第3話 あなたを
湯けむりの向こうで、誰かが僕の名前を呼んだ。
その声は、遠くから聞こえたようで、
すぐ耳元で囁かれたようでもあった。
振り返っても、誰もいない。
ただ、旅館の空気だけが、僕の存在を確かめるように揺れていた。
──あなた。
その言葉が、胸の奥で静かに響いた。
誰の声だったのか。
なぜ“あなた”と呼ばれたのか。
思い出そうとすると、記憶の表面がざらつき、
湯けむりのように形を失っていく。
部屋の隅に置かれた座卓の上に、
いつの間にか一冊のノートが置かれていた。
さっきまで何もなかったはずなのに。
黒い表紙。
角が少し擦り切れている。
手に取ると、紙の匂いがふわりと立ち上った。
──誰のものだ?
開くのが怖かった。
けれど、開かずにはいられなかった。
最初のページには、癖のある筆跡でこう書かれていた。
「あなたを、探している。」
その一文を読んだ瞬間、
胸の奥が強く締めつけられた。
まるで、忘れていた痛みが一気に蘇ったように。
“あなた”とは誰なのか。
僕は誰を探しているのか。
あるいは──誰に探されているのか。
ページをめくると、旅館の描写が続いていた。
廊下の匂い、部屋の配置、湯けむりの揺れ。
どれも僕が“今”見ている光景と同じだった。
しかし、いくつかの描写は、
僕の記憶と微妙に違っていた。
廊下の長さ。
階段の段数。
部屋の位置。
窓から見える湯畑の光の色。
まるで、僕がいる旅館と、
このノートに書かれた旅館が、
少しずつ違う世界に存在しているかのようだった。
ページの端に、短い一文が挟まっていた。
「あの夜、あなたを置いていった。」
その言葉を読んだ瞬間、
胸の奥で何かが崩れ落ちた。
──僕は、誰を置いていった?
記憶の断片が、湯けむりの中で揺れ始める。
暗い廊下。
誰かの手。
呼ばれた名前。
振り返らなかった自分。
走る音。
追いかけてくる気配。
そして──沈黙。
思い出せない。
思い出したくない。
けれど、思い出さなければならない。
ノートの次のページには、
こう書かれていた。
「あなたを、裏切っていない。」
その言葉を見た瞬間、
視界が揺れた。
湯けむりが濃くなり、
部屋の輪郭がゆっくりと溶けていく。
裏切っていない?
では、僕が抱えているこの罪悪感は何なのか。
あの夜の痛みは何なのか。
ノートを閉じると、
部屋の空気が急に冷たくなった。
まるで、誰かがすぐそばに立っているような温度だった。
──あなた。
また、声がした。
今度ははっきりと。
僕のすぐ後ろから。
振り返った。
しかし、そこには誰もいなかった。
ただ、湯けむりだけが、
僕の名前を呼んだ“誰か”の形をして揺れていた。
僕はノートを抱きしめるように胸に押し当てた。
その温度が、なぜか懐かしかった。
──あなたを。
その言葉だけが、
湯けむりの中で確かな形を持っていた。




