ、海で育ったのだ。生き物は、微生物から水生動物、水陸両用の両生類、そして陸上生物へと進化した。

 全ての命の源は海なのだ。

 ついでに言っておくと、僕が見て回った時(夢でないとして)全て開いていた、四階と三階の扉だけは、それぞれ一つが閉まっていたので、先生は、全ての部屋の絵を見ることは叶わなかった。僕が入った、作曲家と家族連れが泊まっている部屋の扉がそれだ。僕は、さっきは開いていたのにと不思議に思って、先生も一緒だったので扉をノックしてもらった。但し、どちらの部屋からも返事はもらえなかった。

 丁度通りかかったホテルの人を呼び止めて聞くと、どちらの部屋の客も出かけていて、まだ戻っていないことを教えられた。僕はそこで、扉が開いていたことを話したのだが、鍵は閉まっている筈ですよと言われ、事実、引っ張っても扉は開かなかった。

 作曲家も家族連れも、その日の午後、散歩と遊びに出掛けていてホテルにはいなかったのだ。

 僕は、不思議でたまらなかったが、ホテルの人は悪戯っぽい笑顔を覗かせて、まあ、そう言うこともあるでしょうと言ったのだった。間違いなく、ホテルの人も何か知っている。

 僕は夢を見たのか、それともこのホテルは、奇妙な力の働くところなのか。どちらにしても、このホテルは、不思議な雰囲気を持っているのは間違いない。

 もし夢でないならば、僕が最初にホテルに入った時、潮の香りを嗅いだと思ったのも、あながち間違いではなかったのだろう。とにかく、ちょっと変わった雰囲気のホテルなのだから。

 そしてその晩は、せっかく二部屋とってもらったものの、僕は先生のベッドで一緒に寝させてもらった。勿論先生は、それに対しても、ケェキを一人占めしたことに関しても、何も文句は言わなかった。

 そう言えば、三回目に泊まった時に食べて気に入った、パパイヤのゼリィ。あれも、先生の分のケェキだったような気もする。

 さて、僕はホテルに泊まっている間中、不思議な目に遭うかと思っていたが、そんなことはなかった。それどころか、不思議なことが起こるのは、とても珍しいことだと後になって分かってきた。二部屋とれたのは一度だけで、後はいつも先生と同室だった。

 二度、あの家族連れが泊まっていた三階の、マンタと海ガメのいる部屋になったが、マンタや海ガメが動いたのを見たのは、あの一度きり。もっとちゃんと見ておけば良かったと、後で後悔したのは勿論のことだ。しかし最初の晩は、そんなことは分からなかった。

 でもきっと、お客がいない時には、魚たちは絵から抜け出て、泳ぎ回っているんじゃないだろうか。

 本当に、不思議だ。

 眠るまでは自分の部屋にいて、その間は、お風呂を使った時だって、別に不思議なことは起こらなかった。それでも、一人で眠るのはちょっと怖かったのだ。それに僕も、先生が見たという夢を、見たかったこともある。

 そして、その夜はなんと、僕も先生と同じ夢を見ることが出来たのだ。夢の中には、先生も出てきたが、朝になってそれを先生に言うと、先生は夢を見たことは覚えていたが、夢の内容までは覚えてはおられなかった。

 もし覚えていて、しかも全く同じだったら、もしかしたら夢ではなかったのか、それともこのホテルの所為だと分かったかも知れない。

 そして、僕の見た夢はこうだった。

 僕は先に、先生のベッドに潜り込んで眠る支度をしていたが、先生はまだ書き物机に向かってメモの整理をしていた。その時、壁に描かれたウミユリが、おいでおいででもするように揺れ始めたのだ。先生は、それに気付くと「こっちに来て、少し散歩にしましょう」と仰って、僕をベットから連れ出した。

 そして、僕らはウミユリの描かれた壁の中に、ううん、海の中に入って行った。

 それは、太古の海だった。僕と先生は、大昔の海の海底を散歩したのだ。夢の中だからか、それとも別な理由か、僕らは海の中でも息が出来た。

 海の中には、先生の部屋の壁に描かれていた円錐型の貝も泳いでいた。僕はてっきり、ヤドカリの仲間だと思っていたのだが、どうも違うようだ。

「先生、あれは、何ですか?」

 僕がそう聞くと先生は、いつもと変わらない笑みを浮かべて、

「あれは、オウム貝ですよ。今のオウム貝のようには、殻が巻いてないんです。大きな物では、180センチ近い化石も発見されているんですよ」

 と、古生代の海について説明を始められたのだった。

 オルドビス紀の海の中には、クラゲや二枚貝、派手な柄のオウム貝の姿があり、様々な形や色のウミユリが、波に優しく揺れていた。

挿絵(By みてみん)

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