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湯煙が隠した雪  作者: 双鶴


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第1話 いない

 湯けむりは、夜になると濃くなる。

 窓を少し開けただけで、白い蒸気がふわりと部屋に入り込み、

 畳の匂いと混ざり合って、胸の奥をざわつかせるような気配を残した。


 草津温泉の旅館に泊まるのは初めてのはずなのに、

 この空気には、妙に馴染みのある“温度”があった。

 初めて見るはずの廊下の木目も、

 初めて聞くはずの湯畑のざわめきも、

 初めて嗅ぐはずの硫黄の匂いも、

 どこかで一度触れたことがあるような錯覚を呼び起こす。


 錯覚──そう呼ぶには、あまりにも鮮明すぎる。


 座卓に腰を下ろすと、畳の感触が足裏に伝わってきた。

 だが、その感触はどこか“薄い”。

 触れているのに、触れていないような、

 現実と夢の境界に足を踏み入れたような感覚だった。


 湯けむりの揺れを眺めていると、

 ふと、ここに来た理由を思い出そうとして、

 その“理由”が霧のように指の間からこぼれ落ちていくのを感じた。


 なぜ僕は、この旅館にいるのだろう。

 いや、“いる”という言い方が正しいのかどうかも、少し曖昧だった。


 窓の外では、湯畑の光が揺れている。

 遠くで湯の落ちる音がして、そのリズムが妙に心地よい。

 まるで、誰かがこの音に合わせて呼吸しているかのようだ。


 廊下の向こうから、足音が聞こえた。

 規則的で、軽やかで、すぐ近くまで来ているように感じた。

 けれど襖を開けても、そこには誰もいない。

 足音の主の気配すら残っていない。


 旅館の人だろうか。

 それとも、僕の勘違いだろうか。

 この旅館は、夜になると急に静かになる。

 人の気配が薄くなり、建物そのものが眠りにつくように。


 部屋の中を見回した。

 どれも見覚えのないはずの家具が、

 なぜか“知っている”ような感覚を呼び起こす。

 この感覚は何なのだろう。

 記憶の底に沈んでいた何かが、湯けむりに触れて浮かび上がってくるような。


 座卓の上には、何も置かれていない。

 けれど、そこに“何かがあった”ような気がしてならない。

 手を伸ばせば触れられるはずの“何か”。

 しかし、触れようとすると指先が空を切る。


 旅館の構造も、どこか曖昧だった。

 廊下の長さが一定しない。

 階段の段数が、上るたびに違う気がする。

 部屋の位置も、さっき見たときと微妙に違っているように思える。


 普通の旅館のはずなのに、

 どこか“異様”な気配が混ざっている。

 その違和感が、胸の奥で小さく疼いた。


 ──あの夜も、こんなふうに胸が痛んだ。


 その記憶の断片が浮かび上がった瞬間、

 僕は思わず息を呑んだ。

 思い出してはいけない。

 けれど、忘れてはいけない気もする。

 そんな矛盾した感情が、湯けむりの中でゆっくりと渦を巻いた。


 湯けむりが濃くなり、視界が少し霞む。

 その白さの向こうに、何か大事なものが隠れている気がした。

 思い出さなければならないことがある。

 けれど、まだその輪郭がつかめない。


 僕は、ここにいる。

 そう思おうとするたびに、胸の奥で小さな違和感が疼く。


 湯けむりの向こうで、誰かが僕の名前を呼んだ気がした。

 振り返っても、誰もいない。

 ただ、旅館の空気だけが、僕の存在を確かめるように揺れていた。


 ──ここに、僕は本当に“いる”のだろうか。


 その問いだけが、湯けむりの中でゆっくりと形を成していった。


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