死誘者
僕は、小さな会社の会議室のような場所にいた。
長机を挟んで、スーツ姿の男女が三人。全員が深々と頭を下げている。何が起きたのかさっぱりわからない。
とにかくここはどこなんだ?
前にいる人たちは誰なんだ?
「本当に、申し訳ありませんでした」
「こちらの確認不足でして……」
「心よりお詫び申し上げます」
まるで録音された音声を再生しているみたいに、同じ調子の謝罪が続く。
「……あの、どういうことですか?」
そう言うと、一瞬だけ沈黙が落ちた。しかし次の瞬間、
「本当に、申し訳ありませんでした」
「こちらの確認不足でして……」
「心よりお詫び申し上げます」
また謝り始める。本当に録音されたものを再生しているんじゃないか。
僕は椅子の背にもたれながら、ぼんやりと「なんなんだろう」と思った。
怒鳴りたいわけでもないし、責めたい気持ちもない。ただ、理由が知りたかった。
「何があったのか、教えてもらえますか」
そう言うと、中央に座っていた中年の男が顔を上げた。目の下にくっきりと隈がある。多分、手違いのせいでなかなか寝られていないんだろう。
「……順を追って説明します」
男は一度咳払いをしてから言った。
「まず、ここは〝死者の国〟です」
「死者、の国?」
「ええ。皆さんのよく知る天国でも地獄でもありません。そもそも、天国や地獄などといったものは存在しません」
僕の頭の中は疑問で埋め尽くされた。目の前にいる男性は何を言っているのだろうか。そしてそれを真剣に聞いている周りの人たちはどういう心境なのだろうか。
「死んだすべての存在が集まる場所です」
「……じゃあ、僕は」
「死んでいます。自覚はないと思いますが」
あっさりと言われた。
「そう、ですか」
自分でも驚くほど、感情が動かなかった。そもそも、生きていること自体に感情が動いたことはなかった。
「人は死後、この国で生者の国でいう〝会社〟に所属し、働きながら生まれ変わりを待ちます」
「会社……ですか」
「はい。生前の行いによって、入れる会社の質や待遇が決まります」
隣の女性が補足する。
「善行を積んだ方は、労働環境の良い企業へ」
「犯罪歴のある方や、他者を深く傷つけた方は……いわゆるブラック企業へ」
「犯罪歴。ブラック企業」
「ええ。中には、生まれ変わるまでに数百年かかるという方もいらっしゃいます」
思わず息を吐いた。
「死んだ後のほうが、大変そうですね」
三人は気まずそうに目を伏せた。
「でも、生きていても死んでいてもつらいのは変わらないです」
男は続ける。
「話は戻りますが、問題なのはあなたのようなケースです」
「問題?」
「あなたは、本来まだ死ぬ予定ではありませんでした」
僕は少し首を傾げた。死というものはあらかじめ決まっているものなのだろうか。
「手違い、ってことですか」
「はい。そうなりますね」
男の声が、わずかに震えた。
「死者の国には〝死誘者〟と呼ばれる者がいます」
「しゆうしゃ?」
「はい。死誘者です」
初めて聞いた言葉に僕は思わず聞いた。
「なんですかその、死誘者というものは」
「死にかけている人間を見つけ、会社へ勧誘する役目です」
「スカウト、みたいな」
「近いですね。そのような感覚で大丈夫です」
女性が頷く。
「ただし、条件があります」
「生きている人間を誤って会社に勧誘してしまうと」
「その人は、死んでしまうのです」
三人がかわるがわるに説明していく。これまた自動音声のようだ。
「それが、僕?」
「はい」
少し間があった。
「その死誘者が」
「〝あいつ〟が、あなたを勧誘しました」
逃げた、と彼らは言った。
「自分のミスが発覚するのを恐れて、会社を飛び出しました」
「見つかるまで、蘇りの手続きはできません」
「つまり」
僕は言葉を整理する。
「僕が元の世界に戻るには、その死誘者を見つける必要がある」
「その通りです」
「探してほしい、と」
三人は、同時に頭を下げた。
「お願いします」
しばらく、何も言わなかった。
「なんで僕なんですか? あなた方の誰かでもいいのではないですか?」
しばらくの沈黙の後、真ん中の男性が話始めた。
「それができるならとっくにしています」
今までの会話の中で一番大きな声を上げた。周りの人も驚いている。普段はおとなしい性格の人なんだろう。
「別に」
口から出たのは、そんな言葉だった。
「戻らなくても、いいです」
三人が顔を上げる。小さな部屋には沈黙が流れる。
「生きているときも、死んでいるようなものだったので」
「ですが」
「それでは困ります」
「あなたは、被害者なのです」
「そう言われても、よくわからないですし、いっそのこと、ここで働くということじゃダメなんですか?」
僕は肩をすくめた。
「生き返ったところで、やることもないですし」
再び沈黙が流れる。
「それでも」
男性が、静かに言った。
「探しに行ってください」
「あなたしか、いないのです」
重い足取りで会社を出ると、目の前には街が広がっていた。
「普通だな」
思わず口に出た。
高層ビル。横断歩道。人混み。
誰もが生きている人間と同じ姿をしている。いわゆる、天使のリング的なものをつけている者はだれ一人としていなかった。
「死者の国、って言われなきゃ分からないな」
近くを歩いていた男が、ちらりとこちらを見るや、すぐに近づいてきた。
「おまえ、最近死んだんか?」
思ったよりも明るい声だった。
「ええ、まあ、そんなところです」
「時間の感覚、もうおかしいだろ」
「そうかもしれません」
いわれてみれば、ここに来てからどれくらいたったのか見当もつかなかった。今は何時なんだろうか。それすらわからない。
「ここじゃ、昼も夜もない。腹も減らねぇし、歳も取らねぇ」
「便利ですね」
「その代わり、終わりも来ねぇけどな」
男はそう言って笑った。しかし、目の奥は笑っていないように見えた。
「俺は、七十八歳で死んだ。病気だった」
続けて話し始める。
「え? 四十代にしか見えないんですが」
「俺も最初は驚いた。自分の体が若返っていたからな。でも、よくよく聞いてみれば、ここに来るときに、働くのに最適な年齢になるらしい」
「だから、みんな若いのか」
街ゆく人の年齢は、三十から四十代が大半を占めていた。その説明をされれば腑に落ちる。
「お前は、昔の俺と同じ顔をしている。つらいのを隠しているだろ」
驚いた。死者には人の心を見抜く力でもあるのだろうか?
「俺だって生きていたころは、生きている実感がなかったし、死んだ今とそこまで差異はなかったし、とにかくどうでもよかった」
「やっぱり、そんなもんですよね」
「だがな」
男は笑顔を見せてから続きを話し始めた。
「死んだ時から、生きたいっていう希望はどんどん強くなっているんだよな」
二人の間に爽やかな風が通り抜けた。
「どうしてですか?」
「生きてればつらくたって朝が来るし、腹が減る。おまけに、寝れば嫌なことを忘れることが出来る。つらいってことが、生きてるってことだって気が付いたんだ。生きてる時なんて、そんなこと微塵も考えなかった」
そう言うと、男はまた笑った。目の奥もちゃんと笑っている。
「じゃあ、俺はそろそろ失礼するよ。また、どこかで会おうな」
「ありがとうございます」
僕は男の背中に向けてお辞儀をした。そして、あいつの特徴を思い出す。
「嫌なことがあると、国外の山に行く……か。僕と一緒だな」
オフィス街を抜け、古い雑居ビルが並ぶ区画に入ったころだった。
高層ビルのガラスに映っていた無機質な空は消え、代わりに、塗装の剥げた外壁や、用途の分からない看板が目につくようになる。かつては人で賑わっていたのだろうが、今は通りを歩く人影もまばらだった。
足音だけが、やけに大きく響く。
「……あんた、新顔だな」
不意に声をかけられて、僕は立ち止まった。死者は顔を見ただけで、いつ頃死んだのかがわかるのか。
振り向くと、通り沿いのベンチに男が座っていた。背もたれに肘をかけ、片足を投げ出した姿勢で、指先で何か小さな金属片のようなものをいじっている。
三十代半ばくらいだろうか。
作業着はくたびれていて、袖口には油染みが残っている。だが、目だけは妙に落ち着いていた。
「そうです」
短く答えると、男は口の端を上げた。
「やっぱり。顔が生者っぽい」
「死んでますけど」
「はは、そういう意味じゃねぇよ」
男は軽く笑った。その笑い方は、どこか現実感があって、この場所には少し不釣り合いに思えた。
「ここらへんじゃ見ない顔だが、目的地は?」
「人を探してます」
「死んだ家族か?」
「死誘者です」
その言葉を聞いた瞬間、男の指が止まった。
「そりゃまた、厄介なのを追ってんな。めんどくさいことになりそうだな」
「そうなんですか」
「気になるって顔だな。よし、ここで会ったのもひとつの縁だ。詳しく教えてやるよ」
男は立ち上がり、ベンチの前に立った。僕と同じ目線になる。
「死誘者ってのはな、大体逃げ足が速い。逃げたら捕まえるのは困難だ」
「逃げる前提なんですね、死誘者というものは」
「ここじゃ、責任ってのは重いからな。逃げたくなる気持ちもわかる」
その一言には、冗談めいた調子の奥に、妙な重さがあった。
男は歩き出し、自然と僕の隣に並ぶ。
「俺も、少し前まで逃げてた」
「何からですか」
少し考えるような間があってから、男は言った。
「生きてた頃の自分、かな」
意味が分からず、黙っていると、男は気にせず話を続けた。
「俺、生きてた頃、家族がいたんだ」
この話本当に聞かなくてはいけないのだろうか。だが男からは微塵の嫌さも感じない。
「妻と子ども。普通の家庭」
彼は前を見たまま話す。
「仕事ばっかでさ。朝は顔も見ずに出て、夜は寝顔を見るだけ」
「大変ですね」
「そのうち、それが当たり前になった」
雑居ビルの影が、足元に落ちる。影は薄く、輪郭が曖昧だ。
「死んでから気づいたよ」
「何に、ですか」
「ああ、俺、ちゃんと生きてなかったなって」
男は肩をすくめた。
「ここじゃな、腹も減らねぇし、眠くもならねぇ。便利だろ?」
ここでは、最近の死者にそれを言うのが定番なのか。
「……はい」
「疲れもしねぇし、痛みも薄い」
彼は立ち止まり、振り返った。
「でもな、それって裏を返せば、生きてる感覚が何もないってことなんだ」
その言葉に、胸の奥がわずかにざわついた。理由は分からない。ただ、聞き流せなかった。
「生きてるってのは、不便なことだらけだった。あんたもそうおもうだろ」
「そうですね」
生きていた頃の記憶を辿る。人と話すのが億劫で、何かを選ぶのが面倒で、ただ流されるように日々を過ごしていた。
だからこそ、生きていても死んでいても変わらないと思ったんだろう。
「でも、だからこそ、選べたんだよ」
「選ぶ?」
「何を大事にするか、だ」
男は僕の顔をじっと見た。
「あんた、生きてた頃、何か大事にしてたか?」
即答できなかった。頭の中を探しても、はっきりと浮かぶものがない。
「特に、ないです」
「だろうな」
その言い方は、妙に優しかった。責めるでも、見下すでもない。
「でもな」
男は再び歩き出す。
「ここを歩いてると、みんな後悔してる」
「後悔?」
「やらなかったこと。言わなかった言葉。選ばなかった道」
すれ違った死者たちの顔が、頭に浮かぶ。疲れ切った表情。感情の抜け落ちた目。
「生きてるってのは、後悔できるってことなんだ」
その言葉は、僕の中で何度も反芻された。
後悔。
僕は、生きていた頃、後悔したことがあっただろうか。何も選ばなかったから、後悔することすらなかったのではないか。
「じゃあな」
男は通りの分かれ道で立ち止まり、手を振った。
「死誘者を見つけたら、ちゃんと話せよ」
「はい」
男は背を向け、雑居ビルの間へ消えていった。名前も聞かなかった。それでよかった気がした。ただ一つ、彼の言葉だけが、胸の奥に残っていた。
――生きてるってのは、後悔できるってことなんだ。
僕は、もう一度歩き出した。今度は、ほんの少しだけ、前を見る意識を持ちながら。
山へ向かう道は、思っていたよりもなだらかだった。
舗装された道路はいつの間にか途切れ、足元は土と草に変わっていた。空はやけに高く、雲が止まった絵のように動かない。
ここがどこなのか、僕には分からない。分からないまま、歩いていた。歩く理由も、本当は曖昧だった。ただ、行けと言われたから行っている。それだけだ。生きていたころから、そういう生き方をしてきた。生きている実感も、死んでいる実感も、どちらも等しく薄かった。
草原のような場所に出たのは、そんなことを考えている途中だった。大きく風が吹く。草が波のように揺れ、その中心に、ぽつんと小さな影があった。近づくと、それが子供だと分かった。最初に出会った男が言っていた。小さいうちに亡くなった場合は、そのままの年齢で、仕事をしないで生まれ変わりを待つのだという。
少年は、地面にしゃがみ込み、石を積んでいた。
草原のような場所で、風が低く鳴っている。遠くに建物の影は見えない。ここには、仕事も命令もなかった。ただ、積まれた石と、少年の背中だけがあった。
「……何してるの?」
声をかけると、少年は石を持ったまま固まり、ゆっくりと顔を上げた。
「なにって?」
「いや……ずっと、石を触ってたから」
「うん。だから」
少年は、少しだけ眉をひそめる。
「とうをつくってる」
「塔?」
「そう。たかいやつ」
「高いって、どれくらい?」
「ここから、そらにとどくくらい」
「それは、さすがに無理じゃない?」
「うん。むり」
あっさり言い切られて、言葉に詰まる。少年との会話は、一問一答のように短いやり取りが続いた。これはこれでしんどい。
「……無理って分かってて?」
「わかってる」
「じゃあ、なんで?」
少年は、僕を見た。値踏みするようでもなく、問い詰めるようでもない。ただ、確認するような目だった。
「なんで、ってきかれるとおもった」
「よく聞かれるの?」
「たまに」
「他には何て言われるの?」
「やめたほうがいい、とか。いみない、とか」
「君は、どう思うの?」
「いみ、あるよ」
「どんな?」
少年は、石を一つ、慎重に置いてから答えた。
「いま、たのしい」
「それだけ?」
「それだけじゃ、だめ?」
「いや、だめじゃないけど」
「たのしいだけじゃ、だめ?」
足元を見る。平たい石、丸い石、欠けた石。形も大きさも揃っていない。
「倒れない?」
「たおれるよ」
「絶対?」
「たぶん、すぐ」
「それでも?」
「それでも」
「崩れたら、どうするの?」
「ひろう」
「また積む?」
「うん」
「飽きない?」
「あきるときもある」
「そのときは?」
「そのときは、ねる」
「眠くならないんじゃなかった?」
「ねむくなくてもねる」
少年は肩をすくめた。その言動からは子供っぽさが垣間見えた。その答えが、なぜか可笑しくて、少しだけ笑ってしまった。
「君は、どうしてここに?」
笑いが収まったところで、そう聞いた。
「じこ」
「事故?」
「くるま」
「覚えてる?」
「おとだけ」
「痛かった?」
少年は、少し考えてから首を横に振った。
「よくわかんない」
「怖くなかった?」
「ままがさけんでた」
「ママと一緒だったんだ」
「うん。でもそれは、こわかった」
少年は石を落とし、拾い直す。
「でもね」
「うん」
「ままが、ないてた」
「それは覚えてるんだ」
「ぼく、それ、いやだった」
「それで?」
「それで、ここにきた」
「来た、って、望んだわけじゃないのでしょ」
「うん。でも、きちゃった」
しばらく、風の音だけが続いた。
「帰りたい?」
「わかんない」
「迷ってる?」
「うん」
「なんで?」
少年は、石を持ったまま空を見た。
「かえったら、また、ままがなくかもしれない」
「でも、笑うかもしれない」
「うん」
「じゃあ、帰りたい?」
「わらうなら」
「条件付きなんだ」
「じょうけんって?」
「あ、約束みたいなこと」
「だめ?」
「いや」
喉の奥が詰まる。
「いきてると、いたい?」
唐突に、少年が聞いた。
「どういう意味で?」
「からだ、とか。こころ、とか」
「……痛いことは、ある」
「ずっと?」
「ずっとじゃない」
「たまに?」
「たまに、かな」
「それ、いやじゃない?」
「いやだよ」
「じゃあ、なんでいきるの?」
答えようとして、言葉が出てこなかった。
「わからない?」
「……分からない」
「おとなでも?」
「大人でも」
「ふーん」
少年は納得したようでも、していないようでもあった。
「でもね」
「うん」
「たおれても、またつくれるからじゃない?」
「……何を?」
「いろいろ」
「人生、とか?」
「よくわかんない。でも、たぶん」
僕は、生きていた頃にこのようなことを少しでも思ったことがあっただろうか。
その時、少年の積み上げていた塔が少し傾いた。
「あ、たおれる」
次の瞬間、石が音を立てて崩れ落ちた。
「ああ」
「ほらね。やっぱりたおれたでしょ」
「残念?」
「ううん」
「え? なんで?」
「また、できるから」
「同じにはならないよ」
「それでいい」
「どうして?」
「同じじゃ、つまんない」
少年は石を拾い始める。
「君、強いね」
「そう?」
「少なくとも、僕より」
「じゃあ、きみはなにをしてるの?」
「ちょっとした探し物」
「みつかる?」
「分からない」
「それでもさがすの?」
「探せって言われたから」
「じぶんできめてないの?」
「たぶん」
「じゃあさ」
少年は、石を渡してきた。
「ひとつ、おいてみて」
「僕が?」
「うん」
言われるまま、石を置く。塔は、また少し高くなった。
「崩れたら?」
「またおく」
「楽しい?」
「いまはたのしい」
少年は、少し笑った。
「さがしもの、みつかるといいね」
そのあと、言葉はなかった。
塔はまた崩れ、少年はまた石を拾った。
僕はしばらく、そこに立っていた。
歩き出すと、足取りが少し重くなった。胸の奥に、小さな石を積まれたような感覚が残っている。不安定で、崩れそうで、それでも、なぜか、もう一度置いてみたくなる重さだった。
僕は山の中を歩いていた。
道と呼べるものはなくなり、木の生えていないところを必死に歩いていた。踏みしめるたびに、小石がわずかに転がり、乾いた音を立てた。
空は相変わらず、曇りとも晴れともつかない色をしていた。光は差し込んでいるのに、影はあいまいで、この世界では、朝も昼も夕方も、すべてが同じ表情をしている。
しばらくすると、視界の先に、一軒の民家と畑が現れた。隣家も電柱もなく、周囲には同じような山肌と、曖昧な空が続いているだけだった。
家の前に、二人の人影があった。老夫婦だった。どちらも背中が少し丸まり、身長は同じくらいに見える。年齢は分からない。ここでは老いは進まないが、その名残が二人の身体に残っているようだった。
二人は並んで立ち、畑のほうをぼんやりと眺めていた。僕が近づくと、まるで最初からそこにいることを知っていたかのように、同時にこちらを向いた。
驚いた様子はなかった。警戒も、好奇心もない。ただ、穏やかに、静かに、そこにいた。
「こんにちは」
沈黙に耐えきれず、僕のほうから声をかけた。
声を出した瞬間、少しだけ、生きていた頃の感覚が蘇る。声帯を震わせ、空気を押し出す感覚。それは懐かしいものだった。
「こんにちは」
返事をしたのは、女性のほうだった。細い声だが、芯があり、風に紛れずにこちらまで届いた。
男性は、少し遅れて、軽く会釈をした。
「どうしてこんな場所に? 何もないところですが」
女性はそう言ってから、言葉を選ぶように一呼吸置いた。
「迷われたわけでは、なさそうですけれど」
「はい」
僕は頷いた。
「人を探していて、それで、歩いていました」
「人探し」
男性が、その言葉をなぞるように繰り返した。
「それは、大変ですね」
その言い方には、同情も、慰めも含まれていなかった。ただ、事実を受け止めた、という程度の響きだった。
「珍しいですね。この辺りまで来る人は」
「そうなんですか」
「ええ」
男性は周囲をゆっくりと見渡した。
「ご覧の通り、何もありませんから」
「確かに」
そう言って僕は口をふさいだ。失礼なことを言ってしまったかもしれない。そう思った。
「いいんですよ。事実ですから」
女性は笑って言った。
「お二人は、ここに住んでいるんですか?」
そう尋ねると、女性は少しだけ口元を緩めた。
「住んでいる、という言い方で合っているかは分かりませんが」
「ずっと、ここにいます。やることもないですから」
男性が続ける。
「二人で?」
「ええ。ずっと二人です」
その言葉は、淡々としているのに、不思議と揺るぎがなかった。
「生前も?」
僕がそう聞くと、二人は自然に顔を見合わせた。その動作に、長年の習慣の名残を感じた。
「生前も、夫婦でした」
男性は恥ずかしそうに答える。
「長いこと、一緒にいました」
「どれくらい?」
「そうですね」
女性は少し考えるように視線を落とした。
「四十年以上でしょうか」
「そうですか」
「でも、生きていた頃は」
男性が言葉を継ぐ。
「長いとも、短いとも思えませんでした」
僕は、その感覚が少し分かる気がした。生きている間は、時間は常に足りないか、余りすぎるかのどちらかだ。
「ここに来てからも、一緒に?」
「ええ」
女性は畑のほうを見やった。
「ここでは、離れる理由がないんです」
「理由が、ない?」
「はい」
彼女は静かに言った。
「この世界では、生きている頃みたいには、いかないんです」
「……というと?」
「感情が、薄いんですよ」
その言葉は、まるで天気の話をするように、淡々と語られた。
「嬉しいとか、悲しいとか、好きだとか、愛しているとか」
女性は一つ一つ、確かめるように言葉を並べる。
「完全になくなるわけではありません」
男性が補足する。
「でも、生きていた頃のように、胸が締めつけられたり、眠れなくなったりすることは、ありません」
その言葉を聞いた瞬間、僕の胸の奥に、生きていた頃の記憶が滲んだ。
「楽、ですか?」
思わず、そう聞いていた。
「楽、というより」
女性は少し考えてから答えた。
「静かです」
「とても、静か」
男性も頷く。
「痛みが、ないんです」
その言葉は、優しくもあり、残酷でもあった。女性が続けて話す。
「生きている頃は愛することは、痛むことでもありました」
「傷ついたし、傷つけました」
二人は悲しそうな顔を浮かべた。
「ここではどうなんですか?」
「ここでは、そういう痛みがありません」
男性の声は、どこか安心しているようだった。
「愛が薄いからこそ、苦しくならない」
「それでも、一緒にいるんですね」
僕は、二人を見つめて言った。
「ええ」
女性は即答した。
「一緒にいる、という選択だけが、残るんです」
その言葉が、胸に重く落ちた。
「生まれ変わりたいとは、思わないんですか?」
二人は、また顔を見合わせた。
今度は、少しだけ、ためらいがあった。
「思いますよ、正直に言えば」
女性が言った。
「生きるという感覚は、ここには、存在しませんから。生まれ変わりたいという気持ちは愛よりも、強く湧いてきます」
男性は静かに言う。
「それでも」
女性は、僕のほうを見た。
「ここにいるのが、不幸かと聞かれれば、そうでもない。二人でいるから、というより」
彼女は少し言葉を探した。
「一人じゃない、という事実が、ここでは重たいんです」
生きていた頃、孤独は痛みだった。ここではただの状態だ。
「生まれ変わったら、また会えるかは、分かりませんから」
男性は悲しそうな顔をして言った。目線は女性に向けられている。
「ここにいれば、少なくとも離れない。それで、十分だと思っています」
女性が続ける。
ここには、愛は薄い。だが、痛みも薄い。
別れを告げると、二人は並んで手を振った。
山道に戻り、少し歩いてから振り返ると、老夫婦は畑のほうを向いていた。並んで、同じ方向を見ていた。
愛は薄れても、選択だけが残る。痛みがなくても、生きたいと願う心は残る。その矛盾を抱えたまま、僕はまた、山の奥へと歩き出した。
それからどれくらい歩いただろうか。周りは高い樹木に覆われ、その間からは高層ビルなどが小さく見えた。気づけば、かなり高いところまで登ってきたらしい。
「なんで僕がこんなことをしないといけないんだろうか」
ついつい愚痴がこぼれてしまう。身体は疲れないはずなのに、気疲れだけはすごく溜まっていた。
歩き続けると、大きな岩の地帯に出た。樹木はなくなり、その代わりに、灰色や黒色の岩が敷き詰められていた。足場は悪く、気を付けなければ転んでしまいそうだった。
無機物に積まれた岩の一つに、誰かが小さく座っているのが見えた。教えてもらった特徴とも一致していた。おそらくあいつが死誘者なんだろう。
「あ、あの」
彼はビクッと肩を動かし、ゆっくりとこちらを見た。肌が異様に白いこと以外は、普通の人間とそこまで差がない。それが、彼に対する最初の印象だった。
「な、何でしょうか」
「えっと、君は、死誘者であってますか?」
一瞬の沈黙があり、彼は聞き取れるギリギリの声量で話し始めた。
「私のせいです。本当にすみませんでした。自分でもミスしたことは反省しています。でも、いざそれの責任を取らなきゃって思ったら、いつの間にかここにきていて。本当にすみません。何でもしますので、許してください」
思ったより人間味のある彼は、その白い顔を真っ赤にしてこちらへの謝罪を続けている。
「帰りましょう。僕は別に怒ってないですし」
「嫌だ。帰らない」
「どうしてですか」
「私のミスであなたは死んだ。そんなことを許すわけがない」
彼は顔をあげた。顔の赤みは引いていたが、代わりに目が真っ赤に充血していた。
「知らないかもしれないが、ここでの責任は重い。生きていた頃よりも、一つの責任に対する重みが違う」
「それは、聞きました。もしかしたら、一生あなたは生まれ変われないかもって」
それは最初の会議室で言われた内容であった。彼のようなミスの多い死誘者は、その仕事を奪われるとともに、生まれ変わる機会を失う。それは、長年変わることのない掟であると教わった。
「それなら、私は一人で生きていく。それでもいいだろ」
冷たい風が足元を通り抜ける。
「お前は、生きたいと思っていなかった」
不意にそう言われた。
「だから勘違いしたんだ。死にそうな人間と」
僕は返す言葉がなかった。まったくその通りであったからだ。
二人の間に沈黙が流れた。彼は落ち着いたのか、再び岩の上に腰を下ろした。
「君だって、生きたいと思ってないだろ。だったらこのままでもいいんじゃないか」
「それは……」
「私が戻ったら、君はまたあのつらい人生に戻る。そしてまた死にたくなる。だったら、このままここにいたほうが幸せじゃない?」
その口調は、先ほどの謝罪の時とは打って変わっていた。
「それでも戻らなきゃ」
「戻ったら私は職を失うし、生まれ変わる機会を逃す。お互いのためにも戻らないほうがいいと思うけど」
「僕だって、まだわからない」
言葉は自然と出ていた。自分でも正直驚いた。
「ここに来た直後は、そう思ってた。生きていても何も良いことがないし、別にこのままでもいいって」
「じゃあ、このままでいいと思うけど」
彼はこちらを見つめながら言った。その声に覇気はなく、弱々しくなっているのは明白であった。
「でもわかったんだ。生きているほうがめんどくさいって」
「え?」
「痛いし、苦しいし、後悔だってある」
僕は少しだけ笑った。
「でも、気になったんだ。ここに来るまでに出会った人はみんな、生きたいって言っていた。それは、死んでからじゃないとわからなかったって」
さっきまで大きく見えた彼は、小さい子供のようになっていた。
「だからもう少しだけ、生きるってことを確かめたくなった」
「君はそれでいいかもだけど、私は、どうすれば……」
「僕が許すならば、ミスを公にしないらしいです」
「え? それって」
「あなたは、今まで通り、仕事をしながら、生き返りの順番を待ってください」
それからのことはあまり覚えていなかった。一緒に会社に帰り、生き返りの手続きをした。生き返りという大層な行為が、ものの二、三分で終わるのは驚きであったし、一枚の紙切れであったことにも驚いた。職員の話によると、一時的に記憶は残るが、だんだんと死者の国での記録はなくなるらしい。なので、何も心配しなくていいとのことだった。
気が付くと、僕はいつも通りベッドで寝ていた。
生きる意味なんて、僕にはまだわからない。でも、もう少しくらいは、探してみてもいい気がした。
死誘者




