006 ランドルフ騎士団長の憂鬱
騎士団駐屯地の目の前にある「酔いどれ馬車馬横丁」なる酒場通りがある。
その中の一軒、カフェバー「ウルフィーナ」は、酒を飲んで皆でわいわい盛り上がるというよりも、そんな喧噪から離れて少し落ち着いた雰囲気でしっぽりと杯を傾けるといった嗜み方ができるバーであった。
渋いマスターと美人なママの壮年夫婦で営む大人の店で、店の名前は夫婦が昔飼っていた犬の名前だそうである。
カウンター席と少しのボックス席があるだけで、大勢は入れないが、その分静かに真面目な話ができる。
ここは騎士団長ランドルフ・グランリッターの行きつけで、少し深刻な相談をしたいという部下を連れてきてよく話を聞いていたりしていたのだが、今日は部下とはいえほぼ同期で親友である副騎士団長カレブ・アルシャインを初めて連れて来ていた。
今日のカレブは呑みたい気分ではあったが騒ぎたい気分ではないらしいので、ランドルフはカレブをここに連れてきた。
「いらっしゃいませ。お久しぶりです、グランリッター騎士団長」
「いらっしゃいませ。今日はお二人? カウンターでいいのかしら」
「ごきげんよう。いや、今日はテーブル席で頼む。込み合った話をするからね」
「かしこまりました、そちらへどうぞ。お飲み物どうします?」
「俺のボトルをお願いします。それと、何か軽くつまめるものを」
「かしこまりました」
隅のテーブル席に向い合せで座り、ほどなくしてアイスペールとロックグラス、そしてランドルフの名前のプレートがかかったボトルがテーブルに届く。それらを運んだマスターのあとから「本日の酒肴4点セット」なるおつまみセットをママが持ってきてくれた。
自分でやるからとマスターとママを下がらせて、ふたつのロックグラスに氷とウイスキーを入れて、慣れた手つきでひとつをカレブの前に置く。
「……悪いな」
「それで、どうしたんだ? 恋人との約束をすっぽかしてまで俺と呑みにくるなんて、こう言っちゃなんだがお前らしくもないというか」
「ああ……そうだよな。まあでも、俺だってそういうときもあるってことで」
いつになく覇気のない表情で力なくも笑いながらロックグラスをかちりと合わせてくいっと傾けるカレブ。
「……何があった? あの女学生、リギア・アイゼンと話してからだろう、その感じは」
「ああ……それがさ」
カレブはリギアと話して、カレブ自身と同じようにリギアもまたこちらを父親だと認識していたことを話す。
「……やっぱりそうだったのか。カレブの毛色は珍しいからな、血縁じゃないかとは思っていたが、まさか実子とは」
「そうなんだよ。それで、俺を見て涙を流しながら『パパですか?』って聞いてきたんだ。……てっきり恨まれてるかと思ったけど、そうじゃなかったみたいだ。俺のことを、『パパ』って……」
「そうか……瞼の父親に会えて、よっぽど嬉しかったのかもしれんなあ……」
カレブにはリギアのあの感じはそう思ったらしい。また聞きでしかないランドルフはなおさらそう感じたようだ。
まあ、真相は単に唾が気管支に入ったことによりむせて涙目になっただけなのだが、それをカレブは知らない。
「その顔、間近で見たら色は俺だけど、顔立ちは、俺の知ってる女性そのものでさ……。一瞬で十七年前を思い出したよ。それで……」
――まさか……それで過去の色恋の感情が蘇って、今の彼女への気持ちが冷めたとか言わないよな?
嫌な予感がしてランドルフは色々ツッコミそうになったけれど、まだそのときではないと押し黙る。
今の彼女とは結婚を考えていると言っていたカレブが、今日のように会う約束を気が乗らないなどという超独善的な理由で反故したのはかなりいただけない。かなりのドンファンぶりで独り身を謳歌していたカレブが、周りにせっつかれたとはいえ結婚を一度は考えた彼女の信頼を損ねるような真似をするなんて。
今回の件に関しているリギア・アイゼンとの密室での何らかのやり取りによって、ここまでカレブの気持ちを左右した何かがあったのだろうか。
――十代や二十代ならともかく、もう三十半ばだぞ。フラフラしていていい年齢じゃないから、そろそろ落ち着いて欲しいと思っていたところに、結婚を考えていると言っていたから安心していたのに、ここで揺らぐのか……。リギア・アイゼン、一体カレブに何を言ったんだ?
ランドルフだって騎士団長に就任したときに国王の勧めによる見合いをした女性、今の妻を娶り、もう十歳の息子と七歳の娘がいる。
妻を娶って子供を持つのは立場的にもいいが精神的にも良いことだとずっと言っていたのに、一向に落ち着く気配がない親友カレブに頭を抱えていた。
だが今回交際を始めた女性とは、時折彼女の悋気が辛いとは言っていたが、もともと人間関係のごたごたはのらりくらりと躱せる世渡り上手なカレブだけに、それなりにうまくやっていると思っていたのに。
――いや、待て。娘の存在を知り昔の甘い思い出が蘇って今の恋人との関係を悩むくらいでここまで沈み込むか? もう少し話を聞いてみないと。
デートのドタキャンも彼なりの理由があるのだろうと思い、最後まで聞かないといけないと我慢する。それからこちらも考えて、助言なり忠告なりをしてやらねばと思っていた。
「俺、傭兵出身だって言っただろ? ランディと王都で出会うまで、俺はベネトナーシュ傭兵団にいて、王国中を駆けずり回っていたんだ」
「そういえばそんなことを言っていたな。精鋭ばかりで各国に顧客がいるという傭兵団だよな」
「そうそれ。その頃は仕事でバルファークに魔物退治によく派遣されててさ。おれも一年くらいずっといたかな。それが十七年前」
十七年前。今カレブは三十五歳だから、当時は十八歳。身も心も一番血気盛んな頃だろう。そういう時に、カレブは運命の出会いをしたらしい。
それが歌姫ミラ。バルファークの酒場のステージでメロウなブルースを歌う絶世の美女だった。美人碌に載るくらい、その名は王都にまで届いたほどの美女。カレブより二歳年上だったそうだ。
若い頃から見目麗しかったカレブは、何もしなくても女の方からしなだれかかって来るくらい女に不自由はしておらず、何なら若干女というものに食傷気味であった。そんなところに現れた歌姫ミラに、カレブは自分でも訳が分からないほど惹かれた。一目惚れだった。
それからアタックにアタックを重ね、好みの男性は強い人、というミラの期待に応えられるように、仕事である魔物退治に精を出した。
大型のS級の魔獣を仲間内で一番多く仕留めて強さを証明し、ついにミラの心を掴んだという。本名であるミルファ・アイゼンという名も教えてくれて、それから燃えるような情熱的な日々を過ごした。
が、楽しい時間というのはあっという間に過ぎるもので、カレブが魔物退治に精を出せば出すほど、バルファークの魔物はあっという間に退治されていき、約一年滞在するとバルファークはすっかり平和になった。
それで派遣期間が終わり、バルファークを起つ日が訪れ、また会いに来ると言い残して、ミルファと別れたのだ。
ミルファはその時何かカレブに言いかけてやめてしまったのを、今更ながら思い出す。あれはおそらくカレブの子を身ごもったことを伝えたかったのだろうと、リギアの存在を知った今なら思う。
「では、リギア・アイゼンは……」
「うん……多分その時にはデキてたんだろうなあ」
「ひ、避妊、とかは……」
「俺そのときまだ十代だったし、避妊とかろくに考えもしてなかった」
「馬鹿な……娼婦相手じゃあるまいし」
「そうだよ、俺ゲス野郎だったんだよ。若気の至りってやつだ。今はバカだったってわかってるし、避妊とかもちゃんとしてる」
「はあ……ドルフィン卿が聞いたらブチ切れそうだな」
「あの人真面目だからなあ……今日もゲスニック副団長とか言われたし。はは……」
遠い目をして自嘲するカレブに、うーん、と額を拳でとんとんと叩きながらランドルフは考え込む。
カレブがバルファークを去ったのは一年後の十九歳のころ。その年齢といえば隣国の蛮族との戦争があったはずだ。まだ新米騎士だったランドルフとカレブが出会ったのもその頃。
王国騎士と傭兵という間柄ではあったが、生と死が錯綜する戦場で、ランドルフとカレブは助け合って親友となった。そしてカレブも騎士団に入り順調に出世して騎士団長と副騎士団長となって今に至る。
「もしかして、あの頃の戦のごたごたで、全くバルファークには行ってなかったのか?」
「ああ。俺も騎士団に入って傭兵時代よりごたごた忙しかったし、王都での生活に慣れるのも大変で、ほとんど思い出さなくなったんだ。……ひどいだろ? 俺今日リギア・アイゼンを見るまで一瞬も思い出さなかったんだぜ」
「確かに、ひどい話だが……でも、男は多少なりともそういう悪いところがあるしな……」
家庭を持ったあとならまだしも、結婚の約束すらしていない若かりし頃のひと時の熱情を注いだ相手を、戦争のごたごたで忙しい中顧みることはなかなか難しいかもしれない。
「それでさ、聞いてみたんだ。ミルファが幸せに暮らしているならそれでいいと思って、今なにしてるのか、元気でいるのか、とか」
「そうか……それで、どうだったんだ?」
「……」
「カレブ?」
カレブはそこで言葉を切って、ロックグラスに残っていたウイスキーを一息に煽る。ランドルフが驚いて「ゆっくり飲め」と注意するも、カレブはグラスをテーブルに置いてから額に手を置いて語る。震えた涙声だった。
「彼女、リギアが言ってたんだ。ミルファ、十年前に……死んだらしい……っ」
「えっ……」
「俺……っ、それ聞いて、頭、真っ白になっちまって……っ!」
アルコールが入ったせいかかなり激情的に涙を流して嗚咽するカレブに、ランドルフは納得した。過去の情熱的な愛情を注いだ恋人が、自分のあずかり知らぬ遠い場所で秘かに亡くなっていた。それで沈みこんでしまっていたのだろう。
確かにそんな気分では今の恋人とのデートなど楽しめなさそうだし、そんな気持ちを抱えたままでは恋人にも申し訳ないだろう。今日のデートはドタキャンになってしまったが、正しい選択だったのかもしれない。
しかし、本当のところリギアは「ママは、十年前に……」と言っただけで、「死んだ」とは一言も言っていない。ただ単に語尾を濁しただけでとんでもない解釈がされている。
信じ込んでしまっているカレブ、また聞きなのでカレブを信じるしかないランドルフ。
リギアのあずかり知らぬところでまたしても齟齬が生じていた。
「辛かったな……」
「うっ……くぅっ……なあランディ、俺、マジでミルファのこと愛してたんだ……!」
「そうか……」
「なんで俺……っ、もっと早く、会いに行かなかったんだろうな……。こんなことなら、離れるんじゃなかった……っ!」
「……仕方なかったんだ。お前のせいじゃない、悪いのは戦争だ」
ランドルフは空になったカレブのグラスにおかわりを注いでやり、カレブの肩をぽんぽんと叩いて慰めた。いつも自信満々で飄々としたところがあるカレブのこんな姿は珍しいし、なんだか痛々しい。
もう一杯飲んでから、カレブはようやく落ち着いたようで、ぽつりぽつりとまた話し出す。
「……十年前ってことはさ、リギアは五歳で両親がいない状態で過ごしたんだよな……それなのに、俺のこと、『パパ』って……! こんな、こんなろくでもないオヤジにっ……!」
「罵られても仕方ないところを、ちゃんと父親として呼んだのか。……いい子じゃないか。良かったな」
「良くねえよ……父親も母親もいない子供時代なんて……俺と同じじゃないか。俺は自分に子供ができたら、そんなことはさせないと決めていたのに。あいつに俺と同じ惨めな少女時代を過ごさせてしまったなんて。どうしようランディ。俺、今罪悪感で死にそうだ……」
「……っ、落ち着け! 変な事を考えるなよカレブ。今日はとことん付き合うから」
すっかり泣き上戸なカレブを宥めながら、ランドルフは何だか逆に冷静になり、なかなか酔えない酒を飲み干した。
そしてふと思い出して考える。昼間、早期入団試験の面接時に見たリギア・アイゼンの履歴書の家族構成欄にあった母親の名、ミルファ・アイゼン。
――あれ? 履歴書に十年も前に死んだ母親の名前を書いたりするか?
そんな疑問を問いただそうとしたランドルフだったが、カレブは酔いが回りすぎてテーブルに突っ伏して突然寝落ちしてしまったので、それは聞けず仕舞いになってしまった。
ランドルフはこれからこの男を担いで家に帰さねばと考えて頭が痛くなってしまい、そっちのほうに考えがいって先ほどの疑問はすっかり記憶の隅に追いやってしまっていた。