32,忠告
「ご夫君も苦労なさるでしょうねえ。まさか夫人がそのようなことをなさるなんて」
耳がその音を拾い、ぴくりと動く。沸き起こる感情を隠しても不快は増すばかり。
――これだ。
こういう場所、こういう相手には、こちらが感情的になるのは逆効果。どう対処しても相手に睨まれるから、シルティはただ黙っていたんだろう。
(全く。どこかの誰かにそっくりだ)
シルティは他国の人間だ。獣人だ。この国にとっては異分子。
こういう相手がいることはなにもおかしいことではない。どの国の者もすべて平等に偏見なく、なんてことは無理な話。
(シルティにはどうにもいろいろな噂があるようだけど、文化の違いというのもあるからな……)
まあ、そういうものは体験するか知識として入れなければ分からないもの。説明したところでこういう相手が理解できるとは思えない。
「せっかく町へお出になったなら、たくさん買い物なさったのかしら?」
「それはそうでしょう? それも貴族の役目。夫人だって一応は――……」
「ちょっと。夫人はロドルス国の品よりファルダ国の品がお気に召しているのよ。それにいくら公爵家とはいえ……」
「あら。ごめんなさい。そんなつもりは……」
令嬢が発した言葉を婦人が窘め、令嬢は視線を逸らしつつ外面だけは殊勝に謝ったが、扇で隠している口元の歪みは目に見えるようだ。
それが芝居であってもなくてもどうでもいいけれど、よく理解できた。
(ロザロス公爵家は家格こそあれ、先代当主の一件からその立場は弱い。加えて、他家に比べれば公爵家としては財も少ないということか。……なるほど。思っていたより随分と、敬意を払うに値しない相手と見られているのか。わたしにもギルベールにもその必要はないと)
そうされる要因はいくつかある。けれど、それをひっくり返すことは可能だ。
そうするつもりしかないから、わたしはにこりと笑みを浮かべる。楽しみで面白くてたまらない。
(誰かを幸せにするために動くというのは、こんなにも楽しいものなのか)
シルティの想いは無にしない。彼女がいた記憶は、願いは、想いは、わたしがちゃんと持っている。
いろんなものを背負って受けとめてばかりの、放っておけないギルベールを、わたしは絶対に見捨てないし独りにさせない。
よし。決めてわたしは微笑みのまま目の前の女たちを見つめる。
「ご安心くださいな。ファルダ国でもきっと同じことですから」
「……同じとは、どういう?」
「国が違えば立場も違う、というだけの話です。強者の威を借る弱者……多数派を味方につければそれはそれは強くなれますよねえ? だけどほら――数って変動しますから」
目の前の顔が歪む。扇を持つ手に力が入っているのがよく見える。
ぷるぷると頬の筋肉が引き攣っている。そのせいで震える口が、感情を抑えるように開かれる。
「なにをおっしゃっているのかしら?」
「見慣れ、知れば、色は薄まるという話です。まあわたしの場合、絶対に薄めませんからご心配なく」
なにをするか、そう決めた瞬間にすでに頭の中に幾人かの名前を刻んでいる。
眉間に皺を刻んだ婦人が扇を広げて口許を隠す。
「なにを言いたいのかさっぱりだわ。これが獣人の言葉なのかしら?」
「サルヴァン公爵夫人。理解などできるものではありませんわ」
どうやらこの一団の中心であるのは、公爵夫人のようだ。
周りの者たちがくすくすと馬鹿にするように笑っている。耳にそれを入れながら、頭に刻む名前を増やす。だからどうしても、口端がつり上がるのが自分でも分かる。
「ああ、いいですよ、解らなくて。解るとも思いません」
「……なんですって?」
目の前で多くの柳眉がつり上がる。わたしは口端を上げるだけだ。
「忠告しておきましょう。その軽率な判断力は直すほうがよろしい。いずれそれがひっくり返ったとき、肩身の狭い思いをすることになりますから」
「強がりもたいがいになさい。あなたがこの国でなにをできるというの? 守護獣も立場も夫もなにもなく、獣らしさしかないあなたが」
「そちらこそ虚勢を張るしかない、肩身の狭い思いをなさっているのでしょう?」
くすくすと笑う声がサルヴァン公爵夫人の周囲から聞こえる。
多勢に無勢。この場で最も安心という人の後ろで同調していればいい。そんな声は聞くに値しない。
だから、笑みは消えない。
そんなわたしの前で、あからさまに憂う息を吐いたサルヴァン公爵夫人が言った。
「そんな様子ではご夫君との仲も知れてしまいますわね。まあ、あんなことで結んだものですから当然でしょうし、あの人にとっても仕方ないことでしょうけど」
わたしとサルヴァン公爵夫人は同じ立場だ。家の力に差はあるが、家格だけで言えば同じ。当然だけれど夫は公爵。互いの夫は相応に敬意を払う相手になる。
……まあわたしにとって、敬意を払うに値するか否かは別問題だけれど。
(しかし、ギルベールを過去の戦とその影響で語られるのは、腹が立つな)
確かにギルベールは戦という場において強者だ。……だけど、強くない。
それになにより、今はわたしがいる。
「ふふっ」
「なにがおかしいの?」
「心配無用ですよ。わたし、今はギルベール様にしか興味ないくらい夢中なんです。ギルベール様もいつもわたしのことを考えてくれて……。これ以上ないほど幸せな――……ああ。聞いてほしいわけではないですよ。聞かせたくもないですし」
「!」
その僅かな反応たちを見逃さない。――この耳は常に音を拾う。そこから得られるもので判断するには充分すぎる。
嗤い、下に見る。だけどそんな相手が意に介した風もなく笑って幸せそうだったら。耐え忍ぶ屈辱と歪む表情が好みなら、それはそれは面白くないだろう。
わたしはそんなものになってやるつもりはない。
「サルヴァン公爵夫人。せっかくですしもう一つ忠告しましょう」
「もう結構。聞くに値しないわ」
「そうですか。では――お気をつけて」
語るに値しない連中だ。だから、屈辱に歪む表情と眼光など見えないものとして「失礼」と断ってくるりと身を翻す。
後ろからは視線が刺さるけれど、それに揺らされることなどなく、むしろ胸中は凪いでいる。
(ふむ。社交界での上を目指して、ギルベールを上に持ち上げるために手を打つか。とはいえ、こういう場もお世辞も苦手だな)
社交界最底辺からのし上がるのも面白そうだから、考えると少々わくわくしてしまうけれど。
さて。ひとまずギルベールのもとへ戻ろうかと歩いていると、今度は別の集団に声をかけられた。
これまた女性たちの集団だ。けれど、先程までのそれとは違う。
「ごきげんよう。ロザロス公爵夫人」
「ごきげんよう」
ぱっと見て分かる一団の中心。どこか落ち着いた空気をまとう婦人だ。わたしを見て微笑む表情からも、先程までのような嫌悪は感じられない。
婦人を囲むのは全体的にどこか落ち着いた、勝気な空気のない令嬢や婦人たち。
(こっちが、情報本に書いてあった社交界のもうひと勢力か…)




