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湯煙が隠した雪  作者: 双鶴


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3/5

第3話 あなたを

 湯けむりの向こうで、誰かが僕の名前を呼んだ。

 その声は、遠くから聞こえたようで、

 すぐ耳元で囁かれたようでもあった。


 振り返っても、誰もいない。

 ただ、旅館の空気だけが、僕の存在を確かめるように揺れていた。


 ──あなた。


 その言葉が、胸の奥で静かに響いた。

 誰の声だったのか。

 なぜ“あなた”と呼ばれたのか。

 思い出そうとすると、記憶の表面がざらつき、

 湯けむりのように形を失っていく。


 部屋の隅に置かれた座卓の上に、

 いつの間にか一冊のノートが置かれていた。

 さっきまで何もなかったはずなのに。


 黒い表紙。

 角が少し擦り切れている。

 手に取ると、紙の匂いがふわりと立ち上った。


 ──誰のものだ?


 開くのが怖かった。

 けれど、開かずにはいられなかった。


 最初のページには、癖のある筆跡でこう書かれていた。


 「あなたを、探している。」


 その一文を読んだ瞬間、

 胸の奥が強く締めつけられた。

 まるで、忘れていた痛みが一気に蘇ったように。


 “あなた”とは誰なのか。

 僕は誰を探しているのか。

 あるいは──誰に探されているのか。


 ページをめくると、旅館の描写が続いていた。

 廊下の匂い、部屋の配置、湯けむりの揺れ。

 どれも僕が“今”見ている光景と同じだった。


 しかし、いくつかの描写は、

 僕の記憶と微妙に違っていた。


 廊下の長さ。

 階段の段数。

 部屋の位置。

 窓から見える湯畑の光の色。


 まるで、僕がいる旅館と、

 このノートに書かれた旅館が、

 少しずつ違う世界に存在しているかのようだった。


 ページの端に、短い一文が挟まっていた。


 「あの夜、あなたを置いていった。」


 その言葉を読んだ瞬間、

 胸の奥で何かが崩れ落ちた。


 ──僕は、誰を置いていった?


 記憶の断片が、湯けむりの中で揺れ始める。


 暗い廊下。

 誰かの手。

 呼ばれた名前。

 振り返らなかった自分。

 走る音。

 追いかけてくる気配。

 そして──沈黙。


 思い出せない。

 思い出したくない。

 けれど、思い出さなければならない。


 ノートの次のページには、

 こう書かれていた。


 「あなたを、裏切っていない。」


 その言葉を見た瞬間、

 視界が揺れた。

 湯けむりが濃くなり、

 部屋の輪郭がゆっくりと溶けていく。


 裏切っていない?

 では、僕が抱えているこの罪悪感は何なのか。

 あの夜の痛みは何なのか。


 ノートを閉じると、

 部屋の空気が急に冷たくなった。

 まるで、誰かがすぐそばに立っているような温度だった。


 ──あなた。


 また、声がした。

 今度ははっきりと。

 僕のすぐ後ろから。


 振り返った。

 しかし、そこには誰もいなかった。


 ただ、湯けむりだけが、

 僕の名前を呼んだ“誰か”の形をして揺れていた。


 僕はノートを抱きしめるように胸に押し当てた。

 その温度が、なぜか懐かしかった。


 ──あなたを。


 その言葉だけが、

 湯けむりの中で確かな形を持っていた。


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