プロローグ② 10年前
「……ではすみませんがイプシロさん、自分は仕事に戻りますので」
「承知致しました」
父オミクがやや慌てるように出した指示を、老いた使用人イプシロは振り返らずに快く引き受ける旨を伝えた。
ウール家の一人息子であるベイを寝かせているところだった使用人は「オミク様もお仕事は程々になさいますよう――」という心配りの言葉を伝えたが、それを遮るように扉が閉まった。
もう行ってしまったようだった。イプシロは仕事に向かう男の後ろ姿を脳内で幻視した。
老いた使用人は赤茶色の閉まった扉を振り返り、困ったように白の混じった頭を少し振って、今日だけは仕方ないとばかりに小さく溜息をついた。
仕事の続きをしようとベッドに再度目を向けたイプシロは、主人のご子息が眠っているはずのベッドがもぬけの殻になっているのを見て、電球のような真ん丸の黄色い目玉を見開いて思わず固まった。
ベッドに寝かせるまで、心あらず身動き取らずで完全な放心状態だった子供が忽然と消えたのだ。
困惑のあまり老いた使用人は自分の眼を疑い続けてしばらく呆けていた。
すると視界の端に、いそいそと椅子に座りながら机上に絵日記を広げる小さな背中が見えた。
子供にとっての数分は大人にとっての数日なのかもしれない、と下らない考えがイプシロの頭をよぎった。
子供の落ち着きの無さときたら……それはそれは尋常ではなく、体力切れ寸前まで遊び続けたと思ったら次の瞬間にはバタッと倒れて寝ている――かと思えば、いつの間にか起き上がり「勉強してやってもいいよ」と言わんばかりに机の上に教科書類を広げている自由っぷりがあるのだ。大人の秩序では子供の混沌にそもそもついていけないようになっている。
さっきまでのベイ少年は「この世の終わりだ! 自分はどうしようもないダメなヤツなんだ!」と言わんばかりのショック状態だったのに、もう抜け出したらしい。しかもその背中にはどことなく使命感のような張り切りさえ感じられた。大失敗直後の、遅れを取り戻そうと頑張る気持ちが背中から容易に伝わってくる。自分のプライドが刺激されて必死に努力しようとしているようだ。
イプシロは、先ほど幻視したばかりの主人オミクの背中をなんとなく思い出した。老人は誰にも聞こえないように「親子ですなぁ……」と苦笑いと共に呟いた。
「…………坊っちゃま、怖くて眠れませんか?」
「あワッ! ……なに、え?」
年老いた使用人は絵日記の中身を覗かないように配慮しつつ近づいて声をかけたが、振り返ったベイ少年は驚きのあまり椅子に座ったまま飛び上がり、慌てて絵日記に覆い被さった。まるで背後から急に湧いて出てきた未知の存在にちょっかいをかけられたようだった。
さっきまで自分を寝かそうとしていた存在が、頭にも目にも残っていないのだ。
イプシロは年の功で大方の見当がついた。
自分の中で目標を定めたら一直線なのだ、この親子は。
「……ふっふっふっ寒かったら、ベッドに包まるでしょう? 何か怖かったり悔しい思いをしたのですねー。そして、それを忘れないようにしたい、と」と、イプシロは一歩離れた。
ベイはゴニョゴニョと何かよく分からない言葉を呟いていたが、最終的には「……うん」と頷いた。姿勢も正して、すぐさま脳内を書きかけの日記への活力で満たしたようだ。
何かを振り払うように、勢い良くクレヨンを白紙の上に走らせる少年を眺めていた老人は、その後ろ姿に恐怖以外の様々な感情が混ざった何かを感じた。
戸惑いや後悔、困惑や恥。
そしてやはり、何か奇妙な使命感にも似た感情があることを察した。
年の功であった。
「……この爺でよろしければ、坊ちゃまの疑問にお答え致しますよ。何か聞きたいことはありますかな?」
「……ねえ爺ちゃん」
「はい」
「ううん、ええと、さ」
「ええ」
「……冬って、いつもこんななの……?」と、少年は呟いた。
質問の切り口は曖昧だったが、子供の中にある思いがどのようなものなのか語られることを老人は期待して、チラリと部屋の奥にある窓を見た。
この部屋の窓には、廊下の窓にはないものがいくつかある。
子供の落書きが残っているカーテンなどが良い例で、それは外の景色を塞いでいたが、外界から来る極寒まで塞いでいるかと言われれば疑問が残った。
「――いいえ。長年生きてきましたが、ここまでの猛吹雪は初めてでございます。世界中でおかしな天気が起こっているようでして……」
部屋をもう少し暖かくするべきか、と頭で考えながら答えたので少し堅苦しい表現が増えてしまっていた。
「どうも私たちが住む地も例外ではないようです。吹雪に嵐に雷雨まで……去年までと比べて明らかに多すぎますな。まるで天上の神々が争っているかのようです……坊ちゃまが不安に思われるのも自然な事かと」
「なにせ大人でさえ右往左往で……旦那様のように自らの身だけでなく領民たちにも気を配れるような、視野の広い方が領主を勤めておられるのが救いですな。それが当然と思えるような社会は――ああいえ失礼、余計な話です」
ベイ少年はその間、老人の話を静かに聞いていた。
少年はこの老いた使用人イプシロを尊敬していたのだ。特に自分にない知識と人格を持った点が純粋に好きであった。落ち着いて察してくれるのも子供心にとって凄いことだと思っている。
変にこちらを赤ん坊扱いしないで、真面目な話のときは真面目な態度で接してくれているから、道化を相手にするとき特有の妙な吐き気を感じなくて済んだのもある。
「お部屋の暖炉をもう少し強めるとしましょうか」と言って今度は部屋の隅にある、やたらと大きな暖炉に向かって行き、薪を焼べ始めた。
明々とした炎の勢いはどこか不自然で、暖炉の奥からはパチパチと薪が弾ける音に加えて、まるで水底から重石を持ち上げてきたかのようなザバァンといった異音が、新しい薪を焼べる度に交っていた。
「うん、ありがとう。イプシロ爺ちゃん」後ろで作業をしている使用人に少しおざなりな礼を言った後、少年はピタリと動きを止めて振り返った。
老使用人のイプシロは先々代からウール家に忠誠を誓っていて、ベイ少年の20倍は生きている。何か知っているかもしれないとベイは期待し、生き字引に聞いてみることにした。
「ねえ爺ちゃん……死神って、いるの?」
少年の質問に、今度は使用人の方がピタリと動きを止めた。
明らかにこれが本題だ、と老人は思った。
薪が小さく弾ける音だけが暫く続いた。死神について、幼子に教えても良い内容かどうかをイプシロは少しの間悩んでいる様子だった。
「うーむ……直接見たことは、ありません。老いぼれの曖昧模糊な知識で宜しければお答え致しましょうか……」と探りを入れるかのような声色で話し始めた。
「――死神とは太古の時代にいたと思われる、強大な力を持つ存在である……とされています。その存在自体が、魔術や科学よりも不可思議で、詳細は何も明らかにされていません」
「誰一人として見たものはいないのでしょう。調べた者の周辺に不幸な出来事が起こるとも言われています。さらに言えば、一口に死神と言っても曖昧で、国や地域によって差があるのです。個人なのか、概念なのか……どちらにせよ邪悪な存在として語られてきた歴史をもち、誰もが恐れるような、悍ましい悪意として今日でもその面影を確認することが出来ます。それに関しては、きっとどこでも同じなのでしょうな」
「しかし、考えてみれば死神とは……なんとまあ、不思議なものですな。誰も見たことがないのに、その存在を誰もが信じている。いや、もしかしたら誰も見たことがないのは、見た者たち全てを例外なく『何処か』に連れていかれてしまうのか……」
「ねえ爺ちゃん」
「む? どうされましたかな?」
「こわいよー……」ベイ少年はすっかりブルブルと震えていた。イプシロは自身が話すことに集中しすぎていたのに、やっと気付いた。
「ああ、これは申し訳ございません! 坊ちゃまには色々と早過ぎましたな! ……爺の不覚でございます」と言い、幼子を慰めた。
暫くして2人だけのてんやわんやが終わった後、漸く部屋が少しだけ暖かくなってきた頃にベイ少年の震えは止まった。
「えー、コホン。改めまして、長々と大変失礼致しました。好奇心旺盛な坊ちゃまの高い意識に甘えてしまいましたな。夜も遅いので今日はここまでとし――」
だがそれを聞いた少年の表情が途端に固まった。先ほどまでの恐怖とは、また別の恐怖を感じているようだった。イプシロは間の悪いことに、その恐怖には気付かなかった。困惑するのは必至だった。
「それは……いやだよ! さっきの話を続けてっ」
「ええ!? さっきまでの流れは!?」
「あの……坊ちゃま? ……ご冗談ですよね? あ、本気ですか……そうですか……ええ?」
いつもは聞き分けが良いのに震えが止まった途端にコレである。
イプシロは混乱した。幼いながらもやはり親子か、環境か……いや前よりも悪化したか、と老いた使用人はしみじみ思った。とはいえ、夜寝る前に怖い話をする自分にも落ち度があったはずだ。
現当主オミクの幼い頃、相当に好奇心旺盛だったが、夜に長々と小難しい話をしたら速攻で眠りについたものだった。
しかし今回はあまり役には立ちそうもないか。
相手はまだ4才だ。
自分の理想を押し付けて説教臭くなってはいけない。……いけない、とは頭では分かっているが、どうも老婆心を捨てきれない。上から、ああだこうだ言っても、上手くいくとは限らない。特に子どもの頃の好奇心については、そのはずだ。
ベイ・ウール少年の性格は非常に分かりやすい。
というのも、既にその兆候が幼いながらも表れ始めている。
怖がりなのに好奇心旺盛で、熱中すると周りが見えなくなる。
そのうえ興味のあることに関して知ろうとする際は、あまり手段を選ばないタイプの性格だ。
何かを掴むのは誰よりも早いが、それが真実とは限らない。
それにも拘らず道中で非常にトラブルに巻き込まれやすい。
ここに使命感が加わると誰も止められない事態になるだろう。
身蓋もない言い方をすればブレーキの壊れた困った坊主なのである。
本人は平気な顔をしながら、思い付きでシレっととんでもない事をやって周囲をヒヤヒヤさせるのだ。
ただし、このうち熱中すると周りが見えなくなるのは自分も共通の欠点だ、と改めてイプシロは思った。自分との共通点があると血の繋がりが無くても可愛くて仕方がない。欠点だと猶更だった。
この歳になるまで終ぞ正されることは無かったが、まだこれからの坊ちゃまは違う、とイプシロは考えた。自分は歳だからどうでも良いが、坊ちゃまの場合は今のままだと大変だ。まだ幼いがこれでも将来この地の領主になってもらうのが確定している立場なのだ。
今のままでは……とイプシロは危惧した。何かブレーキのようなものを外付けする必要があるように感じた。
「とはいえ好奇心へのブレーキになるものとなると……ううんー、ウーン、ウウーーン……」
「爺ちゃんー? まだー?」
イプシロは少し姑息だが、良い手を思いついた。
「ああ、失礼致しました。えーそうですね……ああ、やはり今夜はここまでと致しましょうかっ」
「ええ? なんでさ! 良いじゃん別に!」
「ホホホ! あー、実はですね。私も長生きしてきましたが、知っているのはこれくらいなのですよっ。ホホホ……」
「ほんとうぉ?」
「ホホホ、勿論ですとも。決して爺がもう眠たくて後日にしたいから、というわけではございませんよー、ホホホ!」
……いけるか? 流石に露骨過ぎたか……? イプシロに緊張が走った。
「なーんだ、爺ちゃん疲れてるんだ。じゃあ暇な時で良いよ。僕も眠いし」
よーし、何とかなった。イプシロは安堵した。
「ホホホ、ありがとうございます。それではベッドで……お休みください。その間、お部屋をもう少し暖かくしておきませんとな」と言って、イプシロは薪を入れる作業を続けた。ベイ少年はその姿を不思議そうに見ながらベッドに戻った。
「……爺ちゃんは寝て良いよ。もう僕4歳だし、1人で寝られるし、暖炉の火も1人で出来るよ。薪を入れるだけでしょ?」と自らの成長を誇示した。先ほど恐怖で震えていた姿を見られたので名誉挽回できるように頑張っているようだ。
イプシロにとってこの提案は嬉しいが、それは受け入れられないものだ。それにあの話の後だ。念の為に寝ている姿も確認しなければならない。
子どもの好奇心にさえブレーキをかければ、後はもう簡単のはずだ。眠たくなるような雑談でもしていれば、いつの間にかお休みになってくれるだろう……この子の父親もそうだったのだから、とイプシロは思った。
「ホホホ。確かにそうかもしれませんなぁ。魔力や火の調節も、お一人でお休みになるのも。坊ちゃまは大変お上手になられましたなぁ」と老人はしみじみと言って、暖炉の前にある揺り椅子へ腰掛けた。暖炉の世話は、座りながらやるに限るのだ。
「……じゃあなんで爺ちゃんは全部やってくれるの? お父さんが言ったから?」とぼやいて、少年は机の上に置いたままだったクレヨンをチラリと見た。熱が入りすぎて、黒のクレヨンだけが他より減っていた。少年自身は無意識だったが少し拗ねていた。
「ホホホ! それは理由の1つに過ぎません。そも幼子に火の始末を任せきりにするのがよろしくありません。これからお休みになるというのに……」
「無論、最近の魔巧暖炉は事故が起こらないよう設計されているとはいえ、ですよ? ましてやこの天候……最低限の仕事をしてお終い、では長年使えてきた使用人の名折れとなってしまいます」
「いやはや……しかし流石に歳ですな……爺はついつい坊ちゃまが先月くらいにお産まれになったかのように思えてしまって……時が経つのは早いもんですなぁ。ベイ坊ちゃまが大変可愛らしいので、爺はつい構いたくなってしまうのです」と語り、老いた使用人はゆるりと手を動かした。パチパチ、ザバァンと音がした。
「別に僕可愛くない。普通だよ」と少年は横から伝わってくる焚かれた温もりを感じながら反射的に言った。
「ホッホッホ! 坊ちゃまからすれば、そうかもしれません。確かに自分のことを可愛い、などと公言する者など大抵『見栄っ張りなだけのペラペラちゃん』です」
「これは、坊ちゃまが、ではなく単にこの爺めがウール家の皆様に尽くしたいだけなのです。生き方に癖がついたようなもので……例え坊ちゃまに嫌われようとも、これから先10年は坊ちゃまのお世話に尽力する心積もりですとも」とイプシロは誇らしそうに語り、老いた使用人は暖炉の中で踊る火を見つめた。パチパチと音がした。
「ふーん……? そういうものなのかな。別に良いけどさ。爺ちゃん早く寝なさいとか言わないし」
「でも、やっぱり良く分かんないや。あとさ、僕それ聞いたことある。お母さんが前に言ってた。爺ちゃんは10年前も、20年前も同じこと言ってたんでしょ? あと10年、もう10年ってさ……」と言って、コッソリとベッドまで持ち込んだ絵日記の出来を眺めた。暖炉の火によって赤みがかった色合いに見える白黒の小さな世界が描かれていた。クレヨンの、匂いがしている。パチパチ、ザバァンと音がした。
「ええ、左様でございます。この年になると10年、20年に差など殆ど感じないのです。庭仕事をするときも、料理をお出しするときも、あと10年、もう10年……あっという間に、ですなぁ」
「じゃあ爺ちゃんはずっと僕たちの家の使用人だったの? 辛くなかった?」
「いいえ、全く。オミク様とイオ様がこの館の主人となった日も、その前も……こうして暖炉に薪を焼べている間にも、忠誠心というものは『最初にあったもの』が永遠に燃え上がるものではないのです。こうやって――」と言いながら更に老いた使用人は薪を焼べた。「――また新たな忠誠心が燃え上がるものなのです」パチパチ、ザバァンと音がした。
「良い音ですなぁ。昔から殆ど変わらない。こうしていると時間があっと言う間に流れていくようで……死神とやらも、急に、来さえしなければ、恐れるのは……なにも……」パチパチと音がした。
「そっか……ずっと爺ちゃんも――だったんだ……」
老人の耳に、なんとなく、遠くのどこかから、そんな声が届いた気がした。
「…………――おっと、いけない。ボーっとして、しまっていましたな。坊ちゃま? そろそろお休みの時間に――」とすっかり老いぼれてしまったイプシロはそう言いながら振り返り、思わず固まった。
「爺や、何言ってるのさ。もう朝だよ」
そこには14歳になったベイがいた。もう幼子ではない。
鏡を前に自分で身だしなみを整えている。上は水色のシャツ、下は黄土色のスラックスを履いており、左の手糸をあっちこっちに動かしては旅行鞄の中に物を詰め込み、右の手糸だけでネクタイを締めている。すっかり追い抜かれてしまった長身の背中が、イプシロには、やけに大きく見えた。
ふと気になってイプシロは自らの手を見た。少し持ち上げただけで、老人特有の手の震えが肩まで来ていた。
あれから10年経っていたのか?
いや、違う。
先程まで10年前の夢を見ていたのだ。
「――ああ、そうでしたな。なんとまあ、失礼致しました。10年前を思い出しておりまして……ベイ坊ちゃまは、すっかりご立派になられて。時が経つのは早いもんですなぁ」と感慨深そうに言った。
「またボケたのー? もう春だから、のんびりしたくなるのも分かるけどね……僕もちょっと寝坊して遅れ気味だし……忘れ物ないかな……?」と言って、本人お気に入りの旅行鞄の中身をゴソゴソといじった。
「うん、よし。財布、チケット、画材に服。十分かな」満足したらしく、鞄の鍵を閉めて担ぎ上げた。
「じゃあ、行ってくるよ」
「おやぁ、お早い出立ですなぁ。いってらっしゃいませ。どちらまで行かれるので?」とイプシロは、のんびりと疑問を口にした。ベイは赤茶色の扉を閉める寸前で手を止めて振り返った。そして肩をすくめて答えた。
「――ちょっと王都まで」