見えない鳥たち*挿絵付き
先生は、ふと足を止めると、
「やっぱりだ」
と、仰られた。何が、やっぱりなのかと僕が問うと先生は、ずっと以前に小旅行で、この辺りに来たことがあるのだと答えられた。懐かしいですねと言仰いながら、先生は目を細めておられる。
石畳の舗道の敷かれた異国風の町並みは、僕には覚えのないものだった。その癖、変に懐かしい気がしたのはなぜだろう。
先生と僕は、今晩の宿を探しているところだった。
知らない土地に出喰わすと、宿を拠点にして足場を固めて、それからこの不確定な空間の座標軸を確定するのが、いつもの先生のやり方だ。その方法で、先生は少しずつ行動半径を広げていく。鉱石亭やサイタオ飯店、ル・ラタンのような店も、そのようにして見つけたもので、一旦座標軸が確定すれば、後は僅かなズレを修復するだけで、思う場所に出ることができる。
但し、座標軸を定めたのに、見つけられなくなる場所もある。
僕と先生がいる世界は、多重構造の入れ子式宇宙のようなもので、膨張を続けているだけでなく、新しい星が生まれるように、沢山の世界が次々と現れていく。
全ては、変動している。だから、もしかしたらホテル『ノスタルジア』や、喫茶店『カフェ・ド・ミニヨン』、小料理屋『熊猫軒』といった店のある街や、町には二度と行くことができないのかも知れない。
例え、座標点が変わってしまっても、その場所に行きたいとずっと願っていれば、いつか必ず辿り着くことができると、先生は常々そう言っておられる。
だからこそ、ここは幻想第四次空間なのだ。そして、宿を探していて、思わぬ見つけ物ができるのも、やはり、ここが幻想第四次空間だからこそだろう。
「私が前に来た時も、ちょうど年に一度のお祭りの時でしてね。お祭りのある間中、一週間も滞在したにも関わらず、うっかりしていて泊まっていた宿の座標軸を記した紙を失くしてしまったんです。私達はとても運がいいようですよ。またしても、お祭りの時に来合わせるなんてね」
先生の仰る通り、町はその年に一度とか言うお祭りで、活気付いていた。
町の中心を走るメインストリィトは、様々な露店が溢れていて、人熱れで一杯だった。僕も先生も、普段は人込みと見ると避ける方向にあったけれど、その時ばかりは先生は、道を変えようとは仰らなかった。
僕も浮き立って迷子にならないよう、右手で先生の柳のトランクを、左手で先生の袖口を掴んでいた。
「先生、もしかして前に先生が仰られていた、ケンタウルス祭なのですか」
僕は、期待して先生にそう聞いた。いつか先生が話してくれたケンタウルス祭は、夜に行われる非常に幻想的で魅惑的な祭りだと言うことだ。
「いいえ、違います。ケンタウルス祭は時期も違いますし、もっと遠くの街のお祭りです。ここで行われるのは、鳥祭りと言うもので、一年の健康や願いを込めて、祭りの最後の日に鳥を放すんです」
僕は、ふぅんと先生の言葉に相槌を打ったが、その声からも分かる通り、先生の言葉に満足した訳ではなかった。鳥を放すより、川に火を入れた烏瓜を流す方が、ずっと面白そうだと僕は思っていたのだ。
ケンタウルス祭でなかったことで、僕はがっかりしていた。しかし先生の方は、すっかり興奮しておられるようで、僕の気乗りしない様子には、気付かなかった。
人の波に乗るようにして僕と先生は、気に入った露店の前で足を止めて見入ったり、興を引かれた物を買ったりしていたが、空の大きな鳥カゴが、幾つも置かれた店を目にした途端、先生は足を早めてその店に一直線に進んで行かれた。カゴは全て空で、何の生き物も入っていない。
行商人は、通りに背を向けて、カゴを片付けているところだった。先生が、背中を向いていた男に、鳥はまだいますかと聞くと、振り返った露店の男は、申し訳なさそうな顔になった。
「最後に残っていた鳥もさっき売れてしまって、店を畳んで、私も祭り見物に出るところなんです」
その露店は、空のカゴには、鳥が入っていたのだ。祭りで放す鳥を、売っていたのだ。鳥売りの行商人は、先生が手にしている柳のトランク――僕が買ったお菓子を持っていられるよう、先生が鞄を引きとって下さったのだ――を見ると、旅行者と分かったようだ。
「ああ、旅の途中でせっかくお立ち寄り戴いたと言うのに、残念なことです。鳥を出していた店で鳥が残っていたのは、うちが、もう最後だったんです。今日で祭りは最終日ですから」
それを聞くと先生は、とても残念そうにされた。
「ああ、後一日早ければ、今回も鳥を放すことができて、ラジニ君にも、いい経験をさせて上げられたでしょうに」
ラジニと言うのは、勿論僕の名前だ。僕はただ、鳥を放すことがどんな経験になるのかと、鳥がいなかったことにも些程落胆は覚えなかった。しかし鳥売りの行商人は、惜しいことをしたねとでも言うような目で僕を見ながら、気持ちを引き立てるかのように、朗らかな声で、
「でも、鳥を放すのを見るだけでも、十分ここに来た甲斐はありますからね」
と、言った。鳥売りの言葉に、先生は曖昧に笑われただけだ。先生の顔色から、見るだけではねという思いが汲みとれた。そもそも、鳥売りの男自身も、鳥を放してこそだと思っているのかして、男の言葉は大した慰めになっていなかった。
先生は、空っぽの鳥カゴしかない露店から離れた。その後、鳥売りの言った通り、鳥カゴを並べている露店は一軒も見つけることはできなかった。先生はどうだか知らないが、僕は様々な露店を眺めるだけで十分楽しかった。但し、それも暫くの間のことだ。
道をどんどん行く内に僕と先生は、小さなカゴに色とりどりの小鳥を入れた人達に行き会うようになった。竹ヒゴで作られた四角いカゴを持った人達は、とても満足そうな、そして得意げな顔を一様にしていた。
カゴも小さいが、中に入っている生き物も、とても小さかった。カゴに入れられて底に踞っているのは、子供の手の平に乗るぐらいの小さな鳥だ。露店で鳥売りが売っていたのはそれらの鳥で、この後鳥を放すことになっているのだろう。
カゴの中に入れられた青や緑や黄色の鳥達を見るにつけ、僕は鳥を買うことができた彼らを少し妬ましく思った。
カゴを持った人々は、少しずつ増えていく。皆、同じ方向に向かっていて、僕と先生も流されるまま、彼らと同じ進路をとっていた。
歩いていく内に、店が出ていないぽっかり空いた場所に、何人かの子供達が固まっているのに出喰わした。子供同士、誘いあって出かけようとしている、微笑ましい光景かと思っていたら、そうでもないようだ。
何人かの子供達に囲まれて、一人の男の子が立っている。みんな、手に手に鳥の入ったカゴを持っているが、その男の子だけは、途方に暮れたように、空のカゴを手にして立っていた。
男の子は、周囲の子供達から囃されていた。からかわれているのを見て可愛そうになって、何を言われているのかと僕が近付くと、子供達は、潮が引くように騒ぎながら行ってしまった。
からかわれていた男の子だけは、空の竹のカゴを胸に抱くようにして、ポツンと立っている。僕よりも、年は下だ。
男の子は、泣いたりしていなかった。代わりにボウッとしていて、からかわれていたのにも、僕が側に来たことにも気付いていないように見えた。
僕が、その男の子の空の鳥カゴを見て同情して、鳥を逃がしてしまったのかいと聞いた途端、その男の子は、ワッとばかりに泣き出してしまった。僕は、悪いことを言ってしまったらしい。
僕は、先生に買ってもらった、お祭りの名物になっているらしい飴を分けて上げて、泣かせたお詫びをすることにした。
その飴は、大人の親指程の太さがある透明な物で、飴の中に、星型や鳥の形の砂糖をまぶしたゼリィや金米糖が入っていて、氷飴と言う名前で売られていた。
冬場に、色紙や葉っぱ入りの氷を作ったことがある人なら、どんな具合かすぐに想像できるだろう。しかし氷飴は、氷の中に閉じ込めたと言うより、水晶の棒に、赤や青の細工をした宝石がちりばめられているかのようだった。
露店の味見用のを一つつまんで食べてみて、僕はすっかりその氷飴が気に入り、僕は珍しく先生にねだって、氷飴を一本買ってもらった。一本も食べられないと思うかも知れないけれど、氷飴は雪か何かのように、一瞬でスッと口の中で溶けてしまう。
溶けた後、薄荷ではなく、ほんのりとした甘みが舌先に残るのも良かった。
氷飴は、それこそ、一つとして同じ物はない。一本一本中に入っている具や形、状態が違うので、僕は勿体なくて、買ってもらったものの、食べられずにずっと持っていたのだった。
氷飴は半分に割れなくて、片方がちょっと大きくって片方がちょっと小さくなってしまった。僕は、小さい方を渡す訳にもいかなくなって、その男の子に好きな方を選んでもらうことにした。
男の子は、ちゃんと大きい方をとった。僕が、少しがっかりしたのは、言うまでもない。
「早くに買えなくて、それで、今日になったのですか」
先生の言った言葉の意味は、僕にはよく分からなかった。
逃がしたのではなく、お金が足りずに買えなくて今日になってしまい、結局鳥は売り切れた後だったとでも言うのだろうか。先生は、僕にもだけれど、小さな子供だからと言って、子供扱いした話し方は決してなさらない。
ちょっと緊張するけど、自分が一人の人間として認められている感じて、誇らしい気持ちになる。その男の子も、同じだったようだ。男の子は、泣いたばかりの顔で、右手に氷飴、左手にカゴを持ってはにかんだように、お祭りの最初の日ですと答えた。
先生は、その返事を聞くと、男の子を労るように見つめた。先生の優しい瞳に出合って、男の子はまた目を潤ませた。そして、またしても泣き出しそうな声で、
「今年は、頑張ってお小遣いを貯めて買ったのに」
俯いた男の子の視線の先に、空の鳥カゴがある。先生はそれを見ていたが、突然たった今思いついたとでも言うように、
「そうだ、ラジニ君、手伝ってあげたらどうです」
と、明るい声を上げられた。先生に言われて僕は何も考えずに、ええ、いいですよと答えていた。先生に言われたことなら、子守りだろうが、何だって厭わない。僕には、その男の子に似た年頃の弟もいた。
僕が先生と、殆ど行き当たりばったりで旅に出てしまった頃、弟は甘えん坊で母親にべったりだったが、今やりとりしている手紙の様子では、母親から離されて、子供のいない大叔母さんの許で元気にしているらしい。
男の子は、少し気分が明るくなったようだが、不思議そうに、鳥は買わなかったのと聞いてきた。先生が、
「私達は、さっき、この町に来たばかりの旅行者で、鳥を買い損ねてしまったんです」
と答えると、すっかり疑いも解けたようだ。
男の子は、目を輝かせたかと思うと、僕に向かって聞いて来た。
「お兄ちゃん、本当に、手伝ってくれる?」
こんなに頼りにされては、嫌とは言えない。男の子の気持ちに応えて上げたくて、今度は、僕はいいよと答えていた。男の子は、とても嬉しそうな顔をしたが、
「じゃあ、僕とお兄ちゃんの鳥ってことにしてもいいよ」
なんて、小憎らしいことを言ってのけた。可愛くないチビだなと思った僕は、さっきから不思議に思っていたことを、口にしようとした。
「でも、鳥なんて、どこ」
先生が、素早く僕の口を手で塞いで言葉を出せないようにした。先生が、そんな強引な行動に出るのは初めてで、僕はすっかり頭が混乱してしまった。
先生は、鳥なんかいないじゃないかと思うより前に、僕に向かって、カゴの中にはちゃんと鳥がいるんですと、強い調子で仰った。先生はすぐに、塞いでいた僕の口から手を離したけれども、僕はポカンとしていた。先生は、カゴの中をジッと見つめていたかと思うと、ごく当り前の調子で、仰った。
「君の鳥は、おや、赤い鳥なんですね」
男の子は、パッと顔を輝かせ、僕は反対に、訝る顔になった。
「見えるの」
興奮したような男の子に聞かれて、先生はいつもの優しい笑みを浮かべられて、
「ええ、青い空にきっとよく映えて、他の鳥と見間違うことはないでしょうね」
と、穏やかな返事を返された。男の子は、顔を真っ赤に上気させて憑かれたように、
「赤くて、喉の下の羽が毛羽だっていて、それが、煙みたいにフワフワしたピンク色の毛羽なんだ」
と、言った。僕の頭の中に、煙のように赤い鳥の輪郭が浮かび上がる。
先生は、夢見るような男の子の状態を壊さないように、囁くようにして、
「全身、ただの真っ赤じゃないね」
男の子は、その通りだと頷いたが、その目は先生を見ていなかった。
「羽は、赤と薄い紅色が交互に入ってる」
僕の脳裏に浮かぶ鳥の姿が、だんだんはっきりしてくる。男の子は、そのまま言葉を続けようとした。
「嘴は」
僕は、男の子の言葉を遮って、大きな声を出していた。
「嘴は黄色だ。文鳥のような嘴で、根元の方はオレンジ色」
男の子は、その通りなんだと言うように、嬉しそうに何度も頷いた。僕には、その鳥の姿が目に見えるかのようだった。僕も、男の子も黙って、その美しい鳥のことを考えていた。
足は嘴と同じ色で、目は黒で、目の周囲の皮膚は白、爪は半透明。尾羽は、ヒラヒラ長くなくって短くて、身体はどちらかと言うと、ずんぐりしてる。踞る姿は、さだめしお手玉かお団子のようだ。
想像しながら僕と男の子は、真っ赤なお団子のようになった小鳥を思って、クフフと笑った。大人しくって、それでも飛ぶ時は、パタパタと可愛らしく飛ぶのだ。切り裂くような鋭さはないけれど、優雅とは呼べないけれど、一生懸命飛んでいくのだ。
「あっ」
僕と男の子は、同時に声を上げていた。空っぽだった鳥カゴの中から、赤い小鳥が、黒い目できょとんと僕と男の子を見上げていた。
僕も男の子も、いつの間にか顔を寄せ合うようにして、鳥カゴを覗いていたのだ。
カゴの底では、赤くて翼が赤と薄い紅色に色分けされていて、喉元に毛羽立ったピンク色の柔毛がファアのようで、根元から先にオレンジから黄色に変わる太い嘴を持った、尾羽の短いずんぐりとした鳥が、お団子のようになって踞っていた。
想像した通りの鳥が、想像ではなく本当にカゴの中にはいた。まるで初めから、いなかったことなんてなかったかのようだ。男の子は満足そうな、それでいて誇らしげな顔で僕を見て、
「僕らの鳥だね」
男の子の手元が狂って、カゴが斜めを向いた。突然足場が揺れて小鳥は、よろけた。その時に見えた鳥の足は嘴と同じ色で、足先には半透明のちっちゃな爪がついていた。
僕も、心からの満足と誇らしさを抱えて、男の子に向かって頷き返した。
その後、僕と男の子は、小鳥の入ったカゴを持って、意気揚々と鳥を放す丘まで歩いて行った。僕らが着いた時には、既に沢山の人が集まっていて、端っこの方しか場所が空いていなかった。
拡声器を使って、お祭りの最後のメインイベントを行う指揮をとっている声は、あまりよく聞こえなかった。それでも、吹奏楽のファンファアレが鳴り響いた瞬間、鳥カゴを持って丘に集まっていた人達は、一斉にカゴの蓋を開けたのだった。
僕がカゴを持ち、男の子がカゴから小鳥をそっと出して、小鳥を空へと投げ上げた。
人々の手から投げ上げられた小鳥達は空に向かって、あるものは一直線に、あるものは悠々と、あるものは旋回しながら、羽ばたいていった。
色とりどりの小鳥達が、紙吹雪のように飛んでいく光景は、信じられない程美しかった。
僕と男の子の赤い小鳥は、一生懸命に空に上っていった。僕も男の子も先生も、小鳥達が点のようになって見えなくなってしまうまで、その場を離れられなかった。僕も、首が痛くなっても、最後まで見送ることをやめなかった。他の人達も、同じ気分だったようだ。
小鳥が見えなくなって初めて、ようやく人々は、丘から立ち去り始めた。
例え、何度経験したって、小鳥を放す度に新鮮な感動と新鮮な喜びを感じられる筈だ。小鳥達は、その人、その人にとってかけがえのないものだからだ。
僕は、本当にすばらしい体験をさせてもらった。僕に、小鳥を放す機会をくれた男の子なのだが、僕と先生は帰りの人込みの中ではぐれてしまって、気が付けば全く違う町に、僕は先生と二人、立っていたのだった。先生は、またしても座標軸をとり損ねたことを悔しがられた。
それでも願っていれば、忘れずにいる限り、僕も先生も、またあの町に辿り着くことができるだろう。更に、我が侭を言えば、お祭りの最初の日に間に合うことを、願ってやまない。
結局、あの男の子の名前すら聞かずに、別れ別れになってしまったのが、少し残念と言えば、残念だった。
あの町と鳥祭りの思い出になるものは、僕の頭の中にしかない。氷飴は、男の子と丘に行くまでに、食べてしまったからだ。あの不思議な味が懐かしくても、実際に口にすることはできない。
空に飛び立った鳥のように、淡雪のように消え去ってしまった。それでも、僕は、頭の中にありありとその時の状況を思い描ける。そして、思い出す度に僕の口の中には、ほんのり甘い不思議な口溶けの氷飴や、カゴの中で僕を見ていた小鳥の目や、撫でた時の温もりと手ごたえを、確かに感じることができるのだ。
実際に、見たり触れたり感じたりしているのと、代わらない程確かに、僕達は想像することができるのだ。
その時の出来事を通じて、先生が普段から仰っておられたことが、ようやく僕にも分かってきたようだった。
「目に見えないからと言って、存在しない訳じゃないんです。幻影や夢や偽物でも嘘物でもない、手で触れて見ることのできるものなんです。思う力の強さによって、幻影は影でも幻でもない、現実となるのです」
見えないものでも、あるのだ。信じることさえ、忘れなければいい。ないと思ったら、本当に失くなってしまう。でも・・・・。
見えなくても、あるんですよね。ね、先生。