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カプチーノ

作者: 日向 瀬名

古びた商店街。

お昼時なのに、ほとんどの店がシャッターを下ろし、静けさだけが支配している。

そんな中、まるで灯台のようにポツンと看板を光らせる喫茶店があった。


雨宿りのために、僕は古びた木製のドアを押し開ける。

チリンチリーンと鈴の音が小さな喫茶店の中に柔らかく響いた。

ほんのりと漂うコーヒーの香りが鼻をくすぐり、店内に広がる暖かなオレンジ色の照明は、まるで「おかえり」と迎えてくれているような気にさせてくれた。


「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きな席へ」

カウンター越しには穏やかな笑みを浮かべた白髭がよく似合う店員が立っていた。


壁には色とりどりのマグカップが並び、小さな棚には本が何冊も置かれている。

見渡せば他に客の姿はない。

どこに座るべきか迷いながらも、ふと奥の窓際のテーブルに目が留まる。

店内に流れる静かなジャズのメロディに、席に向かう僕の足音は心地よく溶け込んでいた。


席に近づくと、木目調のテーブルの上に「予約席」と書かれた小さな札が立てられていた。

すると、カウンターから店員が声をかけてきた。


「ああ、今日雨ですからね。その席の方、来られないと思います。どうぞ、お使いください」


店員の柔らかな笑みに甘え、そっと札を脇に寄せて椅子を引く。

きっとこの席は常連客の『いつもの場所』なのだろう。

つまり特等席だ。

椅子に腰を下ろすと、ふかりとした座り心地にほっと息をついた。

テーブルの隅に置かれたメニュー表を手に取る。

ページをめくる音が、小さく店内に響く。


注文を決めるのに苦労はしなかった。

1番好きな食べ物と、1番好きな飲み物をメニューの中から探すだけだ。

見つけた僕は「すみません」と声をかける。


カウンターの奥から先ほどの店員が現れた。やはり彼1人でこの店を切り盛りしているようだ。

その風格と穏やかな立ち振る舞いから、「マスター」という呼び名がしっくりくる。


「オムライスと、メロンソーダをお願いします」


僕が注文を伝えると、マスターは少し申し訳なさそうに眉を下げた。


「すみません、当店メロンソーダが只今品切れ中でして……」


メロンソーダが無い喫茶店なんてあるのか――

と、僕は内心つぶやいた。

子供の頃、喫茶店の入り口に飾られたメロンソーダの食品サンプルを見て、誰もが一度は足を止めたことがあるはずだ。

その緑色の飲み物は、喫茶店そのものの象徴のようだった。

でも本当にメロンソーダは美味しいのだろうか?

答えは曖昧だ。

何となく頼むのが習慣になっていただけで、味そのものに深い愛着があるわけでもない。

慌てて代わりの飲み物をメニューから探した。1番最初に目に飛び込んできたのは「カプチーノ」の文字。

実のところ飲んだことはなかったけれど、深く考える間もなく口にしていた。


「じゃあ、カプチーノでお願いします」


そう言うと、マスターは、ふっと体を前に傾けて、僕の顔を覗き込んできた。


「……?」


僕が何も言えずにいると、彼は微笑みながら


「かしこまりました、オムライスとカプチーノですね」


確認の言葉を言うと、マスターはカウンターの奥に戻っていく。

小さな店内に響く足音が、静かな雨音に溶け込んで消えていった。


メニューをそっと閉じ、その雨音のする窓の外に目を向けた。


通りを行き交う人影は見当たらない。視線を下ろすと、テラス席の小さなテーブルに2羽のスズメが雨宿りをしているのが目に入った。

羽を膨らませてじっと佇むその姿が愛らしくてずっと見ていられた。

雨の日にスズメを見かけるなんて少し珍しい気がする。

鳥たちも雨は嫌いなんだろうか。

小さな命が雨をやり過ごそうとしている姿が、やけに愛おしく見えた。


しばらくしても、雨はまだ降り続いている。

スズメたちはそのままじっと動かず、僕もそれを眺めながら静かな時間を過ごしていた。


「お待たせしました」


マスターの低く穏やかな声と共に、オムライスがテーブルにそっと置かれる。


「カプチーノは食後にしますか?」

マスターが尋ねる。


「一緒で大丈夫です」

僕がそう答えると、マスターは「かしこまりました」と言い、すぐにカウンターに戻っていった。


まもなくして、温かな湯気をまとったカプチーノが運ばれてきた。

テーブルに置かれると、カップの中の泡が柔らかく揺れた。


「どうぞ、ごゆっくり」


マスターの声と入れ替わるように、雨音がまた耳に戻ってきた。

窓の外のスズメたちはまだ動かない。


「いただきます」


スプーンをオムライスに入れた瞬間、喫茶店の扉の鈴が軽やかに鳴った。


チリンチリーン。


顔を上げると、茶色いスーツをきっちりと着こなした老人が入り口に立っている。

真っ白な髭を蓄え、どこか優雅な佇まいを持つその姿は、「おじさん」でも「おじいさん」でもない。「おじ様」という言葉がぴったりだった。


老人は僕を見つけると、軽く眉を上げながら「おや」と呟いた。


すると、カウンターの奥からマスターが慌てて出てきた。その動きを見て、僕はすぐに気づいた。この人が、特等席の主なのだ、と。


「あの僕、移動しますよ!」


慌てて立ち上がろうとした僕を見て老人は笑顔を浮かべた。


「ご一緒してもいいかな?」


僕が答える間もなく、老人は目の前の席に腰を下ろし、椅子の位置をわずかに調整してから言った。


「マスター、いつものを」


その声に、マスターが小さく頷き、カウンターに戻っていった。


しばらくして、僕の目の前にあるのとそっくりなオムライスとカプチーノが、老人の前にも運ばれてきた。


「え! いつものって、オムライスとカプチーノなんですか?」


思わず驚いて聞くと、老人は微笑みながらスプーンを手に取った。


「初めてこの喫茶店に来た時、メロンソーダがどういうわけか無くてね。仕方なくカプチーノを頼んだら、それが意外に美味しくてね、それからずっと、オムライスとカプチーノだよ」

老人は懐かしむように語る。


その言葉を聞いて、僕はマスターが僕の注文に微笑んだ理由が分かった。僕が同じ組み合わせを選んだことで、きっとこの老人のことを思い出したのだろう。


「なるほど……」


僕は静かに頷きながら、再びスプーンを手に取った。

目の前のオムライスが、ほんの少しだけ特別なものに思えてきた。

雨音が、変わらず優しく響いている。


食事の間、老人は静かに奥様との馴れ初めを語り始めた。


「あれはある雨の日でした」


そう言って目を細め、窓の外の雨を眺めた。

その視線は、まるで遠い過去に戻っていくようだった。




「いつものように喫茶店に入ると、窓際の席に茶色いベレー帽を被った女性が座っていてね。それはもう、一目惚れでした」


声に少しだけ照れたような響きが混ざる。

老人のその言葉に、僕は手を止めて耳を傾けた。


「店内は満席で、マスターが相席でもいいかと案内してくれたんです。きっと彼が『白髭のキューピット』だったんでしょうね」


そう言って、ちらりとカウンターのマスターを振り返る。その仕草に合わせて、僕もついマスターを見た。すると、ちょうど目が合った。


「白髭のキューピット」という言葉がじわりとくる。口元が緩んだ僕を見たマスターが、軽く肩をすくめて言った。


「私もその頃は若かったんですよ、髭なんて生やしてなかったので『男前なキューピット』でしたよ」


その言葉に、老人と僕は顔を見合わせて笑った。店内に穏やかな空気が広がる。


老人は再び話を続けた。


「彼女に話しかけるきっかけを探しながら、いつものように『オムライスとカプチーノを』と注文したんです。すると、目の前でその女性がクスッと笑ったんですよ『何故笑うんだい?』と尋ねると、『オムライスとカプチーノって、なんだか背伸びをした子どもみたいで可愛いなって』って言ったんです」

その瞬間、何かがふっと溶けたように、2人は自然に話し始めたらしい。


「それがね、彼女との最初の会話だったんだよ。」


老人はカプチーノのカップを手に取り、静かに息を吹きかけてから、深い音を立てて飲んだ。その仕草が、時間を超えて当時の情景を鮮やかに描き出しているように見えた。


「オムライスとカプチーノ、なんとも妙な組み合わせだろう? でも、彼女にそう言われてから、それが僕にとっての“いつもの”になったんだ。」


老人の表情に浮かぶ微笑みは、昔の記憶に包まれた幸福そのものだった。


雨音がまた少し大きくなり、窓際のテーブルのスズメたちが身を寄せ合う。その光景をぼんやりと眺めながら、僕はまた一口オムライスを運んだ。


「私はね、ずっと月だったんだよ。」


老人がそう言ったのは、オムライスの最後の一口を食べ終えた直後だった。


「月ですか?」と僕は聞き返した。


「月を見るとね、どうしてだか寂しく見えないかい?」

老人は窓から空を見ながらそう言った。


僕も窓の外を見る。

空は雨雲に覆われていて、もちろん月の姿など見えるはずもなかった。

でも、空を見ながら彼の問いに答えた。


「たしかに、月を見ると孤独に感じることがあります。でも、星がたくさん周りにいるじゃないですか。だから、本当に孤独なのはむしろ太陽なのかもって思うんです。」


言葉を口にしながら、自分で自分の考えを追いかけているような気分だった。「でも、太陽は孤独に見えない。なぜなんでしょうね?」


老人は僕の言葉を黙って聞き、カップを口元に運ぶと一口だけ飲んで微笑んだ。

「それはね、星たちがいるから月は孤独なんだよ。星たちは星座を作って互いに繋がっている。でも、月だけは夜空の中でぽつんと浮かんでいるんだ。」


その言葉を聞いた瞬間、何かが腑に落ちた。


「僕も月ですね。」

そう言いながら、僕は小さく笑った。


それを聞いた老人は優しく頷いた。

「いつか必ず太陽が現れるよ」


老人は恥ずかしそうに笑いながら、「こんなことを言うなんて、いよいよおじいちゃんだね」とカプチーノを飲んだ。


「それが奥さんですか?」


僕がそう尋ねると、老人はほんの少しだけ目を細め、カプチーノのカップをそっとテーブルに置いた。


「そうだよ。彼女が羨ましかった。」


「羨ましい……ですか?」


意外な言葉に少しだけ眉を上げる僕に、老人はゆっくりと頷いた。


「月はね、太陽がいないと輝けない。けれど、太陽は何もなくても輝けるんだ」


窓の外では雨が静かに降り続けていた。店内は変わらず静かで、カウンターの向こうでマスターがコーヒーカップを磨く音だけが小さく響いている。


「そんな彼女が、羨ましくてね。」


老人はそう言うと、手元のカプチーノを一口含んだ。そして、彼の真っ白な髭には、クリーミーな泡がしっかりと付いていた。


その姿を見たとき、奥さんが言っていた『背伸びした子ども』という言葉を思い出した僕は、上がりかけた口角を隠すように慌ててカプチーノのカップを持ち上げた。


そっと一口飲む。


――美味しい。

ふわりと広がる苦味と、甘さの余韻。

初めて飲むカプチーノは驚くほど滑らかで、体にすっと溶け込むようだった。


「でもね、太陽は燃え尽きてしまうんだよ。」


老人は窓の外を見ながら、ぽつりと言った。

雨粒がガラスに細い線を描く。


僕は返事をしなかった。いや、できなかった。


しばらくの沈黙の後、老人がカプチーノのカップをゆっくりと回した。


「今日でちょうど三回忌なんだ。」


思い出すように窓の外を見つめる老人の横顔には、穏やかさと寂しさが入り混じっていた。


窓の外は小さなスズメが一羽。

雨に濡れた羽をプルプルと震わせていた。

いつの間にか、もう一羽はいなくなっている。

その姿をじっと見つめる老人の横顔は、なんというか、とても静かだった。

まるで、その目の奥は何度も繰り返し再生されるフィルムをただ黙って見つめているようだった。


そんなとき、雲間から陽光が差し込んだ。

それは、僕たちのテーブルだけを優しく照らしている。


しばらくの沈黙の後、老人が静かに言った。

「君に一つお願い事をしたくてね。今日はそのために会いにきたんだ。」


「どういうことですか?」

僕は少し困惑した。

彼の言葉には、この喫茶店で僕に会うことを最初から知っていたような言い方だったからだ。


老人は、僕の戸惑いを見透かしたように微笑みながら続ける。

「どうか、彼女のわがままを一つでも多く叶えてあげてほしい」


僕はなおさら訳が分からず、きょとんとした顔で彼を見つめた。


「少し話しすぎたかな」


老人は苦笑いしながら、残っていたカプチーノをゆっくりと飲み干した。

そしてゆっくりと立ち上がり、コートの襟を正すと、僕にもう一度向き直った。


「月というのはね、時間をかけて少しずつ形を変えていくものだ。だから君も急ぐことはない。そうやって変わっていく姿に、周りの星たちは嫉妬して群れるだけさ」


その言葉を最後に、老人は席を後にした。

レジで会計を済ませ、静かにドアを開ける。鈴の音が店内に響き、彼の姿はドアの向こうへと消えた。


ぼんやりしていた僕は慌てて席を立ち、喫茶店を飛び出す。

しかし、外に出た瞬間、そこには老人の姿はなかった。


辺りを見渡すと、先ほどまでの雨に濡れた静かな商店街の姿はなく、代わりに活気づいた街並みが広がっていた。人々の声、

行き交う自転車、

店先で商品を並べる店主たちーー

さっきまでの寂れた風景とはまるで別の世界に迷い込んだかのようだった。


振り返ると、喫茶店の古びた木製の扉には「CLOSE」と書かれた小さな板が立てかけられていた。

扉越しに中を覗き込むが、そこにはもう電気の灯りも、人の気配もない。ほんの数秒前までいた温かな空間が、まるで幻だったかのように消えていた。


僕はもう一度、商店街の活気をぼんやり眺めた。




それから一年が過ぎた。

あの日と同じように、雨が降っていた。

傘を差しながら、僕はふと思い立ってあの喫茶店に向かった。


木製のドアを押し開けると、前に聞いたはずの鈴の音は鳴らなかった。その静けさに少しだけ胸がざわつく。


「いらっしゃいませ」

カウンターの奥から現れたのは、見覚えのない店員だった。でも、どことなく顔つきが似ている。

マスターの、たぶん息子さんだろう。


「少しお待ちくださいね」

そう言うと、店員は客席のほうへと歩いていった。僕は店内を見渡しながら立ち尽くす。

以前と違って今日はどの席にも人が座っている。


やがて店員が戻ってきて言った。

「お客様、ただいま満席でして……もしよろしければ相席でも構いませんか?」


言葉に促されて目を向けると、窓際の席に茶色いベレー帽を被った女性が座っていた。彼女は窓の外の雨粒をじっと眺めている。その横顔に、思わず視線が吸い寄せられた。


「構いません」とだけ答え、僕は彼女の正面の席に案内された。


席についた僕はなんとなく、あの日と同じ注文をするべきだと感じた。

「オムライスとカプチーノでお願いします」


僕が言うと、その瞬間、彼女がふっと顔を上げた。目が合う。


そして、彼女はクスッと笑った。


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