1,目覚め
か細い呼吸が口からこぼれ落ちる。自分の優れた聴覚でそれを聞き取って、ああこれはだめだな…と理解した。
身体は怠くて動かない。高熱が続いて全身が熱く、意識も朦朧とする。
それなのに感覚だけは衰えなくて。だから、広いこの室内に自分独りだということは分かっている。
広くて。寒くて。自分の呼吸音以外の音はない。――ああ。違う。たまに窓の向こうに鳥が降り立つ羽音が聞こえる。ひどく億劫で視線は向けられないけれど、独りぼっちの自分を見舞ってくれる唯一の存在だ。
(ああ……。もう、いいかな)
諦めが胸に生まれる。だめだと振りはらう気力なんて湧いてこない。
身体に力なんて入らないのに、口許には自嘲的な笑みが浮かぶのが分かった。
誰も来ない部屋。静かで寒い部屋。
解っていることだ。――これまでずっと我慢できていたのに、今になって視界が滲んでしまうのは何故だろう。
(獣のわたしは悪い女…。もういい。これで……全部終わる)
だからそっと、眠るように目を閉じた。
~*~*~*~*~*~
ひどく深く長く眠っていたような感覚から、身体がふわりと浮かんでいく。
ふわりと背を押されるような感覚で意識の深い海から浮かび上がり――目を開けた。
ひどくぼやけた視界に映る何か。よく見えなくて何度か瞬きを繰り返す。そうしてやっと見えてきた。
布地のようなそれを見つめて、それが深い赤色であるのが分かって、もう一度瞬きをする。
「っ……」
身体を動かそうとして呻き声が出た。
ああ。痛い。どうしてこんなに身体が固まっているのか。
全身を動かそうにも動かないから、まずは両手を開いて閉じるを繰り返す。それから腕をゆっくり動かす。同時に足の指を閉じて開いて、脚を動かす。
少し強張りが解けてきたら、ゆっくりと腰を上げる。どうやらわたしは横になってる状況らしいから、まずは身体をベッドから離す。手足の次は腰だ。それをしたら今度は横になった体をぐるりと横に回転させる。
「いっ……」
まだ少し身体が硬い。けれどマシになってきた。ずっと横になっていたのか背中への圧力も減って少し身体が楽になる。
ゆっくり動かして、ようやく身体を起こすことができた。
肩を回しながら周囲を確認する。
わたしが横になっていたのはどうやら四柱の天蓋付きベッドのようだ。天蓋の垂れ幕は深い赤色で金色の房飾りが垂れている。同じ室内にあるのはソファとテーブル。書き物ができるような机と椅子。チェストなんかの調度品。出入りできる扉とは別に、普段着を入れているのかクローゼットらしい戸もある。
物は最低限というような簡素な部屋だ。悪くない。
横にまだ数人寝ることができそうなベッドの上を進み、床に足を下ろす。けれどすぐに眉根が寄るのが分かった。
身体が固まるほど横になっていたなら歩けるだろうか?
慎重に、手はシーツに触れたまま立ち上がる。
案の定ふらついた。ベッドにぽふんと座り込んでしまって、ふっと息を吐く。
座ったまま、手を開いて閉じてを繰り返し、目を閉じた。
「ふう……」
長く息を吐く。ゆっくり瞼を開く。――そして今度はすっと立ち上がった。
(今はまだ補助をしておかなきゃいけないか。……さてと)
どうにも体の重心がずれてしまっているようだ。それもなんだか下方後部に。
ベッドから離れて数歩歩いてそれを確信し、重心がずれている原因を探ろうと思って振り向いて、瞬いた。
ふわふわした塊。
思わず手を伸ばして触れて、もふっとした感触ときゅっと掴めば僅かな痛みを覚える。
痛い。……痛い、と、いうことは……。
「尻尾……?」
――何故そんなものが生えている?
もう一度確認してみればどうやら本当にわたしの腰下から生えているようだ。後ろから見れば腰下を隠すだろう大きさだしふさふさしている。なかなかよき手触り。間違いない。
(……ちょっと頭の中を整理しよう)
ここがどこであるかというのは今は重要ではない。どこかの家ならば事情を含めて話を聞けばそれで分かる。
重要なのは、わたし自身についてだ。――少なくとも、わたしが知るわたしに尻尾などというものは生えていない。
ぱたぱたと身体を触ってみる。どうにも知っているそれとは異なるようにも感じる。目線の高さからして少し高めの身長と、無駄なく締まった体つき。髪に触れてみると長いことと色が銀色であるということが分かった。
手を頭に動かし、それが側頭と頭頂の間に触れたとき、ぴくりと震える感覚と僅かな違和感を覚える。そっと触れた感覚と尻尾から、どうにも耳ではないかということが分かった。
身体は人間のそれだけれど、耳と尻尾があるというなんとも不思議な身体。
――さて。場所に加えて混乱が増えた。なんだこれは。
(……まずは物色から始めようか)
とりあえず室内を探ろう。
そう決めてチェストやクローゼットを開けては閉めて、ベッドの下や壁と物の隙間を探り、物色する。
その中で机の引き出しを開け、箱を見つけた。
とてもシンプルな箱だけれど両手で持たなければいけない大きさがある。木の素材そのままだけれど、その表面には美しい彫刻がされている。その模様を指でなぞった。
犬のような狼のような、そんな動物の彫刻だ。周りには花の模様も、ただの丸模様も掘られている。
そんな箱だが、鍵付きだ。
鍵。鍵はどこだろう……。目星をつけてあちこちと探ってみる。
鍵をつけるほど大事な箱なら鍵も同じように保管している可能性がある。だけど、机の引き出しにしまってあるなら普段から出し入れをする物を入れていた可能性が高い。
となると、鍵も机周辺かな。
そう思って他の引き出しを開けていると、羽根ペンやインクも見つけた。机の上にも羽根ペンが置かれているからこちらは予備かもしれない。引き出しの中も物はさほどなく、なにも入っていない引き出しもある。
(あまり物欲のない人か、それとも机に座ることのない人なのか…)
考えて机の裏や引き出しの中も触ってみるけれど他にはなにもない。
けれど、引き出しに入っていた羽根ペンを改めて見つめて違和感を覚えた。
(この羽根ペン、先端が変わった形だ)
インクを浸けて使う羽根ペン。通常尖った先端だけれどこの羽根ペンはその先端の鋭さは緩く、筆先も綺麗なまっすぐではなくでこぼこしている。しかもこの先端、丈夫な動物の骨かなにかを取り付けて強化させている。
「……」
この羽根ペンを手に、鍵穴に嵌めて、回す。
かちゃりと音がして鍵が開いた。
(なるほど。これはなかなか面白い技術)
おそらく羽根ペンとしてではなく、鍵としての役割しか持っていないのだろう。それで鍵をするほど、そうするほどの何かがある。
ちょっと気になって机の上に置かれた羽根ペンを手に取ってみると、こちらは通常の羽根ペンだった。鍵羽根ペンが特殊らしい。大事にしよう。
鍵の開いた箱を開けると、そこには二つの物が入っていた。
ひとつは箱。こちらも大仰な飾りのない箱で、鍵はついてない。開けてみると中は宝飾品が入っていた。
(おや……。こういうものは専用の入れ物に入れて保管してあるものじゃないのかな?)
もう一つは四冊の本。手に取ってぱらぱらと捲って、見慣れない文字であることが分かった。だけど不思議とそれが読めてしまう。すぐ――これが日記であると気づいた。
(覗き見て悪いけれど、情報をもらうよ)
心の中で書き主に謝って、わたしは日記をぱらぱらと捲った。




