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プロローグ① 10年前

 当時4歳のベイ少年は自宅の窓越しに外を眺めていた。少年の黄色いレンズのような真丸の目が窓ガラスの面に映りこんでいる。柔らかい黒糸で張り巡らされたケイト族の幼い体は、そのまま外の夜闇へと浮かび上がっていくかのようだった。半端な逆光により窓の景色と同化していた顔は、ガラス越しに映ると目玉だけが宙に浮かんでいるようだ。

 なんとなく少年は不安な気持ちになった。

 残酷な猛吹雪が外界を支配していて酷く恐ろしかったのもあるが、この窓から見えるはずのクスの大木でさえ、辛うじて見える程度の不明瞭な影となっていた。あれは高さが20歩もある木なのでベイが良く利用する遊び場だが、ここからでは単なるぼやけた影と大差なかった。

 ベイ少年にとって、それは友達が忽然と消えてしまったかのように感じられた。自分が掴んでも引っ張ってもびくともしない頼もしい存在が、この地の暖かさと共に拭い去られる光景は妙に落ち着かなかった。不安が恐怖に変容し、余計な想像力を搔き立てていた。無慈悲な白と不気味な黒が窓の奥で荒ぶる現実にベイ少年は自身の体が凍えたかのように身震いした。身体ではなく心が凍えていた。


「そこに誰かいるの……?」とベイ少年は見当違いなところを見ながら、おずおずと言った。

 

 恐怖には見えないはずの存在まで、はっきりと見えてしまう力があり、少年の怯える姿は良い例だった。少年は暫く様子見をしていたが何も反応がないことが分かると余計に震えた。

 しかし怖がっていたとはいえ、ベイ少年はまだ幼い子供であった。家中の暖かさに安心していると不思議なもので、いつの間にか恐怖をコロッと忘れて、好奇心が少年の鳩尾辺りを突付いて痺れさせてきた。この状態の窓に触ったらどうなるのだろう、という疑問が生まれた瞬間だった。

 無知な子供にとっては他愛のないことでも未知への挑戦である。

 この冷たい窓に触ったらどうなるのだろうか。

 忽ち全身が凍ってしまうのだろうか。

 そうなったら暖炉の前に置いて溶かしてもらおう、と軽薄に思っていた。

 ベイ少年は自分の「手糸」を伸ばした。黒い繊維で編み込まれた彼の手糸は、自由意志を持ったかのように動き始めた。それは磁力に引かれた砂鉄のようにも、太陽光を求めて生えてくる黒っぽい蔦のようにも見えた。スルスルと窓の平らな面を撫でたり押し当てたりして動いていたが、違和感を覚えた本体の意思によって元の位置に素早く戻った。

 濡れている。窓には結露した水滴がびっしりだった。本人はそれを触った後、かなり不愉快そうに呻いた。「うええ、なんか濡れたー」と声を上げた少年は手糸を捻り上げて絞った。吸い込んでしまった水が雫となって床を僅かに湿らせた。今よりほんの少し黒っぽくなった自分の手糸と、床の小さな丸い染みを少年はしげしげと観察していたとき、廊下側から男の声がした。

「間違っても外には出てはいけないぞ。今年の冬は特に酷いんだ。寒さも厄介だが水気も怖い。地上で溺れてしまう」

 背後からの警告にベイは振り返った。

 いつもは落ち着き払った大人の雰囲気と朗らかで陽気な性格が暖炉の火のように感じられたが、暴力的な極寒を前にした今となってはそうでもない。疲れ切った声をしていて表情もかなり沈んでいた。

 疲労している男の名はオミク・ウール。ベイ・ウール少年の父である。

 顔や声には隠し切れないやるせなさが含まれていた。ベイ少年にとって、これは大人の特徴だった。

 何かに疲れ、諦めて、何にも楽しくないけれど、子供の前では奇妙な希望を表現し続ける。無理をしているのが明け透けだったので滑稽に見えて仕方がなかったが、何故か指摘する気にはなれなかった。

 

「……だれか死んじゃったの?」とベイはオミクに聞いた。明るい父が沈んだような性格になるとき、大体が人死を出してしまったときなのだ、と少年はそのことをよく知っていた。

 だが「死」というものについて実は少年自身はあまりよく理解していなかった。

 こちらが難しい言葉を使っていれば、そのうち滑稽な道化師の方が勝手に深読みして普通の人になってくれるらしい、ということは以前から分かっていたことだった。幼い子供が難しい言葉を使うとき、そういった効果を期待して言っているのだ。「死」が正に適語だった。

 

 我が子の問いは直球だったが、幼さ故の唐突な質問に面食らうことなく父親は溜息混じりに答えた。もし死人が出る、という話題に非日常的な高揚感をベイが醸し出していたら、その不謹慎過ぎる態度に大喝が轟いただろうが、事実はそうではない。

「ああ。さっき念話が届いて……詳細は不明だが、どうも発掘調査中の作業員1人が亡くなったらしい。最深部で部下と共に作業中だったそうだ……恐らく体の芯まで凍てついてしまったか、溺れたんだろう。乾燥の魔術にも限界があるからな……」と頭の鈍痛が表情に出ないように言った。怖い表情で、怖い話をすると、怖がりなベイがどのような反応をするのかはオミクにとって明白だった。

「そうなんだ……」と父の静かな嘆きに少年も静かに返すことにした。この地の領主である父の嘆きは続いた。

「他にも数名が重症で、軽症は当直の作業員ほぼ全員……これ以上は今のところ分からない……正直もう聞きたくない。あまりの急激な気温の変化に避難し損ねたらしい。全身が機能しなくなり、短時間で手足が壊死し始めたという話を聞いて震え上がってしまったよ……場所も場所だから逃げ遅れてしまったんだ。最近の異常気象の頻度はあまりに酷すぎる! 私もあの場にいれば、ああいや、言っても仕方がないか……」とオミクは長々と話した。他にも「貴重な人材が……」や「頭が痛い……」とも呟いていた。

 

 落ち込んでいる父の気持ちを考え、ベイ少年は神妙に話を聞いていた。だが一応は聞いてはいたが、4歳の子供には死という概念や、飛び交う専門用語は非常に難解であった。仕方のないことだが全くと言って良い程にベイ少年はそういうものを理解していなかった。そう思う機会もなかったのだ。

 しかし、この話題に関連する内容は大人たちを酷く疲れさせるらしい、ということは幼いながらも理解できた。

 生まれて初めて、少年はほんの少しだけ死を理解できたのだ。

 この吹雪がまた来ると思えば少年も大人たちと同じく、心なしか疲れたように感じられた。

 

「友達だったの?」とベイ少年は続けた。子供なりに話題を変えたつもりだったが変え切れていなかった。

「友達……そうだな、友達だ……ああ、いや少し違うかもしれない。彼はきっと私にとって仲間だったな。部下や同志とも言える。私が彼の友達を自称するのは何だか……何だろうな。死んでしまった彼に凄く失礼な気がするんだ」

「どうし……? 仲間って? 友達とどう違うの?」

「同志は志を同じくした人たちのことで、仲間……仲間はそう、だな……。何かを達成したり、一緒に物事を進められる協力者たちのことを言うんだ。少なくともお父さんはそう思っている」

「協力者……」

「ハハハ、ごめんなー。難しかったか。うん……今はお父さんも疲れてるから、上手く説明が出来ない。けど、いつか話の続きをしようか。ベイがもう少し大人になってからだな」とオミクは言った。我が子との会話で少し気が紛れたようだった。

「はぁ……なんで真面目で、優秀な奴から、先に死んじゃうんだろうな……」

 溜息交じりに呟いたオミクの愚痴にベイは反応出来なかった。窓の外を見ながら父の「協力者」を奪った「死」について考えていた。


 死とは何か。


 それは、とても酷いもの。

 それに、凄く恐ろしいもの。

 それと、よく分からないもの。

 それが、突然目の前に現れてくるもの。

 他生物が漠然と意識する、これらのような死の印象よりも、4歳のケイト族の脳内では更に曖昧模糊とした虚像で成り立っていた。

 ケイト族は頑強な肉体を有しており、ちょっとやそっとではびくともしないが、致命的な弱点もないわけではない。

 火と水に弱いのだ。

 少しくらいなら平気だが、水に全身をどっぷりと浸かってしまうと吸水して動けなくなり呼吸困難になって死んでしまう。ケイト族にとっては雨と雪こそが、天から降り注ぐ神の怒りであり、死の象徴となるのだ。火に関しては言わずもがな、である。強い生物の方が珍しい。

 幼い子供であっても、本能に刻まれたこれらの認識は揺るがなかった。今までベイ少年は全く意識したことがなかったが、今回の理解をきっかけに一瞬、何かに気付きかけた。

 そのまま、意外と身近にあった深淵を見るために外の暗闇を凝視した。窓という名の仕切りが無ければ手が届きそうだった。

 少年が死について深く考えたとき、荒れ狂った風の唸り声と窓枠から響く恐怖の震えが伝わってきたことで気付いてしまった。誰もが気付きたくない故に触らなかったであろう神への怒りが見えてしまった。幼い本能が警告を発したが遅かった。

 命を含めた、何もかもを吹き消してしまうかのような外界の真っ暗な空高くに、一対の黒々とした残虐で、冷酷無情な化身たちが、暴れているのが見えてしまったのだ。

「死神……」

 ぼそりと静かに呟いた少年の言葉は、近くにいた父オミクでさえ聞き取れないものだった。少年の意識は気絶する寸前にあった。


 そうだ、正にあれこそが「死」なのだ。


 あの極寒の吹雪と吸い込まれそうな夜闇を中心に「死の神」がいるのだ。外の世界を、我が物顔で支配して、黒い未知と白い理不尽を纏わり付かせて闇の中に引きずり込む。

 それはまるで絵本に出てきた怪物が、皿の上で空漠たる思いの自分で満を持して腹を満たそうとする光景を見たようなものだった。冷酷な大口をパックリと開いて、体の端から少しずつ齧るかのように、じっくりと自分の存在を否定されていくのだ。抵抗する余力など皆無である。もうどうにもならないのだ。少年はその残酷な事実にただ震えるしかなかった。


 ベイ少年の様子を見て、父オミクはそれを恐怖ではなく、寒さと捉えた。

「おっと……悪い、長話をし過ぎた。流石に寒かったよな? 部屋に戻ろう。お父さんも仕事がまだ残ってるんだ」オミクはそう言ってブルブルと震える少年を抱き上げて、もと来た廊下を歩いていった。

 少年はなすがままに従った。勘違いしたであろう父への訂正は終ぞ行われなかった。






「クシーさんもベイのことをさっきまで探してくれてたんだ。一言お礼を言わないとな」そう言って、ベイを抱えたまま廊下を歩くオミクは木目の整った銘木扉のドアノックに手糸を絡ませて響かせた。

 「はぁいー」というような、くぐもった返事が扉越しに聞こえてドアが開かれ、かなり年老いたケイト族の老婆が看護服姿でヨレヨレと表れた。老人特有の手の震えが肩まで来ていた。

「おんやぁ、良かったですねぇ。見つかったよぅで」と言って老女は朗らかに笑った。本来なら電球のように黄色く光るであろうケイト族の眼球は薄ぼんやりと濁っていた。何が可笑しいのか、定期的にホホホと笑っている。

「ええ、ありがとうございます。クシーさんもこんな夜更けに世話をかけてしまい申し訳ない」

「いいえー、奥様の容態も落ち着いてぇおりますので。先ほどお休みになった所なんです。ええ、ええ」

「そうでしたか……あまり無理をなさらずに。健康が一番ですので」

「ホホホ、なぁんのなんの。この婆の目が黄色いうちはぁ奥様にご無理はさぁせませんとも、ホホホ」

「ああ、はい、妻もですが……いえ、ありがとうございます。あとすみませんが、私の方はこれから後処理でして……ほらベイ。クシーさんに、おやすみなさいって言おうな?」

「……おやすみなさい、クシー婆ちゃん」

 父オミクに促され、震えて縮こまったベイは蚊の鳴くような声で挨拶をした。

「……? 何か怖いことでもあったのかぃ?」

 クシーはそれを見て覚えた違和感に小首を傾げた。オミクがそれを察して代わりに答えた。

「どうも寒さが堪えたみたいで。さっきからブルブル震えてまして」

「あらー、そうだったんですねぇ。では暖かくしておやすみなさいねぇベイ坊ちゃま。旦那様も大変かと思いますがぁ、休息だけは取られぇますようにねぇ」とにこやかに言った。

 ベイは最後まで何も言えなかった。

 会釈を交わし背を向けて歩き出したオミクに担がれたまま、ベイ少年は彼らの会話を否定もせずに呆然と聞き流していた。吞気に手糸を左右に揺らせた使用人の老婆が廊下の角で見えなくなるまで、ベイは不安に苛まれながら静かにその姿を見ていた。その言い知れない不安は恐怖と妄想を際限なく産み、これから増長していくはずだった少年のプライドを容易く、へし折った。


 死が来るとしたら、真っ先に狙われるのは誰だろうか。

 直接見た自分では、ないかもしれないじゃないか。

 優しさに溢れたあの人かもしれないのに、何故自分は何も言わない?

 それは……間違いない。自分が、死にたくないだけなのだ。

 だから他人を犠牲にするのだ。この場において、狙われる確率をほんの少しでも避ける為にだ。

 少しだけで良い。一時的で良い。明日までには良い子になるから、それで良い。

 今は紛うことなき恥知らずになるのだ。生きるために。


 4歳による妄想はしばらく続くことになった。何故か、少年は奇妙な確信をもって納得し、これからの人生を歩むことになる。その大袈裟な愚かさは一見すると寿命という概念がすっぽりと抜け落ちただけの愚かな妄想だった。自身が何も変わらず明日を迎えることに一喜し、単なる老婆がこれから死ぬだけの出来事に一憂するだけの生命だった。邪悪な存在の関わりについて滑稽に恐怖するだけの……俗に言う個人の脳内にしか存在しない陰謀論に近かった。


 危ないと言うべきだったか。言葉にすることで、無事な命が増えるかもしれない。本当にそうだろうか。無駄な行いのように思える。だが声を上げたらどうなるか。その後に狙われるのは誰か。声を上げた愚か者が狙われるのではないだろうか。それに叫んだところで、そもそも何が変わるのか。

 暴走した想像力により、当の本人にも何が何だか、分からなくさせてしまった。無知の想像力にブレーキは無いのだ。

 

 結局、少年は何も出来なかった。人生最大の失敗は、殆どが自分の脳内だけで発生するのだ。恐怖が残り、自己保身に傾いた恥が残り、決断力のない己への後悔も残った。

 廊下に灯っていた拙い蝋燭の明かりが吹き消されたのは、それから間もなくのことだった。ベイ少年が老侍女のクシー婆との思い出の中で、これが一番記憶に残ったものだった。幸、不幸は不明だが、この思い込みがその後の彼の人生を決定したのだった。

 

 数日後、この家に老婆の姿はなかった。老衰で去ったか、死神が連れて行ったか。少年はこの二択に悩まされ続けた。

 「おやすみなさいねぇ」

 彼女の最期の言葉が、ずっと頭から離れなかった。

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