31,彼女が耐えていたもの
「失礼いたします」
思考を破る声が入ってきて、視線を向けた。
そこにいるのは二人の女性だ。どこかの家の令嬢だろう二人は礼をする。
どこの家の者だっただろうか……。家名は頭に入っていても、個人の顔は声をかけてくる相手かその家の当主くらいしか覚えていないので、少々記憶を引き出すのに時間がかかる。
とくに女性はほんの数年前までは積極的に周りを囲みにきたが、父の反逆と獣人の妻という背負うものが増えた今はあっさりと掌返しをしている。なので俺も忘れた部分が大きい。
そういう事情があるので、おおかたこの女性が用があるのはバートハート殿だろう。そう思って俺たちは離れることにする。
「バートハート殿。私たちはこれで――……」
「お待ちくださいませ、公爵様」
なぜか俺が呼び止められた。
用件があると思えないが呼ばれたので一応は視線を向けるが、同時にバートハート殿に一瞥を向けた。バートハート殿はなぜか肩を竦める。
「私に何か?」
「その……夫人と少し、お話させていただきたくて……」
令嬢たちは指を絡めて歯切れ悪く言う。
町や屋敷での一件から王都民で獣人にいい印象を持つ者は少ないと痛感した今、彼女を不快にさせたり傷つけるならば苦言は呈させてもらうつもりだが、そうでないなら俺がどうといえるものではない。
こうした人の多い場では獣人である彼女に堂々と親しく声をかけられる者はいないだろう。しかし彼女は今、陛下も気に入るダンスを披露し、妃殿下が興味を示すファルダ国のドレスを唯一持っている人物という魅力がある。
ちらりと隣の彼女に視線を向けるが、さして変わりなくなにを考えているかも分からない目が俺を見た。
(……また余計なことをしなければいいんだが。今夜はずっと見張っているべきか……? しかし彼女にも付き合いは――いや。今後のためにも必要だろうか?)
さまざまな思考がよぎる。考えるほどに頭痛がする。
……これがなくなる日はくるのだろうか。
「……だそうだが、どうする?」
「ええ、是非。わたしも皆さまとお話したいです」
そのにこりとした笑顔が俺の気力を削ぐ。意識せずげんなりとした様が表情に出てしまったのか、彼女がくすくすと喉を震わせた。
……やはりどうにも、いいことを考えているようにはみえない。
駄目だと言っても問答を繰り返すことになりそうだ。この場であまりそういったことはしたくない。
仕方なく、俺は小声で彼女に釘を刺す。
「大人しく、くれぐれも大人しくしてくれ。何かあればすぐに抜けて戻ってくるか俺を呼べ」
「ふふふっ。分かりました」
「……本当だろうな?」
「ええ。本当です」
疑いたくなってしまうほどに彼女から楽し気な笑みが消えない。尻尾がゆらゆらしているのもいい予感をさせない要因だ。……頼むからなにもしないでくれ。
彼女は令嬢二人を見ると、にこりとした笑みのまま告げた。
「是非、案内くださいな。わたしも皆さまのお話を伺いたいと思っていたのです」
「ええ。こちらへどうぞ。皆さまもお待ちですわ」
彼女が傍を離れ、その姿が離れていく。それをじっと睨むように見ていると、傍から「ふっ」と笑うような息が聞こえた。
「存外に心配性なんだな」
「……王都民は獣人への忌避が強いですから」
「ああ……。それはある。彼女はそれを?」
「無論、理解しています。……それで乗るのですから、困ったものです」
「承知の上、か……」
ダンスでさえ読んでいた彼女だ。これもまたそうなのかもしれない。
だとしても、それを傍で見せられる身としては一切安心できない。頭痛が悪化するだけだ。
困り果てて、俺は重く息を吐いた。
(頼むから、大人しく、何事も起こさず戻ってきてくれ……)
~*~*~*~*~*~
ギルベールは心配性だ。そんなに念を押さなくてもなにもしないのに。
ああ、もちろん――売られなければ、だけれど。
貴族たちはわたしが以前のシルティのままだと思っている。嗤う言葉も表情も、すべてを黙って受け入れるしかないのだと。
(うーん。けれど、わたしも温厚になると決めたわけだし、あまりギルベールに心配をかけるわけにもいかない。……仕方ない。ちょっと大人しくしようか)
なにせ今のわたしには最大の目的がある。わたしのせいでそれが達成できなくなっては困る。
令嬢二人の後ろを歩きながらちらちらと周りへも視線を向ける。
談笑する貴族たち。一人の男性を囲む多数の令嬢たち。上辺の笑みと気の許せる相手への笑み。見えるものはいろいろであり、わたしにとってはなかなかに新鮮なものだ。
わたしが動けば貴族たちの視線もちらちらとこちらに向く。
その程度のものになにかは言わない。目立つことは嫌というほど知っている。
それよりも重要なのは……、
(貴族については情報本に書いてあったけれど、家名や名前、シルティが知れた役職くらいで情報は少なかった)
シルティは日記とは別に、情報をまとめた情報本を書いてあった。
ファルダ国での思い出やファルダ国の友人たち、起こった事や思い出、そういうものも情報本に書かれていた。獣人たちの死生観を書いてあったのもこの情報本だった。
そこに加えて書かれていたのが、ロドルス国で知ったこと。
けれど、そのどちらに書かれている人物に関しても身体的特徴は書かれていなかった。そこが問題だ。
――今のわたしは、人物に関して無知。
だから町で陛下に会ったときも相手が陛下だと分からなかった。夜会前に会ったときに、顔に出さないようにしつつ「あれ陛下だったのか」とびっくりしたものだ。
まああれは、町ということでなんとでも言えたものだった。助かった。
(書いてあったロドルス国の人物について、名前が出ていた数は多くない。その人物の名前と顔の一致、それ以外も覚えないと)
社交の場はシルティにとって面倒が多かった。わたしであることで増えた手間も多い。
しかし、これに文句を言ってもどうにもならない。まずは一つずつ潰していくだけだ。
先導していた令嬢が二人、すっと左右に分かれた。そしてくるりと目の前の人物たちの端に収まる。
それを見て、わたしは目の前の集団に視線を向けた。
婦人や令嬢たちの集団だ。中央には中核をなしているのだろう婦人が数名。その脇を若い者たちが固めている。
(これが女性の集団というものか)
あいにくと、わたしからすれば、社交の場は情報交換の場という意識が強い。政治の中核をなすのはたいがいが男性だ。
女性たちにはどうやら女性たちの集まりがあり、そこでのやり取りがあるようだけれど、シルティの日記からその詳細は深く読み取れなかった。
シルティはどこまでも嗤われるだけの蚊帳の外。情報をもらえることもなかっただろう。
とはいえ、女性の集まりというものは理解したし、女性の多くは噂やお喋りが好きだ。
そういう場は注意も必要だろうし、利用もできる。ひとつの知識として頭には入れてあった。
(……日記から読み取ったものより、なんだか面倒そうだな)
目の前にあるそんな空気。威圧感だの刺々しさだの、無意味な嘲笑だの、実に面倒で誇大な存在感。
ギルベールのもとに戻って人物紹介をしてもらうほうがよほどに有意義だ。戻りたい。
「ごきげんよう、夫人。今宵は楽しめる夜会になっているかしら?」
「ええ。とても。ギルベール様がご一緒ですもの。楽しくないわけがないわ」
空気が張りつめた気がした。あくまで、しただけ、であって、わたしはそれを気にしない。
だから、にこりと笑顔でお話をする。
「それはよかったですわ。お二人はその……なかなか社交界に馴染めないご様子でしたから、心配で」
「まあ。心配ありがとう。馴染もうにも王都は難しい場所でしょう?」
「あら。それは、ねえ?」
「夫人は近頃町へもよくお出になられているとか。民も驚いているのではなくて?」
「町民のお友達でもできましたかしら?」
くすくすと笑う声がよく聞こえる。どれもこれも口許が歪んで発される言葉ばかりだ。
この目にそれが見え、この耳は音をよく拾う。
(これがシルティに向けられ続けたもの。だけどシルティは、これが自分に向けられたものだから耐えていたし、そうできた。彼女がなにより嫌だったのは――……)
「ご夫君も苦労なさるでしょうねえ。まさか夫人がそのようなことをなさるなんて」




