62,夫婦としておかしくないだろう?
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パチパチと枝が爆ぜる。その音は耳にひどく大きく聞こえる気がする。
周囲から聞こえるのは虫の声くらいだが、すでに夜も更けていてすべてが寝静まっているような静寂に包まれている感覚がある。樹々に凭れるように眠っている部下たちの呼吸も、今は耳には入らない。
動いているのは俺の眼前にある焚火と、それに照らされゆらめく影。
それを見つめて、息を吐いた。
「見張りご苦労さま」
土を踏んでやってきた彼女を見上げる。一度天幕に入ったのに、目が覚めたのだろうか?
「休んでいていいぞ」
「目が覚めた」
俺の隣に腰掛けた彼女はなにかを言うでもなくただ座っている。
俺の膝の上では守護獣が丸くなって眠っている。眠るときも隠形しないので、初めて顕現してからずっと視ている光景だ。
隣に座った彼女に視線を向けられずにいると、隣から先に声をかけられた。
「昼間の件についての結論は不満だったか?」
「……陛下には、本当のことを報告する」
「ああ。君はそこに偽りを入れない。そうしなければならないことも解るさ」
平然と重大なことを隠そうとしているのに、ここだけはあっさり頷く。
解ってくれていると喜ぶべきなのか、あっさりすぎると拍子抜けするのか、自分でも分からない。
「……毒のこと、なぜすぐ言わなかった?」
「状況が悪かった。それから、敵の動きを確実に絞って狙いを探るため。城にはすでに帰還の目安日程を伝えてあるし、君は大幅に予定を変更させて陛下を戸惑わせることは避けるだろう。日程が変更すれば何かあったのだと思われて、防衛に成功したのだという士気も下がる」
「俺が少人数に分けるのは想定済みだったから、狙ってくる敵を相手にしやすいと?」
「そうだな。効くと思った毒が効かない、しかし相手は少数、となると小細工よりも直接来る可能性は高い」
自身のことならともかく、陛下や国に関わることに予定外は入れたくない。問題なく、想定通り予定通り、そうこなすことを望む。
そういうふうにするのが一番無難だと知っている。――俺の考えをよく解っている。
物事にはすべて想定外はある。だからこそ、修正力と対応策を考える。
今回は彼女が体調不良ということになったが、他の騎士であった場合のことも考えていた。
人が違った。それに加え、彼女なりの想定があった。それだけ。
「……命の危険があるなら、ちゃんと俺には伝えてくれ」
「……」
「それとも俺は――……っ、伝えるべき相手だと思われていないだけか……?」
「そんなことはない」
「っ、なら!」
ぐっと奥歯を噛んだ。顔を上げて、隣の彼女を見る。
きょとんとした顔があって、こてんと首を傾げる、なにも分かっていなそうな表情。
人の機微を察しない。平然と自分すら囮に使う。易々と敵を撃退し、事態の隠蔽すら図る。
とても姫君とは思えない。大胆で、豪胆で、不敵。
だが知っている。
何事もない平時の彼女は、楽しそうに人を揶揄って、笑って。物事に興味を抱いて己の足で向かう。存外に他者へ気配りもできる。
洗練された所作。楽しそうに踊るダンス。どれだけ俺を驚かせて、楽しくさせたのか、きっとあなたは解っていないのだろうな。
――だから、脳裏をよぎって苦しくなるのかもしれない。
「っ……もう、あんな想いはしたくない……」
一瞬で心臓が止まるかと思った。頭は動けと言うのに、心臓が煩いほどなのに、身体が急速に冷えて動かなくなるような、あの感覚。
目の前が真っ暗になるあの感覚は、父が裏切ったという衝撃とは違う、絶望だ。
俺の告白に彼女はなにも言わず、沈黙が落ちた。
どれほど時間が経ったのか、枝の爆ぜる音だけが鮮明に耳に入る中、静かな音色が俺の耳に届く。
「……呆れられることこそあれど、そんなことを言われたのは初めてだ。そうか……。君を傷つけてしまったんだな。すまない。せめての謝罪になにかしよう。なんでも言ってくれ」
「……今後は大人しくしてくれ」
「うむ。私情と個人的利益による場合は考慮しよう」
「すべてにおいてだ!」
「こら。わたしの目的を阻害するな」
「なんでもと言ったのはあなただが!?」
「聞ける頼みと聞けない頼みがある」
……なんなんだこの人は。一気に俺を脱力させる。自分で言った言葉を早々にひっくり返している。
脱力するのに怒りが湧くのはこれまでの諸々のせいだろうか。
「だいたいあなたは! ――っ!」
「静かに。皆が起きてしまう」
俺の唇に人差し指をあてて制する。反射的に口を閉ざした俺に、彼女は満足そうに微笑んだ。
(その笑みからは想像できないことばかりするんだ)
まるで慈悲深さを表すような微笑みには穏やかさと優しさがある。なのに口を開いて動きだせば全く違う。
騙されてはいけないと思うのに、その笑みを見ると言葉が続かなくなるから、困る。
「ギルベール。わたしは決めたんだ。そのために必要なことはどんな手を使ってもやる。そこはなにがあろうと変わらない」
「……自身の命と危険を懸けてもか?」
「わたしは君が幸せになるそのときを見届ける。だからそんな馬鹿な賭けはしない」
もう何度その言葉を聞いただろうか。驚いて、ありえないと頭を振って、本気でそうしようとする様に呆れもあったかもしれない。
それでも彼女は変わらない。その目的のためにずっと前を見据えている。
なぜだと問うても「夫婦だから」と笑うのだろう。今はまだ、それをどう受け取っていいのか分からない。
(あなただけだ。そんなことを、この俺に言うのは……)
だからだ。きっと。――こんなにも困ってしまうのは。
誰になにを言われようと受けて立つ彼女が――他の誰とも違って見えるのは。
「……なんでも、聞いてくれるんだな?」
「聞ける頼みなら」
「命を天秤にかけるようなことだけはするな。今後もこんなことがあれば俺には必ず伝えろ。必要ならいつでも言ってくれ、俺も協力する」
「分かった。肝に銘じる」
素直な返事に、俺は思わず彼女をじっと見つめる。怪しく思ってしまうのは仕方ないと思ってほしい。
俺の視線の意味に気づいたのか、彼女はむっとした顔をする。
「さては信じてないな?」
「日頃の行いのせいだと思え」
「他者ならともかく、君からの頼みはちゃんと守る。君の信用を壊すことはしたくない」
改めて痛感させられた。
俺たちがこうしている時間は長いようで短い。二年間は言葉を交わすこともあまりなく、それができ始めてまだ三か月も経っていない。
もっと長いような気がしていたが、彼女がそう言うほどに俺たちは関係もちゃんと築けていなかったのだ。
(まだまだだな……)
「まあ、ただ……嬉しかったよ」
「?」
彼女の後ろの尻尾がゆらりと揺れる。白銀の毛は炎に照らされ、オレンジ色のゆらめきと輝くような銀色が美しい。
その中で、彼女は嬉しそうに笑っていた。
「いつも名前を呼んでくれない君が、あんなに必死に呼んでくれるなんて思わなかった」
「……? ――あっ、あれは……!」
「あれは?」
にこりと彼女の笑みが俺に向く。ゆらゆらと揺れる尻尾がまるで彼女の心を表すようであり、視界に入ると見ていられない。
視線を逸らせば隣からくすくすと笑う声が聞こえる。
「……気をつける」
「君がわたしの名前を口にしないのは、婚姻の元凶のせいだろう? 今すぐやめなさい。でなければ、君はこれからもずっとそれを背負ってしまう。わたしは君を幸せにするが、それには君の意識変革も必要だ」
「だが……」
「ふむ……。ギルベール。わたしと君は夫婦だ」
「……それがどうした?」
「ならば夫婦としての触れ合いをしてもなんらおかしくはない。どころか君とは口づけの一つもしていない」
顔が歪むのが自分でも分かった。
確かに俺は普段からこの人を名前では呼ばない。これは婚姻当初からそうしていることで、これまでもずっとそうしてきた。
触れ合いも必要最低限にしている。社交会でのエスコートやダンスは触れるのも仕方ないが、それ以外では触れないようにしている。当然夫婦としてなどあるはずがない。彼女もそれは感じていたのだろう。
今になって、俺を見てにこりと微笑む。
「名前で呼んでくれないなら、出勤時と帰宅時と就寝前に口づけで挨拶を――」
「シルティと呼べばいいんだな!? 分かったそうする!」
言葉を失う提案に言葉を失わないようすぐさま答えた。言葉が出なければ最後、「了承と受け取った」とでも言って本当にそうされかねないと直感が警鐘を鳴らした。
名前を呼んでくれと普通に言えばいいものを、なにをとんでもない脅しをかけてくるのか。断られるのは分かっていただろうくせにがっかりしている顔をするな。
(その目……冗談ではなかったのか。虎視眈々と狙いを定めるような目をするな)
自分の命を囮にするほど豪胆なくせ、こんなどうでもいいようなことにまで本気をみせる。
(……いや待て。まさか本気で俺が断ればそうするつもりだったのか……!? やめてくれっ……)
言葉を交わすのも少なかった関係でいきなりそんなことになるのはさすがに困惑する。想像するだけでも――……よくない。頬に熱が集まっている気がする。やめろ今すぐに。
不快だというわけではなく、いきなりすぎるというだけだ。豪胆すぎてついていけない。
一気に疲労に襲われ、身体から力が抜ける。
「……もう休んだらどうだ? 明日は馬で走ることになる」
「問題ない。それに、今横になっても休めそうにない。ふふっ。君はこの手の攻めには弱いんだな。いいものを見せてもらった」
「っ……! 人を揶揄うのはやめろ! そして今後も妙なことを言い出すなそしてするな!」
「ふふふふっ」
「聞いてないな……!?」
なるべく声量は落としているが、至近距離で耳に入ったのか膝の上で眠っている守護獣が身じろいだ。起こしてしまったかと慌てて守護獣を視て、起きていないと分かってほっとする。熟睡しているのを起こすのはさすがに悪い。
ほっとする俺の隣で、彼女が優しい眼差しで俺を見ていたことには気づかなかった。




