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湯煙が隠した雪  作者: 双鶴


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第2話 裏切って

 廊下の奥で、誰かが歩いている気配がした。

 規則的な足音が、木造の床をゆっくりと沈ませる。

 その音は、まるで僕の胸の奥に沈んでいる“何か”を呼び覚ます合図のようだった。


 襖を開けても、やはり誰もいない。

 ただ、廊下の空気がわずかに揺れている。

 誰かが通った直後のように。

 しかし、旅館の廊下は静まり返っていた。

 静かすぎるほどに。


 普通の旅館なら、どこかの部屋からテレビの音が漏れたり、

 誰かの笑い声が聞こえたりするはずだ。

 けれど、この旅館にはそうした“生活の音”がまったくない。

 静寂が、湯けむりのように廊下を満たしている。


 部屋に戻ると、座卓の上に置いたはずの湯呑みが、

 ほんのりと温かかった。

 触れた覚えはない。

 けれど、誰かがついさっきまでここにいたような温度が残っている。


 湯呑みを手に取ると、

 その温度が僕の体温と一致しないことに気づいた。

 温かいのに、冷たい。

 触れているのに、触れていない。

 そんな矛盾した感覚が、指先から腕へとゆっくり広がっていく。


 ──誰が、ここにいた?


 そう思った瞬間、胸の奥が痛んだ。

 あの夜の痛みに似ている。

 思い出したくないのに、忘れられない痛み。


 裏切った夜。


 その言葉が、湯けむりの中でゆっくりと形を成していく。

 けれど、僕はその夜のことをはっきりと思い出せない。

 何を裏切ったのか。

誰を裏切ったのか。

 裏切りとは何だったのか。


 記憶の輪郭が、湯けむりのように揺れている。


 部屋の隅に置かれた鏡が、ふと目に入った。

 鏡の中の僕は、どこか“薄い”。

 輪郭が曖昧で、湯けむりに溶けていくように見える。

 表情が、わずかに遅れて動く。

 目だけが、僕とは違う方向を見ている。


 僕は鏡に近づき、手を伸ばした。

 指先が鏡に触れた瞬間、

 冷たさが伝わるはずなのに、何も感じなかった。


 ──僕は、本当にここにいるのか?


 その疑問が胸の奥で膨らんでいく。

 けれど、同時に別の感情が湧き上がる。


 罪悪感。


 理由は分からない。

 けれど、この旅館に足を踏み入れた瞬間から、

 胸の奥に重い影が落ちている。

 誰かに謝らなければならない気がする。

 誰かを置いてきた気がする。

 誰かの声が、僕を責めている気がする。


 廊下の向こうで、また足音がした。

 今度ははっきりと聞こえた。

 誰かが、僕の部屋の前で立ち止まったような気配。


 襖の向こうに、誰かがいる。


 息を呑んだ瞬間、

 足音はすっと消えた。

 気配も、温度も、すべてが消えた。


 まるで最初から誰もいなかったかのように。


 僕は襖に手をかけた。

 開けようとしたその瞬間、

 胸の奥で何かが囁いた。


 ──開けてはいけない。


 その声は、僕自身のものではなかった。

 けれど、確かに僕の中に響いた。


 裏切ってしまった。

 その事実だけが、湯けむりの中で静かに反響していた。


 そして、ふと気づいた。

 廊下の壁に貼られた避難経路図の部屋番号が、

 僕の部屋と一致していない。

 昨日見たときと、配置が違う。


 時間が、空間が、

 どこかで歪んでいる。


 ──あの夜も、こんなふうに世界が歪んで見えた。


 その記憶の断片が浮かび上がった瞬間、

 湯けむりが一層濃くなった。


 裏切ったのは、

 僕のほうなのか。

 それとも──僕の記憶のほうだったのか。


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