海に続く時間 前編
〈ホテル/ノスタルジア〉は、不思議な雰囲気のあるホテルだ。
外観は、とり立てて変わってはいない。建物は、写真で見るピサの斜塔のような円筒型――当然ながら、傾いてはいない。傾いたホテルだったら、誰だって奇妙に感じるだろう――に、すっくりと天に伸びているだけだが、一歩中に入れば誰だってあれ?と思う筈だ。
最初に目につくのは、五階建ての建物の中心を、貫いている螺旋階段だろう。勿論エレベェタアもあるが、階段をグルグル回る方が面白いので、僕は一度も使っていない。
螺旋階段は、同じく円筒型のエレベェタアの周囲をグルグル回って、上に向かって伸びているのだ。その様子は、木に巻き着く蔓植物のようなのだが、僕などは階段に立って上を見上げると、巻き貝の中にいるような気分になる。
そんな気分になるのも、ホテルの内装に原因があると言えるだろう。ホテルのロビィに普通ある物と言えば、壁を飾る額入りの絵や、そこかしこに置かれた花瓶に生けられた花や、台座に載せられた彫刻などだが、〈ホテル/ノスタルジア〉は違う。
まずクロォクルゥムの、受け付けの台の前面にかけられた、二本のパドルを交差させた物が、お客を迎えてくれるところからして違った。剣や戦斧や槍のような武器を、組み合わせて飾るのと同じ感覚だろう。
ロビィの壁のあちらこちらに、操舵輪や錨、赤と白に塗り分けられた救命浮き輪、そして船からとり外した丸い窓と言った、船に関係する物がぶら下げてある。
勿論、天使やライオンの船首像も、台座に載せられて飾られていて、その部分だけ見ると一見、趣は元船乗りのオゥナァが、趣味で作ったホテルと言う感じになる。
別に、ホテルのオゥナァは元船乗りでもないし、豪華客船の船室の様子を再現したような、趣向を凝らしたホテルと言う訳でもない。もしそうであれば〈暁の光〉や、〈黄金の歌〉なんて、船の名前をホテルの名前にすることだろう。〈ホテル/ノスタルジア〉と言うのは、全然船の名前らしくない。
そして、船乗りの趣味と明らかに違うのが、壁に直接描かれたイルカや魚、様々な海の生物の絵だろう。それらの絵は決して写実的ではなく、単純に描かれており、色遣いもパステルカラアなので、とても可愛らしい。海をコンセプトに、室内の装飾を施してあるのだ。
壁は生クリィム色で、ホテル内の備品の多くは、白が基調になっている。但し、ロビィの床に敷かれている、ゴシャゴシャとした山羊の毛のような、毛の立った絨毯はピンク色をしている。
壁を青や浅葱や翡翠に塗ったり、大きな水槽を搬入して、実際に熱帯魚などを泳がしている訳でもないのに、実に海らしい雰囲気がよく出ていて、それがこのホテルを、とても不思議な魅力的な場所に見せている。
僕などホテルに入った瞬間に、海の匂いを嗅いだような気がしたぐらいだ。それには訳があるのだが、後になって分かったことなので、ここでは何も言わずにおく。
一階は、ロビィとティルゥム、五階には、レストランとバァが入っていて、二階から四階が客室に当てられていた。部屋数は少なく、一階に付き三部屋。全部合わせても、九部屋しかない。その為、部屋が満室でとれないこともよくある。
但し、僕と先生が初めて〈ホテル/ノステルジア〉を訪れた時は、長期滞在中の音楽家と、バカンスに来ている家族連れの二組の先客しかなく、部屋は十分余っていた。だから先生は部屋を分けてくれて、僕にも一部屋とってくれたのだった。
僕と先生がチェックインを済ませると、ホテルの人がウェルカムサァビスだと言う、飲み物とケェキを選ばせてくれた。銀のお盆に載せた何種類ものケェキから、どれでも一つ好きな物を選んでいいと言われたので、僕はフルゥツジュウスと、涼しげなゼリィとムゥスのケェキを選んだ。先生はアイス珈琲と、僕が味見出来るように、最後まで選び兼ねていた、シロップがけのマンゴォケェキをとって下さった。
その後も何度か〈ホテル/ノスタルジア〉に泊まっているが、一度として同じケェキが出されたことはない。どれもおいしかったが、僕が一番だと思うのは、確か三回目に泊まった時の、パパイヤとパッションフルウツの寒天寄せが、パパイヤを繰り抜いた器に盛られて出てきた物だろう。
僕と先生は、それぞれ皮嚢とトランク一つと言う身軽さで、荷物は自分達で部屋まで運んだ。僕も先生もエレベェタアではなく、グルグル回る螺旋階段を使った。僕も先生の部屋も二階だったので、エレベェタアを使うまでもない。
ホテルの人は、ケェキと飲み物を運ぶのにエレベェタアを使い、それぞれ僕達を部屋に案内してくれた。ケェキは先生と一緒に食べるので、先生の部屋の方に運んでもらう。先客はそれぞれ四階、三階の部屋に泊まっているので、二階は先生と僕の貸し切りだった。
白い鉄の階段は、細かい網目になっていて、高い所の苦手な人は、少し心細く感じるかも知れない。しかし目が細かいので、足元を見ても、下の様子ははっきりと見えない。上を見ると、薄ぼんやりした光だけが、網目を通過してくる。
五階の屋根は、階段の上の部分が硝子張りになっていて、昼間は天然の自然光を採り入れ、夜には窓枠につけた照明を点灯させるようになっていた。階段とエレベェタアが、建物の真ん中を貫く内円で、その外側の円を三等分して、それぞれ一つ一つの客室にしている。
ワンフロアごとに踊り場になっていて、そこから廊下へと出るようになっていた。廊下と階段の間は、五十センチ以上開いているが、橋で繋ぐのではなく、踊り場が蓋のように填まっているので、下が見えて足が竦むことはない。
建物の構造上、廊下も円で、丁度ドォナツの上を歩いているような感じになる。勿論、廊下の壁にも絵は描いてあった。二階の壁には、シロナガスクジラが壁のグルリを囲むように描いてあって、とてもダイナミックだ。しかし、クジラの目はとても優しく、口元も笑っているように見える。
二階に上がって見ると、外周円上に並ぶ扉は、三つとも開け放してあった。空いている部屋の扉は全て開け放っておくのが、このホテルのやり方だ。空いている客室は、好きなだけ覗いても、構わなことになっている。
一つ一つの部屋ごとに調度も、描かれた絵も違うので、それを見たいと思うお客さんも多いのだ。部屋が空いていない時も多いのに、僕と先生が初めて宿をとった時に、七部屋までも空いていたのは幸運なことだった。僕も先生も、その日空いている部屋を、全部見て回ろうと言い合った。
先生も僕と同じで、そのホテルをとても気に入り、空き室があるとこのホテルを使うようになった。最初の時は、四階の一室に作曲家だと言う人が、三階の一室に二人の子供連れの夫婦が泊まっていただけなので、その部屋以外の部屋は、全て出入り自由になっていた。
勿論、僕らより後でチェックインした人で、部屋が塞がってしまうことは有り得たし、実際その晩には、後、二組の家族と老夫婦によって、更に二つの部屋が借りられてしまったが、僕達が来た時には部屋は七部屋空いていた。
僕は、自分の泊まることになった部屋に皮嚢を置くと、まずバスルゥムに入って、手を洗った。バスルゥムは、水色のタイルが張られていて、浴槽は白い陶器製だった。仕切りのカァテンは、青と緑のむら染めで、浴槽の横の壁には波の模様と、コンブと赤いカニの絵が描いてあった。
僕は、これに満足した。
荷物を置いて手を洗ったら、すぐに先生の部屋に行って、飲み物とケェキでお茶にするつもりだったのに、ついつい寝室の、サイドボォドに載った壜入りの帆船と、バスケットに入った貝殻の詰め合わせに見とれてしまって、なかなか部屋から出られなかった。
僕の部屋の壁は、テェブルサンゴと樹状サンゴの絵で、サンゴの上には海老も描いてあった。それと、ベッドの上の天井には、丸い青い円があって、その中に泳ぐ魚の絵が描いてあった。
円の端に岩や海草も描かれていて、ベッドに寝転んで絵を見ると、丁度水の底から、青天井を眺めているような具合になるのだ。こんな絵を見ながら眠ったら、素敵な夢が見られるだろう。
僕は、白いベッドカバァの上に寝転んで海の中に潜る夢を思い浮かべて、うっとりとしていた。
開け放されたままの窓から、乾いた暖かい微風が吹き込んでくる。僕は、ふと冷たい物が飲みたいと思って、先生の部屋に運ばれた、氷を入れたジュウスのことを思い出した。
僕はベッドから起きると、その足で先生の部屋に向かった。先生の部屋は、まだ扉を開けたままだった。先生と言いながら、僕は部屋に足を踏み入れたが、部屋には人の姿はなかった。しかしソファの前のテェブルでは、ケェキと飲み物が、手を着けられるのを今か今かと待っていた。
ホテルの人も、もういなかった。サイドボォドに飾られた、瓶の中の帆船を見ていた時に、ウゥンと言うエレベェタアの立てる音を聞いたような気もする。その日、僕が当てがわれた部屋は、エレベェタアの出入口から一番遠い位置にあった。グルッと回った正反対の所に、エレベェタアの扉がくる。
お茶の支度も整っているし、ベッドの横には、先生の柳のトランクも置いてあるので、ここが先生の部屋に違いない。僕の部屋のカバァは白だったが、この部屋のは真っ青なベッドカバァだった。先生の姿が見えないが、きっとバスルゥムにいるのだろうと僕は思った。
僕は、喉が渇いていたのでソファに座ると、自分の分のジュウスを半分飲んだ。僕の部屋の応接セットは、藤椅子と硝子を填めた藤製のテェブルだったが、先生の部屋は、ソファと二重硝子のテェブルで、下の硝子に貝殻と化石の魚が彫ってあった。そのテェブルの上に、お皿に載ったケェキが置いてある。
肌目の細かい、泡立てた石鹸のようなレモンのムゥスの上に、プラスチックか、砕いた硝子を熱して溶かしている途中で、冷えて再び固まったような、グレェプフルウツのゼリィが載っている。二層式の、グレェプフルウツの粒々入りの色のゼリィの上に、ミントの葉があしらってあった。
先生が、すぐには出てきそうにない気配を感じて、僕はちょっと迷ったものの、先に自分のケェキを食べてしまった。ケェキは甘さ控え目で、さっぱりしていて、なかなかおいしかったが、ゼリィとムゥスだけなので、僕には少し物足りなく感じられた。
僕は、フルゥツジュウスの残りのまた半分を飲み、バスルゥムの扉のドアノブをジッと見つめた。ノブは動きそうにない。アイス珈琲のグラスには、露が浮かんでいる。
黄色のフェルトのような柔らかいスポンジは、透明なシロップを含んで、蜂蜜のたっぷりと詰まった蜂の巣を切った途端、蜜が溢れるように、トロリと溶けそうだった。
僕は更に迷った後、先生が、僕が食べられるようにと選んでくれたマンゴォケェキを一口フォオクで切って、口に放り込んだ。南国の果物独特の味と、シロップの甘みに、僕はホクホク顔になった。
先生に、レモンとグレェプフルウツのケェキを上げて、僕がマンゴォケェキを食べれば良かったんだと、遅ればせながら思う。マンゴォケェキは甘さと言い、スポンジのしっとり感と言い、申し分なかったが、先生には少し甘過ぎただろう。
先生は、甘い物が苦手と言う訳ではないが、普段はそれ程甘い物は召し上がらない。先生がいれば、先生はきっと僕にマンゴォケェキを譲ってくれただろう。僕はそう思いながら、一口また一口と先生の分のケェキを食べていった。
気付いた時にはケェキは跡方もなく、お皿の上から消えていた。行った先は勿論、僕のお腹の中だ。先生の了解も得ずに勝手にケェキを全部食べてしまうと、流石に僕も少し後ろめたい気持ちになった。
今、先生が現れてこのことを知っても、先生はいつもの僕が大好きな笑顔を浮かべて、いいんですよと仰ってくれることは分かっている。僕は、残っていたジュウスを飲み干すとソファから立ち上がった。
バスルゥムの扉をノックして、先生の返事を待つ。待っても答えがないので、ソッと開けて中を覗いてみた。この部屋のバスルゥムの床は、黒や白や灰色の石の形のタイル貼りだった。ところどころには、貝殻の形のタイルも埋め込んである。こちらも、なかなか面白い。
浴槽は大理石で、壁にはクラゲの絵が描いてあった。クラゲはちょっとなと僕は思ったが、肝心の先生の姿は、バスルゥムにもなかった。いないのだから、水音一つ気配一つしないのも当り前だ。
僕は、ドアをパタンと閉めた。
先生は、一体どこに行ってしまわれたのだろう。それも、僕に一言も言わずに。僕は先生に一言も言わずに、先生の分のケェキを食べたことは棚に上げて、膨れて唇を尖らせた。
「先生ってば、ひどい。僕を待たずに、一人でさっさと他の部屋を見に行くなんて。まあ、いいか。すぐに先生なら見つけ出せるか。それに幾ら何でも僕だって、ホテルの中で迷子になったりしないもんね」
僕はそう言うと、部屋を出て先生を探すことにした。僕は扉まで部屋を横切ろうとして、ふと立ち止まった。
部屋の壁に描かれた、ピンクや茶色のウミユリが波に踊り、おいでおいででもするように、動いたように見えたのだ。勿論、揺れているように見えたのは、目の錯覚か気の所為に違いない。絵が、動いたりする訳がない。僕は、もう気にせずに部屋を後にした。
一応手始めに僕は、同じ二階の空き室を覗いてみたが、そこに先生の姿はなかった。しかし、僕には当てならあったのだ。先生は学問の徒と言っても、決して頭の固い人間ではない。それどころか子供の僕より、ずっと色々なものに興味を持ち、一つのことに熱中されるところがある。そして学問だけでなく、先生は芸術にも造詣が深い。きっと四階に長期滞在していると言う、作曲家の元を訪ねてみえているに違いない。
もしかしたら先生は、僕が粗相をするといけないと思って、僕に黙って挨拶に行かれたのかも知れない。それだと僕が行くと、先生の気遣いが台無しになる可能性がある。しかし、例えそうであっても、僕は先生の助手(本当は、荷物持ちだけど)として、先生の行く所ならどこへでも、お邪魔するつもりでいる。
僕は、迷うことなく四階まで螺旋階段を上がって行った。階段を上る途中、三階の廊下を見たが、三階の廊下は、ありとあらゆる種類の熱帯魚の群れが描いてあって、花畑のようだった。打って変わって四階の廊下の絵は、巨大なイカが帆船に絡み着こうとしている、危機迫る絵柄になっていた。
もし、それが写実的な絵であれば、さぞかし不気味だったろうと思いながら、僕は四階に立った。僕は、閉じているドアをノックしてみるつもりでいたが、四階にある三つの部屋の扉は、どれも開いていた。
そして一つの扉の向こうからは、雑音のするラジオから、気怠い古い外国の音楽が聞こえていた。それとともに、揺り椅子の揺れる音もしている。その部屋が作曲家の部屋で、まず間違いないだろう。僕は、その部屋に近付くと、中に声を掛けようとした。
途端に音楽が消え、椅子の軋む音も止まった。僕は、済みませんと言いながら部屋を覗いてみたが、部屋に人の気配はなかった。
僕は勇気を奮うと、失礼しますと言ってから、部屋に歩を進める。扉に背を向けて置かれている揺り椅子は、覗くまでもなく空っぽだった。揺り椅子に置かれたクッションは、今まで誰か座っていた訳ではないことを示すように凹んでもいなかったし、触れたところで、温もり一つ残っていなかった。
開いたままの窓から温い風が入ってきて、白いレェスのカアテンを揺らしている。部屋には、白い砂のように絨毯が敷いてあり、壁は、水族館の窓か汽車の窓のように、薄い青色に塗られた四角に切りとられ、その一つ一つの窓からは、水没した都市や、木々の姿が見えていた。柱や、奇妙な形の像の間を、銀色の魚が泳いでいる様子は神秘的だ。
揺り椅子の横には、木のテェブルがあり、数枚の楽譜の上に重し代わりにパイプが載せてあった。風が入ってくる度に、楽譜の端がめくれて微かな音を立てる他は、何の音もしなかった。
このホテルに長い間滞在していると言うのは本当らしく、ホテルと言うより、家のような親密な雰囲気が部屋には漂っている。サイドボォドには、ラジオも置いてあったが、ウンともスンとも言わなかった。部屋の主の姿はどこにもなく、先生の姿もない。
僕は、訳の分からないまま部屋を後にした。僕は三階へと降りかけたが、その途端、またラジオと揺り椅子の音が聞こえてきたのだ。
僕は階段を駆け上ると、先程の部屋に駆け込んだ。僕が、部屋に足を踏み入れた途端、音楽はプッツリ途切れ、揺り椅子も動いてはいなかった。勿論、人の姿もない。
僕は、無言のままバスルゥムの扉に飛びつくと、声も掛けずに扉を大きく開けた。バスルゥムは天井も壁も床も藍色一色で、夜の海を表していた。それは確かで、天井の片隅に、波間で砕けた満月が描いてあった。
よく見ると、藍色の地に白い水玉が、一杯浮かんでいた。きっと、その白い点々はサンゴの産卵なのだろうが、星でも散りばめたようにも見える。
そのバスルゥムにも、誰もいなかった。元々人がいる筈がない。たったあれだけの時間で、隠れる暇なんかある訳ないのだ。僕は、何だか気味悪くなって部屋を出ると、ラジオの音も、揺り椅子の軋みも聞かないように、慌てて階段を駆け降りて三階に行った。
少し長いかと、前後編に分けました。後編は、明日更新します。