1. シン・セラ と クォン・ハヨン
午後二時半。昼休みはとうに過ぎているというのに、カフェにはまだ人が多かった。
普通なら会社の近くともなれば、昼休みが終わって誰もが仕事に戻っている時間帯だ。
それなのに、この場所には人が多かった。
騒がしく耳障りな流行歌ではなく、低く静かなピアノの旋律がスピーカーから流れている。
まさに食事を終え、眠気に身を任せるにはちょうどいい空気と時間だった。
子守唄のようなそのメロディーは、そんな午後によく似合っていた。
友人が、まるで店内を揺らすかのような声で叫んだ。今日も相当機嫌が悪いらしい。
「本当に」という言葉を三回も繰り返して叫ぶなんて……。
シン・セラ。
名前に似合うように、自分の境遇でも嘆いているかのようだった。
いつものように俺を呼び出しておきながら、結局は自分の気分をぶつけるだけだった。
「もう、呆れてものも言えないんだけど……。望むにしたって、もう少しまともなこと望めばいいじゃない! それに、自分が何様のつもり? 人のタイプにあれこれ口出しして。そう思わない? ねえ、そうでしょ? クォン・ハヨン?」
もうすでに頭痛が俺を迎えに来ていた。
「だからさ、そんなこと――もうそういうのはやめなって。俺みたいにちゃんとした仕事を探しなさい!」
「ねえ、そう思わない? あんたに聞いてるんだけど? 私の話、ちゃんと聞いてる? 昨日は本当に! 本当に! 本当に最悪な日だったんだから!」
話してみろと言っても、何があったのか説明するわけでもなく、ただ自分の感情だけをぶつけている。
いったい何を話したくて、何を会話したいのか。
もどかしくなった俺は、低い声で言い返した。
「だからさ! セラ、お前の言う『最悪な日』なんて、一日や二日の話じゃないだろ。ほとんど毎日そうじゃないか! 毎日!」
俺の言葉が終わると、セラは黙ったまま俺の顔を見つめた。
表情は少しも変わらない。
ただ、テーブルの上に置かれたアイスコーヒーのグラスを手に取っただけだった。
「だから俺が言いたいのは! 全部、セラのことを思って言ってるってこと、分かるだろ?」
そう言った瞬間、セラの表情が歪んだ。
「クォン・ハヨン、あんた今なんて言った? 私のためを思って言った? ……本気でそう言ってるの?」
「そうだよ。そもそも、そんなことをしてるセラ、お前だって悪いんだ!」
昨日何があったのか、その詳しい事情までは知らない。
けれど、彼女の仕事柄、だいたい何があったのかくらいは想像できた。
「へえ、ちょっと聞いた? あんた、なかなか面白いこと言うじゃない。ハヨン、つまり私が悪かったって言いたいわけ?」
「そうじゃない。お前だって、そういう目で見られる隙を与えてるって考えたことないのか? それに、それは――」
――違法じゃないか。
そう言いかけた。
だが、周囲の視線もあったし、それが彼女への最後の配慮だと俺は思った。
「は? 何それ。ねえ! クォン・ハヨン! それに何? “それに”の続きは何なの? もういい加減にしてよ! クォン・ハヨンのくせに、何を知ったような口きいてるの? 偉そうにしないで!」
大きくなった俺たちの声は、カフェにいる客たちの視線を集めるには十分だった。
……どうしてセラは、今日はいつも以上に怒っているんだろう。
「セラ。シン・セラ」
小さく名前を呼んでみる。
けれど、セラは苛立ったように息を荒げるばかりで、これといった反応は返ってこなかった。
俺の向かいに座り、露骨に俺を無視している彼女は――紛れもなく、美しい俺の彼女だ。
恋人じゃない。彼女だ。
彼女の傍らには、いつだって高級ブランドという名の兵士たちが寄り添っていた。
華やかなアクセサリー、そして気高い眼差しという強力な武器も持ち合わせている。
大人しくしていることなどない。
ほんの些細な仕草ひとつ取っても、どこか艶っぽく、妖しげで、その動きだけで他人の視線を惹きつけるには十分だった。
俺も例外じゃなかった。
そして彼女は――もしかしたら今この状況すら楽しんでいるのかもしれない。
人の視線を集めることを、喜びに変える女だからだ。
「もうっ! 本当に! ほんっとに! バカみたい。バカなクォン・ハヨンなんかに話した私の方が、もっとバカだった!」
そう言って腕を下ろし、両肩を軽く揺らす姿は、まるで拗ねた少女そのものだった。
セラは、まだ子供っぽい思春期の少女のままなのだろうか。
何か不安でもあるかのように、セラは何度も両腕を手のひらでさすった。
体を右へ向けたかと思えば、今度は左へ向き直る。
姿勢を変えるたびに、少し強すぎる香水の香りがふわりと漂った。
白いハンドバッグを抱きしめながら体を揺らすその仕草は、まるで子供が大切な人形を抱えている姿にも見えた。
こう見えても、セラはいつだって他の女たちが羨むようなバッグや服を身につけていた。
名前を聞けば誰もが知っている――そんなものばかりだった。
けれど、俺の前で自分の持ち物を自慢げに語ったことは、一度もなかった。
整った顔立ちから滲み出る少女のような雰囲気は、男たちの興味を惹きつけるには十分だったのかもしれない。
わざわざ何かをしなくても、彼女はいつだって人の視線を独り占めしていた。
「セラ、さっきから何してるんだ? なんでそんなに体揺らしてるの? 今、可愛い子ぶってるのか?」
「ん? 私が何?」
落ち着いた静かな声だった。
俺に腹を立てているのだろうか。
そう思ったが、さっきとは違ってどこか機嫌が良さそうにも見える。
俺は、ああいう表情が嫌いじゃない。
むしろ、好きだった。
「分かった。俺が悪かったよ」
「悪かったって? 何が悪かったの? バカに何が分かるっていうの?」
その瞬間、彼女の表情を見て思った。
もしかすると、セラは今この状況そのものを楽しんでいるのかもしれない。
こういうことはもう一度や二度じゃない。
本当に俺を困らせる。
……俺が慌てる姿を見て楽しんでるのか?
俺はほんの一瞬だけ、セラの顔を睨みつけた。
セラは笑った。
ほんの一瞬――本当に一瞬だったが、その顔には確かに笑みが浮かんでいた。
もしかすると、他人の目には俺なんてどこにでもいる情けない男に見えるのかもしれない。
でも、それで構わなかった。
そもそも俺自身、彼女を受け止めきれる自信なんてないのだから。
「ハヨン。お金を稼ぐ方法なんて、世の中にはいくらでもあるじゃない?
私だって、私なりのやり方で稼いでみようって言ってるだけなのに、誰が何を言ったって関係ないでしょ?
必ず正しい方法で稼がなきゃいけないなんて決まりある?
それに、あんたも知ってるじゃない。
私、勉強ができたわけでもないし、大学を出たわけでもない……。
だからって、家がお金持ちだったわけでもないじゃない」
『金は本来、正しい方法で稼ぐものなんだよ。シン・セラ』
そう言ってやりたかった。
けれど、今度は飲み込んだ。
皮肉なことに、そして少し救いでもあるのは、俺たちはただの友達同士だということだ。
恋人でもなければ、特別な関係でもない。
――特別な関係じゃない、というところだけは少し残念だったけれど。
「もし私が自分から言わなかったら、今ここにいるお客さんたちだって、私のこと、ただの金持ちのお嬢様くらいにしか思わなかったでしょ?
ねえ、皆さん。違います?」
セラはわざと聞こえるように、大きな声で言った。
これは、明らかにわざとだ。
俺には、周囲の視線が急に痛いものへ変わってしまったように感じられた。
いや、もうすでに変わってしまっていた。
まるで針のむしろに座らされているような気分だった。
けれど、こちらを見ている男たちの目の奥に、別の獣がひそんでいることにも気づいていた。
たぶん、これは同じ男だからこそ分かる感覚なのかもしれない。
俺は名前のせいでよく誤解される。
けれど、これでもちゃんとした男だ。
ハジュン、ハソク、ハビン、ハヨン。
この「ハ」の字を受け継ぐ名付けのせいで、少し女っぽい名前になってしまっただけだ。
まあ、女みたいな名前にも、悪いことばかりじゃなかったけれど。
冷房がよく効いた涼しいカフェで、冷たいアイスコーヒーを飲みながら、俺たちは言葉を交わしていた。
本来なら心地いいはずなのに、この空気の中ではアイスコーヒーは冷たいどころか、全身に電流が走るように肌へ刺さってくる。
なのに頭だけが妙に熱くなり、脇や背中にはじわりと汗が滲んでいた。
この感覚は、一体何なんだろう。
「分かったから。そんな大きい声出すなよ」
「嫌。私の勝手でしょ」
「いいよ、分かった。そんなふうにいつも自分の好き勝手するつもりなら、もう俺を呼び出すな。忙しいんだから。
それに何だよ、アイスコーヒーって。俺、別にそんな好きじゃないんだけど」
「何が“呼び出すな”よ。
さっきから何なの? “するな”“やめろ”ばっかり。
アイスコーヒーが好きだって言うから、せっかく頼んであげたのに、今度は嫌いって?
前は好きって言ってたくせに」
その言葉に、俺は一瞬だけ言葉を失った。
さっきまで真剣だった彼女の表情が、一瞬だけ笑みに変わったことに気づいた。
俺はコーヒーを長く口に含んだ。
やっぱり俺の友人は、誰と比べても綺麗な顔をしていた。
「それに、なんで急に好きとかいう話になるんだよ?
俺がいつ? いつお前のこと好きだなんて言った?」
――好きだったって、いつの話?
その言葉を聞いた瞬間、正直俺は動揺した。
まるで彼女の目に、全部見透かされてしまいそうな気がした。
さっきまで苛立っていたセラは、今度は笑いながらカップからストローを引き抜いた。
「ねえ? 私の、飲んでみる?」
妖艶な表情のままそんな口調で言われて、思わず咳き込みそうになるのを必死に堪えた。
そのせいで、目の端に少し涙まで滲んでしまった。
「な……何を飲むんだよ。同じのでしょ?
いや、いや俺はいい。飲まない」
そう言いながら、思わず唾を飲み込んだ。
「……本当に嫌?」
キャラメルマキアートみたいに甘ったるい彼女の声に、俺は自分のカップと彼女のカップを交互に見比べた。
気づけば、俺のアイスコーヒーはもう空になっていた。
「本当に大丈夫だから。
それより、昨日は何があったんだ? そんなに怒ってた理由」
この空気がこれ以上続いたら、俺の方が負ける。
そう思って、話題を変えることにした。
「さっきも言ったじゃない。
最悪な変態みたいな奴に当たったからだって」
「最悪な変態みたいな奴?」
「そう! 変態みたいな奴。
もう思い出したくもない!」
「いや、お前から話し始めたんだろ……。
その……だから、もう一回言うけど、そういうことはもうやめた方がいいと思う」
口元をわずかに緩めながら、セラはマカロンへ手を伸ばした。
黒いチョコレートマカロンは、彼女のネイルの色とよく似ていた。
「ハヨンって、私の旦那様か何かなの?
それに、あんたはまだ若いから、よく分かってないのよ」
そう言って彼女は腕を組み、目を閉じてしまう。
深呼吸をしながら組んでいた脚を組み替えようとして、彼女の靴先が俺の膝に軽く触れた。
俺はぶつかった方の膝を手のひらで撫で下ろした。
「疲れてるなら、家帰って寝たらどうだ?」
俺は言った。
すると彼女はゆっくり目を開けて、俺に聞き返した。
「寝ろって? じゃあ、あんたは? あんたも私と一緒に寝る?」
セラ、お願いだから!
そんな目で俺を見るな!
それに、そういうことを軽々しく口にするな!
「何言ってるんだよ。俺は仕事中なんだけど?
お前が来たって言うから、ちょっと抜けてきただけだ」
「まあ、ありがたいこと。
じゃあ、ご飯でも食べに行こうよ。お姉さんが奢ってあげる」
「お姉さんって何だよ……。
ダメだって、本当に戻らないと。
それに俺、昼はもう食べた」
「ケチくさく一人で食べちゃって。
じゃあ、せめて家の近くまで送ってよ。車、持ってきたでしょ?」
「何持ってくるんだよ!
会社なんてすぐそこなんだから、当然歩いて来たよ!
それに俺、本当に戻らなきゃなんないんだ。
一人でタクシー乗って帰れ」
「クォン・ハヨン、あんた本当に変わったよね。
昔はそんなじゃなかったじゃない?
私に、よくそんな態度取れるよね?」
「何言ってるんだよ。
俺たち、いつからそんな関係だったっていうんだ……」
「なんでそんな冷たくするの?
ちゃんと私の相手してくれたっていいじゃない。
わざわざあんたの会社の前まで来てあげたのに?」
そう言って彼女は持っていたカップを少し強めにテーブルへ置き、また声を大きくした。
周囲の客たちがこちらを見る。
ただでさえ会社の近くだから気になっていたのに、そのせいで俺は余計に居心地が悪くなった。
――だから、わざわざここまで来たこと自体が問題なんだよ、このバカ。
一体何しに来たんだ。
そう言ってやりたかった。
本当に言ってしまいたかった。
でも、どうにか飲み込んだ。
「分かったから。
だから、そんな大きい声出すなよ」
セラは鼻で笑いながら、ストローをカップに差して口をつけた。
もうコーヒーなんて残っていないはずだ。
きっと氷の溶けた水を吸っているだけだ。
俺には分かる。
ふと、黒く塗られた長いネイルが目に入った。
足の爪も同じ色なんだろうか。
そんなことを考えてしまった。
気になった俺は、少し椅子を引いて下へ視線を落とした。
脚を組んだセラの片足は少し浮いている。
つま先の閉じたパンプスのせいで、足先までは見えなかった。
「どうしたの?
急に下向いて。私の靴、何か付いてる?」
そう言いながら自分でも足元を見下ろすと、セラは組んでいた脚を反対側へ組み替えてしまった。
「何でもない」
「そう?
私ね、すごく美味しいもの食べたい気分なの。
ストレス溜まってるから」
「……ストレス?」
まるで自分が馬鹿になったような気分だった。
俺はなんで急にネイルなんか気にしていたんだろう。
自分でも感情を持て余して、妙に落ち着かなくなってしまった。
「だからさ、本当に私と美味しいもの食べに行かない?
お願い。
これからは静かにするから。
お願いだから、一緒に行こうよ。ね?
私、本当にトッポッキが食べたいんだよ」
「トッポッキ?
でも、本当に無理だって。俺、仕事中なんだ。
ちょっと抜けてきただけだから」
――最後に、『お前に会いたかったから』。
そう言いかけて、俺はぐっと飲み込んだ。
代わりに少し眉をひそめてしまった。
そんな顔をして言ったせいだろうか。
拗ねたような彼女の声が返ってきた。
「即席トッポッキ、本当に食べたかったのに……
最後にご飯まで炒めて食べたかったのに……」
「……じゃあ、一人で行って食べろよ」
「ハヨンって、本当にひどい。
違う。そうだね。そう、あんたの言う通り。
本当に残念だよね。
あんたは昼に働いて、私は夜にしか働けないんだから」
「普通は……昼に働く方が普通だろ……」
俺は静かに言った。
もちろん、それは俺自身の考えだった。
同時に、それは彼女に向けた――少しだけ目を覚ましてほしいという、小さな叫びでもあった。
「……俺、行くから」
そう言って、彼女を一人残したまま店を出た。
出る間際、ふと目が合ってしまった。
でも、俺は視線を逸らした。
すると次の瞬間。
彼女は持っていた高級ブランドのバッグを、さっきまで俺が座っていた椅子の方へ投げつけた。
窓越しに見えたセラの姿は、どこか寂しそうに見えた。
彼女の傍らを固く守っていたはずの兵士たちも、その瞬間だけは何の意味も持たないものに見えた。
「悪いけど、俺はお前が必要な時だけ呼び出されるような、そんな暇な人間じゃない」
そう言い残して、俺はその場を後にした。
もちろん、俺だって気分がいいわけじゃない。
仕方なく、少しだけ謝る気持ちを込めてメッセージを送ることにした。
【今日は本当に会議があるんだ。
また俺から連絡するから、今日はもう機嫌直して帰って休め。
一緒に行けなくて、本当にごめん】
メッセージを送ったあと、俺は考えていた。
次は、今度は何が起きるんだろう。




