第5話 だから
ノートを閉じたあとも、
“あなた”という言葉が胸の奥で静かに反響していた。
湯けむりは、いつもより濃く、
まるで僕の視界を覆い隠すために集まってきたかのようだった。
──だから。
その言葉が、どこからともなく聞こえた。
僕の声ではない。
けれど、僕の内側から響いてくるようでもあった。
部屋の空気が、急に冷たくなった。
湯けむりが揺れ、
旅館の輪郭がゆっくりと溶けていく。
座卓の上に置いたノートが、
ひとりでに開いた。
最後のページ。
そこには、癖のある筆跡でこう書かれていた。
「だから、僕はあなたを裏切っていない。」
胸の奥が強く締めつけられた。
その言葉は、
僕がずっと聞きたかった言葉だった。
けれど──
その筆跡は、僕のものではなかった。
湯けむりが揺れ、
部屋の景色がゆっくりと変わっていく。
畳の匂いが薄れ、
木造の軋みが遠ざかり、
湯畑の光が消えていく。
気づいたとき、
僕は旅館の部屋にはいなかった。
そこは、
白い壁と、無機質な机だけがある小さな部屋だった。
机の上には、
あの黒いノートが置かれている。
ノートの表紙には、
小さく名前が書かれていた。
──彼の名前。
僕は震える手でノートを開いた。
そこに書かれていた旅館の描写は、
すべて彼が見た景色だった。
僕が追体験していたのは、
僕自身の記憶ではなく、
彼の最後の旅の記録だった。
あの夜。
僕は彼を裏切ったと思い込んでいた。
置いていったと思い込んでいた。
罪悪感に押しつぶされ、
彼の死を自分のせいだと信じ込んでいた。
しかし、ノートの最後のページには、
こう書かれていた。
「あの夜、君は僕を裏切っていない。
僕は君を守りたかっただけだ。」
視界が揺れた。
湯けむりのような涙が滲んだ。
──僕は、裏切っていなかった。
彼は、
僕を責めていなかった。
むしろ、
僕を守ろうとしていた。
旅館の景色が、
再びゆっくりと立ち上がる。
湯けむりの向こうで、
彼が微笑んでいる気がした。
「だから、僕はあなたを裏切っていない。」
その言葉が、
湯けむりの中で静かに響いた。
僕はノートを胸に抱きしめた。
その温度は、
あの日と同じだった。
湯けむりが揺れ、
旅館の景色が完全に消えた。
残ったのは、
彼の言葉だけ。
──だから。
その一言が、
僕の罪悪感を静かに溶かしていった。




