幻影鉄道
汽車の旅に、お弁当やお菓子は欠かせない。
駅の販売所で、あれやこれやと汽車の中で食べるお菓子を選ぶのも楽しみの一つだ。チョコレェトにビスケット、飴やチュウイングガム、ラムネ菓子。飲み物だって、炭酸水や苹果水、薄荷水と目移りしてしまう。
どれとどれを選ぶかに時間がかかってしまい、先生に苦笑しながら汽車に乗り遅れますよと嗜められることも、暫々だった。
一度など、僕が時間に遅れた所為で、一日に二便しか汽車が停まらない駅で汽車を逃して、駅舎以外何もない山奥で先生と僕二人、ポツンと半日以上、ベンチで次の汽車を待つ羽目になったこともあった。
僕の所為にも関わらず先生は文句一つ仰らず、たまにはこう言うのもいいでしょうと、ベンチに座って小鳥の囀りを聞いていた。僕と先生は、日和も良かった為に居眠りしてしまい、汽車が到着したことに気付かなかった。汽車の乗務員さんが、気を利かせて僕達を起こしてくれなければ、次の汽車までどれだけ待つことになったか分からない。
僕らの言う汽車は、不安定で不確定な幻想第四次空間同士を繋ぐ、空間移動用の鉄道のことだ。幻想第四次空間を走る軽便鉄道のことを、先生は『銀河鉄道』と命名して呼んでおられる。幻影鉄道と言う本来の名前もそうだが、先生の付けた『銀河鉄道』と言う名称も、よく状況を表していると言えた。
汽車に乗って窓の外を眺めていると、車窓から、幾つもの世界が後ろに流れていくのを見ることができる。
歩き回っている時には、いつの間にか別の世界に移動していて、移動している瞬間と言うのは感じられないものだけれど、空間から空間へと移動する汽車に乗っている時は、本当にこの世界が多重構造をしていることが分かる。
一つ一つの世界は、まるで宇宙に散らばる惑星や塵のようなのだ。世界を銀河に比定して、その中を走る鉄道を『銀河鉄道』と先生は名付けられたのだ。とても詩的で、これ以上ぴったりな名前はないだろう。
僕は、窓際の席に陣どっていた。僕の前の席には、農夫と思しき中年の男の人が座っていて、先生は僕の隣で、鉛筆片手にメモに向き合っていた。僕が先生に、そろそろお昼にしませんかと言うと、先生はメモに視線を向けたまま生返事を返してこられた。
先生の頭は、公式や図形で一杯なのだろう。僕は、こんな時は放っておくしかないことを、よく知っていた。僕は、先に一人で昼食にする。
ホテル〈西海岸〉で用意してもらった、昼食用のサンドウイッチの包みを、皮嚢からとり出す。膝の上で、僕は包みを解いた。玉子、チィズとハム、トマトとサラダ菜、ツナと玉葱とカツのサンドウイッチの五種類に、ピクルスの小瓶も用意してくれてあった。
僕は、満足してにんまりと笑った。
膝の上で店を広げて僕は一人悦に入っていて、さてどれから食べようかと思って、ふと目を上げると、農夫のおじさんと目が合ってしまった。僕は、一種迷ったものの、気前のいいところを見せて、男性に向かって、
「一つ、いかがですか?」
と、聞いた。農夫は、辞退する素振り一つ見せず、嬉しそうに微笑むと、有難うと言って玉子サンドを一つつまんだ。僕は、ツナをとった。人参とセロリのピクルスを、楊子で刺して、ポリポリと噛んだ。
先生は、僕が食事をしていることにも気付いていない。夢中になると先生は、周囲のことが目に入らなくなる。僕は、日持ちがするチーズとハムのサンドウィッチを、小腹が空いた時の為に残しておくことにした。
僕が食べ終わるのを見計らったように農夫のおじさんは、隣に置いていたバスケットから包みをとり出して、僕に差し出してきた。
「サンドウィッチのお返しに、アップルパイはどうです。私の家で出来た苹果で、家内が作ったものなんです。デサァトに」
僕は、勿論断ったりせずに、満面に喜色を浮かべて、ナプキンに包まれた一切れのパイを受けとった。甘い物は入るところが違うと言う通り、僕のお腹もデザァトなら幾らでも入る余裕があった。ナプキンをめくると、長方形の包みパイが現れた。まだ作られてそれ程時間が経っていないのか、パイには仄かな温もりがある。
程良く焼けた狐色の皮、薄いパイの皮は、かんなで削った木の皮を、何層も積み重ねたかのようだ。切り込みを入れた部分から、中に詰められたザク切りの苹果の入ったジャムが見えている。
透明な小さな気泡の混じった蜂蜜色のジャムは、琥珀のようだ。アップルパイは、ツヤツヤした色硝子で出来ているかのようだった。食べるのが勿体ない程だが、僕は大口を開けて、アップルパイにかぶりついた。パリパリの香ばしいパイの皮と、苹果のジャムの僅かに酸味のある甘みが、口一杯に広がる。カスタァドクリィムは滑らかで、舌触りも良かった。
僕がアップルパイを食べていると、先生が顔を上げて不思議そうに呟かれた。
「苹果の匂い」
ようやく、先生は正気に立ち戻られた。正気に戻った途端、先生はお腹が空いていることに、気が付かれたようだ。それを見てとって、農夫のおじさんはバスケットを開けると、アップルパイを先生にも勧めた。
「お一つ、いかがです」
先生は、僕程甘い物に目がない訳ではないが、そのアップルパイには魅かれたようだ。農夫のおじさんは、僕に言ったのと同じ、家で出来た苹果で、家内が作ったアップルパイだと説明した。先生が、先程の話を全く聞いていなかったことを、見抜いていたようだ。 先生は、そうなんですかと感嘆したように相槌を打つと、男の人からアップルパイを受けとった。
「お気遣い有難う。では、遠慮なく戴きます」
先生は、アップルパイを一口噛じると、僕と同じように目を大きく見開かれた。農夫のおじさんは、まるで自分のことのように幸せそうな顔で、アップルパイを食べている先生を見ている。先生は、アップルパイをすっかり平らげると、ナプキンで口を拭ってから、農夫のおじさんに、
「あなたの奥さんのお菓子作りの腕もさることながら、とてもいい苹果ですね」
お世辞でも何でもない、心からの賛辞だ。僕も、先生の意見に賛成だ。使っている苹果のジャムは、材料がいい為、上等な出来になっている。
「この辺りでは、苹果は、勝手にできるのですよ」
農夫は誉められて、嬉しそうに日焼けした顔を綻ばせた。農夫の口振りは、謙遜した訳でも何でもなく、事実を事実として述べたような感じだった。僕と先生が、アップルパイを食べ終わった後も、辺りは苹果の匂いで一杯だった。
鉄道の旅のいいところは、見知らぬ人達と、僅かな時間にしても、交流できることにある。汽車に乗り合わせた人々は皆、気さくで、子供の僕に気前よく持っているガムや、お弁当の中身をくれたりする。
前には、飴売りが隣に座ったことがあって、その細工飴売りは、売り物の飴を僕にくれたのだった。一つ一つが精工に作られた細工飴の中から、僕が選んだ飴は、白鷺が羽を広げている形の飴だった。
僕は、自分からどうですかと、自分の持っているお菓子を人に勧めるのが苦手だ。僕は相手に嫌がられたらどうしようとか、自分の一番の好物をとられたらどうしようなんて、ケチ臭いことを考えてしまったりする。
坊や、これをお取りなんて、ラムネ玉やオレンジを、手の平に載せてくれる人の様子を見るにつけ、僕は出し惜しみをしてしまう自分を、恥ずかしく思う。玉子のサンドウィッチの代わりに、アップルパイを貰ったからこう言うのではないが、僕は農夫のおじさんに、お一つどうぞと言ったのは正解だったと思った。
「今日は、どちらに向かわれるおつもりですか」
切符を拝見と言って、現れた汽車の乗務員さんが、先生にそう話しかけた。先生は、窓の外を眺めていた目を戻して、スウツのポケットから切符をとり出して、乗務員の男の人に見せた。既に、僕と先生にアップルパイをくれた農夫の男の人は、私はここで降ります、友達に会う約束なんでねと言って、駅で降りてしまった後だった。
「うん。『白鳥の停車場』まで行こうかと思っているんだ」
先生の手にある切符も、僕のと同じで緑色だ。乗務員さんは、切符を改めて一つ頷くと。
「それは、ようございます。あの辺は、安定しておりますから」
そして。
「『白鳥の停車場』でしたら、午後三時丁度に、到着いたします」
最後にそれだけ言って、他の乗客の切符を改めに行った。
とうもろこし畑、川原、なだらかな丘や、汽車から見える風景は、次から次へと変わっていく。乗る度に、違った風景と出合えるのも、幻影鉄道での旅のいいところだ。知らない沢山の街や町と、どこかで見たことのあるような町。汽車から、別の時にも見かけたことがあるのか、単にそんな気がするだけなのか。
汽車は、無限にある様々な世界の側を、はたまた中を、遠く近く、または近く遠くに、眺めながら駆けていく。世界は星の数程あって、僕が一生旅をしても、全ての世界を回り切ることはできないだろう。新しい世界が、今だって一つまた一つと、生まれているに違いないのだから。
別の世界である証拠に、窓の外の景色は、昼と夜が目まぐるしく入れ替わる。天気も、晴れだったり雨だったり、かと思えば雪だったり。僕は、小さい子供のように窓に張りついているし、先生は、手帳にスケッチをしたりメモをとるのに忙しい。
明滅する汽車の車室の電灯。甲虫の影が、怪物のように広がっていたかと思うと、それもいつの間にか消えていた。駅で停車する度に、乗り降りする知らない人々。楽しげなざわめき、お喋りや、人々のさざめき。『銀河ステイション』、『ポランの広場前』。駅名を読み上げる声。
僕の耳に、ふと水が注ぎ込まれるように、入ってきた言葉があった。そこだけしか聞こえなかったので、脈絡は分からないが、僕の心にその言葉は、やけによく響いた。
『・・・ネルラ、僕たち、どこまでも一緒に行こうね』
僕と、そう変わらない少年の声と、クスクスと楽しげに笑う少年達の、笑い声が聞こえたが、それはすぐに他の物音に掻き消されて、聞こえなくなった。僕は、もう一度彼らの声が聞こえないかと思ったが、もう声は聞こえなかった。どこまでも、一緒に。僕は、その言葉を噛みしめた。先生、僕達も、どこまでも一緒に行きましょうね。その時、先生の声が僕を現実に引き戻した。
「ラジニ君、降りますよ」
いつの間にか、『白鳥の停車場』だった。僕は、元気よく返事をして皮嚢を背負うと、忘れ物やゴミを落としていないかをチェックした。一瞬、窓に自分の影ではなく、ちらりと三毛猫の姿を見たような気がした。その場に足を止めてしまいそうになるのを振りきって僕は、ひと足先にホゥムを歩いて行く先生の後を追った。
僕は頭の中から、三毛猫の姿を締め出した。僕が誰でも、先生が誰でも構わなかった。
いつまでも何処までも、一緒に行けさえすれば、それでよかった。
それだけで、よかったのだ。