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湯煙が隠した雪  作者: 双鶴


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第4話 僕は

 ノートを閉じたあとも、

 “あなた”という言葉が胸の奥で静かに反響していた。

 まるで、僕の内側に沈んでいた何かが、

 ゆっくりと目を覚まし始めたように。


 僕は誰を探しているのか。

 あるいは──誰に探されているのか。


 湯けむりが濃くなり、

 部屋の輪郭がゆっくりと溶けていく。

 その白さの向こうに、

 “あなた”の影が見えた気がした。


 しかし、目を凝らすと何もない。

 ただ、旅館の空気だけが、

 僕の存在を確かめるように揺れていた。


 座卓の上に置いたノートが、

 微かに震えているように見えた。

 風は吹いていない。

 窓も閉めている。

 それなのに、ページの端がわずかに揺れている。


 僕はノートを開いた。

 次のページには、こう書かれていた。


 「僕は、あなたを信じている。」


 その一文を読んだ瞬間、

 胸の奥が強く締めつけられた。

 信じている?

 誰が?

 僕を?

 それとも──僕が“あなた”を?


 記憶の底で、何かが軋む音がした。


 ページをめくると、

 旅館の描写が続いていた。

 しかし、その描写は

 “今の旅館”とは微妙に違っていた。


 廊下の長さ。

 階段の段数。

 部屋の配置。

 窓から見える湯畑の光の色。


 まるで、ノートに書かれた旅館と、

 僕がいる旅館が、

 少しずつ違う世界に存在しているかのようだった。


 ──いや、違う。

 僕が“いる”と言い切れるのか?


 その疑問が胸の奥で膨らんでいく。


 部屋の隅に置かれた鏡が、

 ふと目に入った。

 鏡の中の僕は、

 輪郭が曖昧で、

 湯けむりに溶けていくように見える。


 僕は鏡に近づき、

 手を伸ばした。


 指先が鏡に触れた瞬間、

 冷たさが伝わるはずなのに、

 何も感じなかった。


 ──僕は、本当にここにいるのか?


 その疑問が、

 今までで一番強く胸に迫った。


 ノートの次のページには、

 こう書かれていた。


 「僕は、あの夜のことを忘れない。」


 胸の奥が痛んだ。

 あの夜。

 裏切った夜。

 置いていった夜。


 記憶の断片が、

 湯けむりの中で揺れ始める。


 暗い廊下。

 誰かの手。

 呼ばれた名前。

 振り返らなかった自分。

 走る音。

 追いかけてくる気配。

 そして──沈黙。


 僕は、何をした?

 誰を裏切った?

 誰を置いていった?


 ノートの最後の行に、

 こう書かれていた。


 「僕は、あなたを裏切っていない。」


 その言葉を見た瞬間、

 視界が揺れた。

 湯けむりが一層濃くなり、

 部屋の空気が急に冷たくなった。


 裏切っていない?

 では、この罪悪感は何なのか。

 あの夜の痛みは何なのか。


 僕はノートを閉じ、

 深く息を吸った。


 ──僕は。


 その言葉の続きを、

 僕はまだ言えなかった。


 湯けむりの向こうで、

 誰かが僕の名前を呼んだ。


 今度は、はっきりと。


 振り返った。

 しかし、そこには誰もいなかった。


 ただ、湯けむりだけが、

 “あなた”の形をして揺れていた。


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