イト紡ぐ休日 10.5話
従者たちとジンシード子爵家の会話。
火の天使と呼ばれているイザンバから招待を受けて出掛けていた娘が帰宅した。
粗相をしていないか心配していた家族だがこの展開は全くの予想外で、青天の霹靂とはまさにこの事である。
子爵家の馬車に続いて停まった、明らかに場違いで立派な馬車。
そこから次々とサロンに運びこまれる箱。箱。箱。
その包装だけでも滅多に触れる事のない高級感があり、「なぜ?」と脳内を疑問符が占める。
何事かと問いたいところだが、運んでいる者がスキンヘッドの厳つい大男であるため、彼らは小心者らしく口を噤んだ。
荷物が全て運ばれた後、コージャイサンの従者だという茶髪で細身のどこにでもいるような男性——イルシーは人好きのする笑みと穏やかな声を子爵一家に向ける。
「オンヘイ公爵家からのお届け物は以上となります。なにかご質問はございますか?」
「え、誰? 本当にあの従者さん?」
「ええ、そうですよ」
クタオ邸で聞いた話し方とあまりにも違う。呆気に取れられるカティンカの独り言に、イルシーはただにこりと微笑んだ。
どうにも違和感が拭えないが、高位貴族の従者ともなればこれくらい当たり前なのか、とカティンカは妙な納得の仕方をした。
「素顔は素朴系かー。いいです! 全然アリですよ!」
「素顔、ね。さぁ——……どうでしょうか」
けれどもイルシーはどこか揶揄うような口調だ。
公爵令息の従者の登場に、驚きと恐れ多さに震えながらもジンシード子爵は緊張で乾いた唇を懸命に動かした。
「あの……なぜ、オンヘイ公爵家からこのような荷物が……? はっ! まさか公爵令息に娘が見初められ!!??」
「それはあり得ません」
「ですよね! あぁ、良かった!」
ピシャリと言い切られたのに、彼らから吐き出されるのは安堵の息。
——カティンカが選ばれるわけがない、と
——身分違いの公爵令息と恋仲になっていない、と
——火の天使の不興を買っていない、と
全員が心底ホッとした。だが、疑問は残る。
そんな彼らにイルシーはにこやかに言った。
「簡潔に申しますと皆様に三日後の結婚式へ参列していただくためです。詳しい説明は御息女から。我が主からの手紙をお持ちですので」
「カ、カティ? どういう事だ?」
「私がオンヘイ公爵令息様からある仕事を引き受けたの。そのことに関してお父様たちにもちゃんと説明がしたいからって仰って。はい、これ」
震える手で手紙を受け取った子爵、隣で覗き込んだ夫人は恐れ多さがキャパオーバーしたのかふらりと倒れ込んだ。
呆然とする父、倒れ込んだ母に代わりに弟が懸命に訴えた。
「従者様! 大変言いにくいんですけど、もう本当に言いたくないんですけど! 姉は重度のオタクな上に表に出せないほど腐っています!」
「ねぇ、ひどくない?」
「うるさい。変態は黙ってろ」
まさかの状況に弟も若干パニックなのだろう。人前だというのに口が悪い。その上、カティンカはギロリと睨まれたわけだが。
——あの時のオンヘイ公爵令息様の方が何百倍、いや、何万倍も怖かったな。
なんて呑気な思考である。その間も弟の口は動く。
「考えなしだし、すぐ妄想して口から出てるし、こんなのが参列するなんて我が家の恥を晒すだけじゃなくて、お二人の結婚式を台無しにしてしまいます! はっ! まさか結婚式で断罪を……⁉︎」
「断罪断罪うるさい! 公爵令息様がご自分の結婚式をぶち壊すバカなわけないでしょ!」
「断罪じゃなきゃなんで姉さんが呼ばれるんだよ!」
「さっき説明したでしょうが!」
おほん、と。大きめの咳払いでイルシーは姉弟の言い合いを止めた。
「断罪もあり得ませんのでご安心を。ジンシード子爵令嬢様の出席は我が主の意。それにイザンバ様もとてもお喜びでお越しを心待ちにされております」
「え?」
「しかし、ご令弟様の心配点も理解できます。確かにご令姉様の淑女の仮面は激しい経年劣化に見舞われておいでです。仕立て直す為の教師を呼んでおりますので、その点におきましてもご安心を」
「え?」
もう子爵夫妻と弟はポカンと口を開けるばかり。
イルシーの視線を受けてファウストがサロンの扉を開く。ここは一体誰の邸だと言いたくなるが、潜入していたイルシーにとっては勝手知ったる子爵家だ。
中に入ってきたのはヴィーシャを先頭に好好爺然りとした眼鏡をかけたたっぷりの白髭を蓄えた老人と、こちらも眼鏡をかけた少し神経質そうな白髪混じりの金髪の女性。
「美女メイドさん!」
カティンカの呼び声に、ヴィーシャはうっとりするほどの甘い笑みを浮かべてひらりと手を振った。案の定、子爵家一同のハートが軒並み撃ち抜かれたこの威力よ。
イルシーの隣に女性、老人、ヴィーシャと並ぶ。
「ご紹介します。私の隣のマダム・サリヴァンはかつてはイザンバ様に。その隣、ソクラテス卿はかつては我が主に、最近まで王子殿下の再教育を務められました。そのご縁をこの度はこちらに」
「そそそそそんな方々が……お、おそ、恐れ多い事で……」
「ええ、その通りでございます」
恐縮しきりの子爵に対して従者は微笑む。
「なにせ時間がありません。台無しにしたくないのであればご家族揃ってしっかりと仕立て直してください。一生に一度の……我が主とその至宝の結婚式ですから」
目が笑っていない従者の圧が言う。ごちゃごちゃ言ってねーでやれ、と。
ゾクリと流れる冷や汗を拭いながら、子爵なりの解釈を口にする。
「えーっと、つまりは娘のオタクを直せという事ですか?」
「いいえ。外面をしっかりしろという事です」
「ですが、オタクのままでは……」
「問題ありません」
「しかし……」
「問題ありません」
——そこ直されたらこっちの計画が狂うんだよぉ。いいから黙ってやれや。
とイルシーは再度笑顔で圧をかける。
「……はい。かしこまりました」
従者がいいと言うなら公爵令息もいいと言っているのだ、と湧き出そうな疑問すら強引に引っ込めて蓋をされた。
「あの、そちらの……美女メイドさん? 先日使いに来てくれた方よね? あなたも先生ですか?」
夫人の言葉にヴィーシャはまた美しい笑みを浮かべ、そして淑女の礼を。それはイザンバにも引けを取らない美しい所作。
「コージャイサン・オンヘイ公爵令息様にお仕えしております、ヴィーシャと申します。どうぞよしなに」
「え? イザンバ様のところのメイドさんじゃ……?」
「ご主人様の命により護衛も兼ねて今はお嬢様のお側に」
「美女メイドさんが護衛⁉︎ しかもご主人様呼び! 興奮するー!」
ところが、カティンカが興奮の声を上げた瞬間に響いたパシィッ! と鋭く床を叩く音。
「え゛?」
子爵一家の視線がヴィーシャの、もっというならその手元に向いた。
「…………鞭……」
誰かがぽつりとこぼした声にヴィーシャはにっこりと微笑んだあと、カティンカに瞳を向けた——冷たく厳しいアメジストを。
「ジンシード子爵令嬢様、本日我が主はあなた様に何をしろと仰いましたか?」
「あ……その、反射でものを言わないように、と」
「ええ。それが最低限のラインです。それに……」
そこで溜めたヴィーシャは頬に手を当てて色っぽくため息を吐いた。
「あのお可愛らしいお嬢様のお尻を触ろうとされましたでしょう? そういうのもちゃんと堪えてくれませんと」
「カティ!!??」
「姉さん!!??」
ヴィーシャの発言に両親と弟から悲鳴が上がる。
「本当何をやらかしてきてんだよ、この変態が! マジふさげんな!」
弟がカティンカに詰め寄ろうとした時、また響く鋭い鞭の音。即座に憤怒も文句も引っ込んだ。
「今はウチが話しています。子爵令息様はお控えを」
「はいっ! すんませんっした!」
「ほっほっほっ。これはこれは……紳士たる者、例え相手が姉であってもその言い方はいかんな。それに謝罪の仕方も」
好々爺から一転、ソクラテスは鋭い視線を弟に投げかけて。
「全くザマス。教育のしがいがありそうザマスね」
サリヴァンは眼鏡のツルをクイッと押し上げた。
「ザマス教師キター!」
「喜んでる場合じゃないだろ!」
三度目の鞭の音に、とうとう姉弟は互いを抱きしめて恐怖を紛らわせた。
「ヒェッ!」
「ご安心を。お嬢様の大切なお友達に当てたりはしません。ご主人様からは厳し目にと言われてますし、ウチがいるのは結婚式までですから遠慮なく振るわせていただきます。ああ、もうお分かりでしょうが……皆様、頑張りましょうね」
「はいっ!」
美女の凄み。一同異論なしである。
「先生方、時間がありませんので早速始めましょう」
「そうザマスね。取り急ぎ結婚式の時間だけでも見苦しくないようにするザマス」
「基礎からみっっっちり鍛え直しは結婚式後じゃな」
「え?」
なんだろう。結婚式を乗り切って終わり、ではなさそうな……。暫く先生方の指導が続くような口ぶりだったが……。
垣間見た未来に打ちひしがれるカティンカにヴィーシャの優しげな声が届く。
「子爵令嬢様、頑張ったらご褒美がありますよ」
「え?」
そう言って彼女は腰のポーチからあるものを取り出した。こっそりとカティンカだけに見せられたのは……
「アダ『パシィッ!』……ん゛ん゛!!」
——アダム様ぁぁぁ!!!???
なんとか我慢したのは鞭の効果だろうか。先ほど購入出来なかったアダムのコスプレ写真にカティンカのテンションは急上昇だ。しかし、間近にあったお宝は蠱惑的な笑みの腰元に消えた。
そして、次にヴィーシャに甘い笑みを向けられて、弟はごくりと喉を鳴らした。
一歩、彼女が近づいただけで、とてもいい匂いがする。それでも決して触れられない距離で彼女は言う。
「子爵令息様はこういうの——……お好きですか?」
「はぁっ!!??」
「フゥーーーッ!」
弟は驚いた。ちなみに喜んでいるのはカティンカだ。いま鞭が唸らなかったのは弟の反応を見るためだったのだが、まさか便乗して喜んでくるとは……。
見せられたのはキャットスーツを着たヴィーシャの脚線美艶かしい煽り写真と、はだけたブラウスからその豊満な谷間とコルセットをチラリと見せるジオーネの上目遣いの写真。大変けしからん。
思春期男子には刺激が強すぎるのだが、もちろん弟は写真をガン見だ。鼻に違和感を感じて慌てて押さえる彼に、察した姉はティッシュを差し出した。
「…………ありがと」
「いいよ。気持ち、分かるから」
「やめろ。分かるな。あの、その………………」
写真はすでにしまわれ、彼の目が追うのはその残像。それでも目の前の美女の顔が恥ずかしくて見られない。弟は込み上げる情動をなんとかオブラートに包み込んだ。
「………………大変、素晴らしいと思います!」
「ふふ、ほな……欲しかったら頑張りましょね♡」
「かしこまりました!」
ヴィーシャは正しく飴と鞭を使い分けて。
姉弟の様子に従者たちは無音で言葉を交わす。
——流石ヴィーシャだな。もう掴んだ。
——遊んでねーでちゃんと仕込めよぉ。
——誰に言うてんの? 任せときぃ。
そして、従者三人はにっこりと、それはもうにっこりとわざとらしい程の微笑みを交わした。
「それでは、我々はこれで失礼します。三日後、お会いできるのを楽しみにしています」
「ハッ、ハイ! 慶んで出席させていただきますので!」
イルシーとファウストの綺麗な一礼にさえ、公爵令息の従者たる自信を感じさせる。
さて、どこまで仕立て直せるかは……彼女ら次第。
活動報告より少し手直ししてます。