44,手合わせ
彼女のことをなにも知らない。
その事実は、自覚する度に心を握り潰すような、心の傷を強く疼かせるような、鈍い痛みを与えてくる。
――しかし今は、それを忘れる。
「――はじめ!」
思考を瞬時に切り替えたと同時、目の前の彼女が消えた。
人間にはできない圧倒的な身体能力。かつての戦で嫌というほど差を痛感させられた、獣人の優位性。
(耳を澄ませ。目で追えずとも、音と気配は――消せない)
剣を持つ手を回し、右側をガードする。ガキッと音が鳴って木剣を防いだ。
視界でなびく、銀色の髪。
「ふむ……」
受け止められても冷静だ。瞬時に木剣を滑らせる。
流し、反撃するが、見越したように彼女はそれを受け止める。
続けて木剣の打ち合う音が響いた。
(速い)
動きの一つひとつが無駄なく最小限。加えて俺の動きをよく見ている。
筋力という差もその圧倒的な速さで補ってくる。非常に厄介な相手だ。こちらが大振りできないよう細かく、間を置かず、攻撃をしかけてくる。
動きを封じるために足払いをかければ、受け流すように体が流れる。その隙を狙い木剣を振り下ろすが、体勢が崩れても慌てることなく、俺の木剣を突きで止める。
(先王に習ったという話だが、全く違う戦い方だ)
それとも、先王が彼女だけの戦い方を教えたのだろうか。だとしたら瞬時に見抜いて最適を教える、素晴らしい師だっただろう。
地を蹴る彼女の姿が視界から消えても、俺の耳には足音と風を切る音がよく聞こえる。だから、音が速さより速い限り、俺が遅れることはない。
……とはいえ、彼女はかなりの手練れだ。ずっとこのまま応戦は難しいだろう。
そう判断した俺は木剣を受ける。
刀身同士を滑らせる勢いで、攻勢に転じる。立場を変えるように俺が攻撃を浴びせる。
攻撃の手だけでなく防御もできる彼女は、俺の太刀筋をよく見て避け、流す。
俺と彼女の木剣がぶつかり合う。何度もぶつかり合って音をたてる木は、気持ちのいい音を奏でてくれる。
互いの間に距離ができたとき、彼女が木剣の先を下げた。
「ふぅ。降参」
「えっ、えっと……シルティ様の降参により、ギルベール様の勝利!」
思わぬ決着のつき方に俺も意表を突かれる。
木剣を下げると、試合を終えた彼女がこちらへやってきたところだった。
「さすが。強いな」
「……あなたもかなりいい線だったが。なぜ降参した?」
「あのままやっていてもわたしの負けだ。それに、君の実力がよく分かった」
そう言われるほど圧倒していたわけではない。彼女の実力に驚くことばかりだった。
いつの間にやら周りは静かで、鍛錬場の騎士たちの視線が俺たちに向けられているからとても居心地が悪い。
彼女と俺の手合わせなど、好奇心を引くには充分だっただろう。
「すげえ! すごいです、シルティ様!」
「ギルベール様とあんな試合できるなんてびっくりしました」
「ファルダ国って王族でもこんなにできなきゃダメなんですか?」
俺と顔見知りであったり部下だった者たちがわっと歓声を上げてやってくる。少々驚いてしまうが、その視線は俺にも彼女にも向いている。
探っていたような微妙な距離感をもっていたのに、今はもうそれを感じさせない。彼女も自然と周りの騎士たちとの会話に興じている。
「若もすごいです。あの速さに追いつけるなんて。俺、目で追えなかったんですけど」
「なんで狙われてる方が分かるんです? 」
「気配までは消えないからな。後は音を拾う」
「「「常人離れすぎっ!」」」
なぜかとても驚かれた。集中すればできるものだと思うのだが……。
騎士たちが驚き交じりであれこれと言っているのを聞いていると、突如俺の前に風が吹いた。
「俺とも手合わせ!」
きらきらと輝く瞳。ぶんぶんと振られている尻尾。うずうずとしているような微かな震え。
ファルダ国騎士レオンハルトが興奮している様子で目の前にいた。
……待て。追いつけないほどの速さだったんだが。そしていつから見ていた?
「……あ、ああ」
「っしゃあぁっ! 先王陛下とやり合ったって話聞いてからもうっやりたくってやりたくて! 始めましょうや! 姫様木剣貸してー」
飛び跳ねるほどに喜び、興奮し、その興奮のまま一人で実に楽し気だ。周りにいる俺たちは唖然とさせられるしかない。
勢いに押されるしかない俺の前で、拳を突き上げたレオンハルトが木剣を手に跳ねながら距離をとる。
「もー。姫様ばっかずるいー」
「ははっ」
(……ん? ん……んんっ!?)
理解が遅れる。彼女だけは冷静で「ふむ。見させてもらおうか」などと呟いている。
……待て。やるのか?
さすがにファルダ国の騎士は強力だと解っているので気が抜けない。……全力でかかってこられる予感がひしひしとする。
が、言ってしまったものは取り消せない。
騎士たちが下がったのを見て、俺も木剣を構える。
「それじゃあ、始め!」




