名探偵スバルの平日
平日の昼間の歓楽街には独特の雰囲気がある。未だ眠っているような静けさ、息を潜めているような緊張感、そして、秘密を抱えたような背徳感。夜になればネオンで覆い隠される看板の錆びや煤けた壁が容赦なく晒され、日の高いうちからここにいる、という違和感が、どこか異界に迷い込んだような錯覚をもたらしている。
「ねぇ、どこに向かってるの?」
男に腕を絡めて、鼻に掛かった甘いセリフを女が囁く。赤すぎるほどに赤い唇がくすんだ空気の中でやけに鮮明に見えた。男は「うーん、どこかなぁ?」などとトボけて見せる。互いの白々しさを承知で為される会話は、当人たちにはエンターテイメントでも第三者から見れば背筋に悪寒が走るほど醜悪だ。もう帰ってやろうか、と吐き捨てる脳内の自分をなだめ、パシャリとシャッターを押す。仕事だと念仏を繰り返す。
もったいぶるような足取りの男女を、スバルは少し離れて尾行している。帽子を目深に被り、コートの襟を立て、ポケットに手を入れて歩く姿はいささか悪目立ちしそうだが、尾行対象の二人は彼らの世界に耽溺しているらしく、気付く様子は微塵もない。四十代も後半の脂ぎった男と、二十は年の離れた女の組み合わせは、あまり道徳的な想像を許してはくれない。そして依頼人の望みは、想像を確信に変えることだった。ポケットに入れたままの手でシャッターを押す。ポケットには小さな穴が空いており、そこからカメラのレンズが覗いている。
「ここだ」
男が足を止め、下卑た笑みを抑えられぬ様子で目の前の建物を見上げる。安い舞台セットのようなその建物は、厚ぼったいピンク色のペンキで塗られた洋風の城だ。『キャツスル』と書かれた看板が毒々しさを強調し、そこに浮かび上がる時間当たりの値段が生々しく現実感を奪っている。正気ではこの場に立つ資格もない、という威圧だろうか。その門をくぐるための試練。
「やだ、もぅ」
女は恥じらいを演じ、絡めた腕を強く引っ張る。もはや人の体を為さぬ顔面で女に応え、二人は門を潜り、なだらかなスロープを降りて地下にある入り口の向こうに消えた。一部始終を記録されていることなど思い付きもしていないようだ。
――ふぅ
スバルは深く息を吐く。これからしばらくは待つ時間だ。それだけお楽しみかは知らないが、出てくるところまできちんと押さえないと報告書は書けない。当人に言い逃れを許さないため、というのももちろんあるが、それ以上に『依頼人を納得させる』のに必要なのだ。自ら依頼しながら、依頼人が探偵の報告書を信じないケースは少なくない。彼ら、あるいは彼女らは、調査対象が『ホテルに入った』という事実ではなく、『ホテルから出てきたときの顔』で納得する。
――夫が、浮気をしているみたいで
そう言った依頼人の声は震えていた。屈辱であり、悪夢であり、未練。複雑な感情を抱えて依頼人は事務所の扉をたたく。勘違いなら、気のせいかも、微かな希望と膨れ上がる疑心に挟まれ、行き場を失った悲鳴が音にならずに降り積もる。探偵の調査とは、儀式なのだ。心を解き放つための。だからこそ、様式が必要で、形式が重要になる。
冷たい風が吹き、スバルは電柱の影で身を縮めた。待ち時間を快適にしてくれる手ごろな喫茶店など都合よく存在しない。探偵に必要な資質とは知識でも推理力でもなく、忍耐だ。この世の理不尽に耐える力。
――本当のことを知りたいんです
絞り出すように依頼人は言った。しかしその表情が言葉を裏切っていた。残酷な真実など知りたいはずはない。それでも調査を依頼したのは、きっかけが欲しかった、ということなのだろう。弱い自分と決別し、自分自身を生きるための。
彼女は愚かだろうか? 浮気の兆候に気付いた時点で問い詰めれば、わざわざ高額な費用を払って調査する必要もない。裁判での証拠集めという意図なら理解できるが、そういう目的なら依頼人の態度はもっとドライなものだ。そういう人間は声を震わせたりはしない。
依頼人の夫は、愚かだろうか? 家庭がありながらそれを自ら壊すような行為は、愚か者の誹りを免れまい。それを承知で不貞に走ったのなら、それだけの理由があったのだろうか? 依頼人との間に改善も修復もできない溝があったのだろうか? 目の前に提示された『愛』に飛びつかねば壊れてしまうほどに追い詰められていたのだろうか? そうだとして、それは裏切りを正当化するだろうか? 関係を清算してから次に行けば、なんら世に恥じることもあるまいに。
『情緒というものを理解しない男だな君は』
ふと懐かしい声を思い出し、スバルは思わず苦笑いを浮かべた。もう十年以上も前に、スバルにそう言った女の子がいた。制服を着ていたころの淡い記憶。スバルはまぶしげに目を細める。あのときは否定したが、今は――人間の心の混沌は、理解しがたい。不幸にしかならないなら共にいる理由はないのに、わざわざ不幸に向かって歩む人々をスバルは多く見てきた。あるいは、多く見過ぎたのかもしれない。
――一番愚かなのは、他人の不幸を金にする俺のほうか
電柱に背を預け、自嘲めいた様子で目を閉じる。電柱から伝わる冷気が小さな痛みを運び、スバルはわずかに口の端を上げた。
二時間が経ち、ホテルから二人が出てくる。男の顔はだらしない満足感を誇示し、女は媚びた艶の奥に冷酷な欲望を覗かせている。吐き気を催すようなニーズの一致。男の中に妻の顔が過る瞬間などなかったのだろう。そしてその表情こそが、この茶番を完成させる最後のピースだ。
――パシャリ
必要な仕事を終え、スバルは身を翻す。報告書の文面を考えながら歩くスバルの背を乾いた風が押した。
報告書の郵送を終え、スバルは背を伸ばした。見上げる空はどんよりと黒雲が垂れ込め、夕暮れの街を重く湿らせている。報告書を受け取った後、依頼人はどうするのだろう。泣くだろうか、怒るだろうか、それとも――冷たい決意を固めるのだろうか。
「――せめて、幸せな未来を」
思わず口にした言葉に驚き、スバルは小さく笑った。願うのは探偵の領分ではない。依頼人の人生は依頼人のものだ。探偵は彼女に何の保証も与えることができない。
「おう、お疲れ」
不意に声を掛けられ、スバルは振り向いた。無精ひげを生やした厳つい顔に笑みを浮かべたその男は、軽く手を上げて近付いてくる。
「柳沢警部」
スバルは男の名を呼び、会釈を返す。意外なところで会うものだ、というのは少々楽観的な解釈だろう。柳沢は馴れ馴れしくスバルの肩を叩いた。
「そう嫌そうな顔をするな。俺とお前の仲じゃないか」
心の内が漏れ出ていたか、とスバルは瞬時に表情を改める。未熟者め、と言いたげな瞳で朗らかに笑い、柳沢は言葉を続けた。
「最近、どうよ?」
「まあ、ぼちぼちです」
曖昧などうでもいい質問に、適当などうでもいい回答を返す。拒絶の意志は、伝わらない――というより、柳沢の場合は受け取ったうえで無視している。この食えない中年に言葉で勝てる気はしない。
「忙しそうじゃないか」
「おかげさまで。今日もこれから逃げた猫探しですよ」
逃げたペットの捜索は日が落ちてからが本番。もっとも、相手が猫なら少しだけ気が楽だ。見つけることが出来さえすれば依頼人は必ず喜んでくれるから。「大変だな」とさして興味の無さそうに答え、柳沢は話題を変える。天気の話、家族の話、事件の話。スバルは話を打ち切るタイミングを与えられず、相槌を打ち、大げさに共感したふりをし、密室殺人の謎を解いて、空を見上げた。今にも泣きそうだった空から、ポツリと雨粒が落ちてくる。
「降ってきやがったか」
忌々しそうにそう言って、柳沢が空をにらむ。そしてスバルの背をガサツに叩くと、満足そうな笑顔で言った。
「今度、飯でも食おうぜ」
「おごりですか?」
「甘えんな。こっちもカツカツだよ」
じゃあな、と言って柳沢はスバルに背を向ける。しばらくその背を見送り、スバルは反対方向に歩き始めた。夕闇が迫り、それに抗うように街に灯がともる。無数の人が行き違い、知った顔は誰もいない。雑踏が少し遠く聞こえる。
「……今度、帰ってみるか」
そう独りごちて、スバルは夜に包まれようとしている住宅街へと消えていった。




