記憶の青 【月夜譚No.354】
海が見たくなった。悲しいことや嬉しいことがあったからではない。ただ単純に、日々の生活の中でふと、あの青い海が見たくなったのだ。
彼女の生まれは、海のすぐ近くだった。自転車を十数分も走らせれば砂浜に行き当たるような、身近な存在だった。実家にいた頃は、良い遊び場になっていた。
けれど今、大学卒業と共に入社した会社で転勤になり、所謂〝海なし県〟と呼ばれる地域に暮らしている。
あの時は解らなかったが、自分にとって海は近くにあって当たり前の存在だったらしい。時折こうして、海の青や波の音、潮の匂い、吹き抜ける風――それ等がどうしようもなく恋しくなるのだ。
連休初日を明日に控えた今日、会社を出た足で深夜バスに乗り込み、彼女は広大な地球の神秘に思いを馳せる。車窓から見えるのは、様々な人工的な明かりと車。けれど脳裏に浮かぶのは、ただただ青い景色だけ。
いつしか眠りに落ちて見た夢は、子どもの頃に戻った自分が砂浜でひたすら駆け回る思い出だった。