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濁流

……この世界は、神が創ったらしい。


私が生まれるずっと前から、

力を持つ者たちは争い、誰かを守り、あるいは傷つけてきた。


“神託者”と呼ばれるようになって、

その力は国のものになっていった。


でも……


神に選ばれなかった人たちも、

それでも何かを求めて……魔術を生んだ。


拒まれても、異端と言われても、

彼らは、ただ……進んだ。


……神を信じる人も、

魔術にすがる人も、


信じたもののために、戦っていた。


……私も、そうだったのかな。


……それだけ



──神歴1296年、リオルダ終端戦。


地面が鳴った。


それが合図だったかのように、大地が軋み、空気が歪んだ。

因が崩れる。法則が捻じれる。

そして、水が溢れた。


戦場は一瞬で呑まれる。

茶色く濁った奔流が、地形も、陣形も、兵士も、全てを押し流していく。

それは雨ではなく、神託から生まれた破滅そのものだった。


「濁流だ――!下がれ、全軍撤退!」


叫ぶ指揮官の声すら、濁流に飲まれる。

兵たちは各々の判断で逃げ、崩れゆく地を踏み越えようとした。

だが一人だけ、動かなかった者がいた。


セッタ。十二歳。神託者。


濁流を前にしてなお、彼女は前に踏み出していた。


◇濁流を駆ける者

水の中を、誰かが走っている。

いや、切り裂くように進んでいる。


それがセッタだと気づいた兵士たちは、目を見開いた。

重く粘る水の中を、彼女はただの一度も止まらずに進んでいた。


折れた木材。

沈みかけた盾。

水面を流れる武具の破片。


それらを、次の瞬間にはすでに踏み越えている。


水面を走っているのではない。

因の隙間を縫うように、最短距離で“駆け抜けている”のだった。


「見えなかったんだよ……あの子がどうやって、あの濁流を越えたのか」


後に兵士がそう語ったように、彼女の動きは“人ではなかった”。


◇立ちはだかる将軍

濁流の中心に、一人の男が立っていた。


タリス将軍。リオルダ王国軍・近衛将。濁流の神託者。


巨体を直立させ、全身に圧縮された水圧と因を纏う。

その足元にはもう“地面”は存在しない。

因の重力場の上に立ち、神の力で戦場を制圧する存在。


セッタが近づいたその瞬間――


「ここから先は、通さぬ」


声は低く、濁流にすら呑まれない重みを持っていた。


水断刃すいだんじん

空気が裂けた。

次の瞬間、セッタの肩が浅く裂け、背後の岩が真っ二つに砕け落ちた。


タリスの奥義――水断刃。


目に見えぬ超高圧の水刃。

放たれたことすら分からず、結果だけが残る“即死の斬撃”。


セッタは一歩退く。だが、沈まない。

肩の血を振り払い、目を逸らさず、再び一歩――


足元にあった折れた槍を、軽やかに蹴り込む。

そのまま斜めに跳び、間合いに踏み込む。



タリスが拳を振るう。

水の圧が腕にまとわりつき、殴打と同時に炸裂。


爆ぜるような圧力が、泥を吹き飛ばす。


セッタは滑り込むように身をずらし、刃のように狭い隙間を抜ける。

更に一歩、深く踏み込む。


拳と剣、足と足が交差し、

濁流が跳ね、水面が爆ぜる。


近接での因の応酬。

その真っただ中、セッタの剣が――光る。


全身の力を込めた踏み込み。


木片、盾、槍、流れ――そのすべてを走破した先。



タリスの胸元を、セッタの剣が貫いた。



その瞬間、時間が止まったように感じられた。



拳は止まっていた。


将軍は、もう動かない。



(――なんて、可哀想な少女なのだ)



心の中だけで、誰にも聞かれぬまま、そう呟いて。



「申し訳、ありません……陛下……グフッ」



将軍は崩れ、濁流が静かに引いていく。




◇戦いの後


雨が降っていた。


いや、それはもはや豪雨だった。



崩れた濁流が空に戻ったかのように、


泥混じりの激しい雨が、戦場後を叩きつけていた。



セッタは立っていた。


肩から血が流れ、胸元も泥に染まり、


その白い髪は雨に濡れ、肌に張りついている。



剣は手にある。


けれど、もう力は入っていない。



「――――、はっ……、――っ」



息が、荒い。



水を呑んだわけでも、傷が深いわけでもない。


ただ、まだ自分の体が、戦いの中にいる。



まだ因が整わない。



泥と水の中、全身から湯気のような熱が立ち上っていた。


けれど、それすらも次第に雨に冷やされていく。



やがて、雨が止んだ。



雲が裂け、光が差す。


その瞬間、濁っていた空が――洗われたように晴れた。



彼女の肩から力が抜ける。



握っていた剣を、ようやく下ろす。



泥と血に濡れた足元に、ぽたりと雨が落ちる。


その音だけが、因を取り戻した証だった。



誰もいない戦場で、


彼女は一人、静かに目を閉じる。



そこにはもう、濁流も、怒号も、敵もいない。



――ようやく、世界が静かになった。



セッタ、十二歳。


この日、彼女の“孤独”の始まり、


そして“少女”は少しだけ、大人になった。



神歴1306年


空は、澄んでいた。

ひとつの雲もなく、光がまっすぐ落ちる午後。

処刑台の前には、人々が静かに集まっていた。


誰も言葉を発しない。

子どもが泣くこともない。

これはただ、「日常のひとつ」として受け入れられている。


オルデナ神央府の広場。

中央には石造りの台座。

その上に、ひとりの魔術師が膝をついていた。

名は記録されない。異端である以上、それは与えられない。

その衣は焦げ、口元には乾いた血が固まっている。




広場の端から、ひとりの少女が歩いてくる。

白髪。銀の瞳。

因を整えたような所作。

剣を手に、何も言わず、ただ“それを為す”ためだけに現れる存在。


セッタ。


風が止まったように感じたのは、誰のせいでもない。

因が“整った”からだ。


魔術師が顔を上げる。

声は、震えていなかった。


「……君は、選ばれたのか」


セッタは、何も言わなかった。


剣が、動く。

空気を切る音すら、なかった。


首が、落ちた。


群衆は沈黙を保った。

誰も目を逸らさず、誰も言葉を漏らさなかった。


セッタは剣を納め、因を崩さず、その場を去る。


誰のものかもわからない、小さな声が聞こえた

「おお、神託者様ありがとうございます....」


光だけが、まっすぐ地面を照らしていた。



【粛清のあと、神託庁会議室】


処刑から日が沈まぬうちに、

神託庁の上層部では次の事案が報告されていた。


「……東の辺境。カルド領の集落にて、魔術師の反乱が確認されました」


報告を読み上げる青年の声は硬質だ。

場にいた誰も、驚きを見せなかった。


長机の向こう、壁に祈祷文が飾られた部屋。

その中央に立つ、壮年の男が口を開いた。


「避難は?」


「遅れました。報告の段階で、すでに住民の大半が……」

報告者の声がわずかに震える。


男は目を閉じ、ひと息。


「ふむ、

 “彼女”を向かわせろ」


周囲の空気が張り詰める。


「……整えてもらう。あの場所を。すべて」


青年が、一歩踏み出して口を開いた。


「“彼女”……? 異端者の粛清であれば、エルフォード卿が適任では?」


一瞬、空気が止まった。

机を挟んで立つ壮年の男――オルデナ神央府の幹部、サリオ・ヴァン・エーデルが目を細める。


「……ふむ。君には、そろそろ出世が頃合いかなと考えていたんだ」


青年は眉をひそめた。


「……それとその、彼女....?を使うことに何の関係が?」


サリオは、笑った。

唇だけで。目はまったく笑っていない。


「“知りたいか?”」

「……?」


青年の耳元で呟く


「“どうして、彼女が適任なのか”を、だよ。

 いや……君の目で“知ってくる”といい。集落の処理に同行しなさい。

 そうすればわかるさ――“彼女”の意味が。

 そして、我々がどこに立っているのかも」


青年の背筋が冷えた。

それが冷気ではなく、何かもっと……構造的な恐怖だと、まだ気づかないまま。



サリオは、ふと背を向ける。

祭壇にかかった古い因文を見ながら、静かに呟いた。


「……知ることは、祝福だと信じていた。

 だがね……“知ってしまった者”は、もう二度と、知らなかった頃には戻れない」


青年が口を開こうとした瞬間、彼は振り返り、言葉を重ねた。


「これは出世ではない。

 選別だ。

 ……君が、“神の器”になれるかどうか、試す機会なんだよ」



【集落への道中|正義を信じる青年】


馬車の中。

乾いた空気と共に、土の匂いが風に混ざる。


青年は馬の手綱を操りながら、ちらと隣を見る。

白髪の少女はまっすぐ前を見ていた。


「……魔術師って、やっぱり疫病に乗じて民を扇動しているんですかね?」


セッタは応えない。

青年は続けた。


「病人につけ込んで、“自分たちの力”を見せる。

 選ばれなかったくせに、民の心を奪おうとする……

 本当に、ずるいやつらですよ」


セッタは小さく目を閉じた。


「報告には、そう書かれていました」


「……それにしても、あなたが来るとは思いませんでした。

 “あの”セッタが動くなんて……」


「私は、命令を受けただけです」


「でも、タリス将軍を倒したというのは、本当なんですよね?」


風が吹いた。

馬の耳が、ピクリと動いた。


セッタは、少しだけ間をおいて答えた。


「……覚えていません」


青年は苦笑した。

その顔には、まだ信じていた。


「そりゃ、名も残さない人ですもんね。……でも、頼りにしてますよ。

 民がどれだけ操られていようと、僕たちが取り戻すべきなんです、秩序を」


セッタは何も言わなかった。

その目は、ずっと先――村の方向を見ていた。



【粛清】


半日ほど馬を引いてたどり着いた


青年の足が止まる。


「……ここ、本当に“占拠”されているのか?」


子どもの声がした。

笑い声。麦の匂い。

小さな畑に、整った土。

誰も武器を持っていない。

誰も怒っていない。


それでも、セッタは歩いていく。

村の奥へ、因の中心へ。


青年が追いかけようとしたとき、

空気が――変わった。


音が、遠のいた。


風も止まった。


なにかが“整えられた”。


次に目を向けたときには、

村の広場に、赤い染みがあった。

誰のものかは、わからない。

そこにいたはずの人が、いなくなっていた。


青年は歩き出す。

地に散った血を踏まないように――そんな無意味な配慮をしながら。


風はまた動き出し、鳥が鳴いた。


村の端にある納屋から、

小さな泣き声がした。


赤ん坊だった。

はっきりと、まだ生きている。


青年の足が止まる。


喉が鳴った。

手が震えそうになる。

けれど、背後で足音がした。


セッタが歩いてくる。


何も言わず。

まっすぐ、広場を通り抜けていく。



青年は、振り返らなかった。


赤ん坊の声は、まだ続いていた。

けれど――彼は、歩いた。

まるで、何も聞こえていないかのように。



「……世界のために」

彼は、心の中でそう呟いた。

そして、自分が“選ばれた”と、信じ込んだ。



オルデナ神央府・報告室。

石造りの空間。

因を乱さぬよう、椅子すらない。


青年は膝をつき、報告の書を前に口を開いた。

その顔からは、感情が抜けていた。いや、抜いた。


「……処理完了。

晶石と鉱石、魔術の痕跡あり。

 住民に反乱の兆候なし。

 感染の拡大も見られず。

 生きている……魔術師は、いま、せんでした」


言い淀みかけたが、言い直した。

“整った”言い方に。


沈黙ののち、奥から足音。


サリオ・ヴァン・エーデルが、青年を見下ろして微笑んだ。


「覚えておくといい」

「……?」


「彼女が、“影の剣”セッタ。

 神託庁の“最も整った執行”。

 “あってはならない事実”を――一切、残さない」




サリオの言葉が、空気に沈む。

“あってはならない事実”を――一切、残さない。

影の剣、セッタ。



サリオはゆっくり頷いた。

まるで、それが何の意味もないことのように。


「そう。

 十年前――神歴1296年。

 リオルダとの戦争を終結させた“未登録の剣士”。

 その名は記録に残らず、ただ口伝として残された」


「“記録に名を残さぬ者”……」


「あの日から彼女は“影の剣”になった

 因を乱さず、感情に惑わされず、命令だけを実行する。

 それが、整った執行ということだよ。

 君が今日、目にしたものが――央府の正義の、形だ」


青年は、言葉を失った。


セッタ。

かつての戦争を、終わらせた者。

記録にも残らず、ただ静かに、誰にも知られずに。

そして今も――同じように、“秩序を守って”いる。


“整った正義”の名の下に、真実を斬り捨てながら。







午後の光が斜めに差し込む裏庭。

訓練所の喧騒が届くその一角で、誰かが花壇を整えていた。


粗野な仕草ではない。無駄を削ぎ落とした、清潔な所作。

一輪一輪の根を見極め、土を均し、石を丁寧に並べ直していく。

戦士の手とは思えぬ、けれど明らかに戦場で鍛えられた手だった。


「……お庭を整えてくれているのですね」


声をかけたのは、金と白の衣

共鳴の神託者リセラ。


神の声を聞く者として、政と軍の上に立つ少女。

彼女は軽く微笑みながら、花壇を見やった。


「ええ。誰も手を入れないようなので」


振り向いたその人物に、リセラは確信を深める。

やはり――この方が、セッタ。かつて「記録に名を残さぬ剣士」として、ほんの一部の神託者の間で噂されていた。


無言で戦場に現れ、無言で敵を退け、名を残すことなく立ち去る存在。

あまりにも静かで、あまりにも鋭い。そして確かに神に選ばれた、ひとつの剣。

(なるほど……名前と記録だけで覚えていたけれど、実物はもっと、澄んでいる)


「あなたがセッタさんなのですね」


「あまり人に覚えられるような人間ではありません」


「そうでしょうか。私の記憶にある“セッタ”という名は、ずっと気になっていたものです。……ようやくお顔を見られました」


リセラは微笑んだままだったが、その瞳にはわずかな緊張があった。

この人は危うい。けれど、それを制する権利も、道理も自分にはない――そう感じさせる何かがあった。


「ここ、綺麗になりますね」


「光がよく入るので、花も育ちやすいんです。……私は手を動かしている方が楽で」


「それは……わかります。私も、祈るより動く方が好きで」


ふたりはそれ以上多くを語らず、ただ庭を見ていた。

鳥がひと鳴きし、遠くで訓練用の木剣がぶつかる音が響いた。


リセラは、確信を得ても何も告げなかった。セッタが名乗らぬなら、それを追及する理由もない。

今このとき、誰にも知られずに整えられている庭のように。

彼女の存在もまた、静かにあるべきなのだと感じた。


「それでは、失礼します。……また見せてください、このお庭」


「ええ。……どうぞ、私のものではありませんから」


リセラが背を向けると、セッタはまた黙って土をならし始めた。

彼女の手のひらにあるのは剣ではなく、ほんの少し湿った春の土だった

◇初めての“全力”

あの戦いは、

セッタにとって――初めてだった。


すべてを使った。

体も、技も、感覚も、律も。

一瞬たりとも、気を抜く隙などなかった。


「あれが……“全力”だったんだ」


心のどこかで、そう気づいた時、

彼女の中に、確かな“熱”が残っていた。


言葉にするなら――“満足”。

でも、違う。

もっと――深くて、冷たい、欲だった。


静かなる戦闘狂としての原点

あの感覚を、もう一度味わいたい。


ただ真っ向から、全てを懸けて、命をぶつけ合うこと。

誰にも邪魔されず、ただ、“あの感覚”を。


それを求めて、彼女は戦い続ける。

強くなるためではない。

勝つためでもない。


全力を出せる相手が、欲しいだけだ。


◇タリス将軍の察し

――タリスは見ていた。


斬られるその瞬間に、

少女の目に宿っていたもの。


それは勝利の悦びではなく、

殺意でも義務でもなく、

ただ純粋な、“戦いへの歓び”だった。


(――なんて、可哀想な少女なのだ)


その哀れみには、怒りも軽蔑もない。

彼自身もまた、全力を懸けた戦場の亡霊だったからこそ。


だから、彼は剣を止めなかった。

ただ、斬られ、そして終わった。


◇その後

セッタの戦いには、

どこか虚しさがあった。


勝っても喜ばず、

負けても悔しがらず。


ただ静かに、

“自分が本当に戦ったかどうか”だけを見ていた。



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