日常
初投稿、不定期更新です。
夕暮れの住宅街に、ギャアッギャアッとつんざくような声が響いた。興奮しきったその鳴き声には激しい羽音が混じる。この住宅街に住む者ならばすぐにその主に思い至っただろう。この付近には辺りを縄張りとしている賢しく体格の良い鴉が一羽おり、ごみステーションや家庭菜園、稀に買い物帰りのビニール袋などまで強襲することから住民たちに蛇蝎の如く嫌われているのだ。
アルバイトから帰宅途中のこの青年、佐野悠斗も鴉と浅からぬ因縁を持つアパート住民の一人だ。青く染髪してうなじで一つに結えた長髪と耳に光るピアスはご近所の家族連れや年配の住民にとっつきにくさを感じさせるが、太めの眉と人懐こい笑顔が柔らかい印象を与える、21歳の男子大学生である。
彼もまた他の住民と同じく日頃のゴミ出しでこの鴉と遭遇しており、その都度ゴミ袋を巡る熱い攻防を繰り広げていた。今のところ勝率は6-4といったところで鴉の方がやや優位に立っており、そんな煮湯を飲まされている悠斗がこの鴉の声を聞き逃すはずもなかった。
「この声、アイツじゃねーか!朝でもないっつうのにあのカラス野郎おお……!」
ナップザックを背負い直し、鳴き声のする方に駆け出す悠斗。向かう方向が普段のごみステーションではないことを訝しみながらも探し回ると、真っ黒い影がアパート近くの植え込みに向かって激しく鳴き立てているのがすぐに見つかった。
「こらっ!!何してんだ、ほらあっちいけっ!!」
ナップザックを肩から外してぶんぶんと振り回す。コイツは以前、悠斗がミルクをあげていた地域猫をいじめていたことがあったのだ。突かれて怪我をしたことでその猫は管理人の実家に引き取られることになったのだが、目の前の光景がその時の光景と重なって見えた悠斗の声は自然と怒りに燃えたものになった。
勢いよく迫るナップザックに堪らず逃げた鴉だが、ギャッ、ギャアッ、と未練がましく鳴いて頭上をぐるぐると飛び回る。しかし、悠斗が仇を見るかのような険しい目で睨んでくるのに圧し負けてか、やがて夕日の向こうへと飛び去って行った。
さて、無事に鴉を追い払った悠斗はひとつ息を吐いてナップザックを背負い直すと、目を背けていたそこを直視する前に心の準備をし始める。あのたちの悪い鴉が執拗に狙っていた相手なのだ、しかも植え込みに隠れられるほどの大きさ。きっと鴉の晩御飯にちょうどいいサイズ感の小動物に違いない。もしこれでカワイイ子猫ちゃんが肉塊になってたとかだったらトラウマ確定だぞと自分の想像で半泣きになりながら、悠斗は恐々と植え込みの下を覗いた。
「……蛇? 真っ白だな、珍しい」
そこにいたのはまだ成熟しきっていなそうな大きさの白蛇だった。アルビノなのか目は赤く、全身が真珠のように白い。アルビノはその体色から目立ってしまい自然界ではよく狙われると聞いたことのあった悠斗は鴉の興奮具合に納得しつつ、蛇の体に致命傷となりうる大きな傷がないことに安堵した。しかし、小さな傷がちらほらとついた体は実に痛ましい。
弱っているのか人間を前にしても動こうとしない蛇を可哀想に思い、悠斗は蛇を庭木の茂みの方まで連れて行って放してやった。この先には小さな神社があり、何故かあの鴉が寄り付かない鎮守の森がある。突然持ち上げてきた人間の手を咬むこともなく大人しく運ばれた白蛇は、茂みに放すとスルスルと這って消えて行った。
白い影を見送った悠斗は小さな充足感を感じながらアパートの自分の部屋に向かい、鍵を差し込んで一人暮らしの部屋に帰宅する。明日は1限から講義があるのでアラームをかけなければ、ネギが安かったので今日の夕飯はネギ尽くしだ——そんな取り止めのないことを考えながら靴を脱ぎ、ナップザックを降ろしてコートをハンガーにかけた。当たり障りのない、いつもの日常である。
その日の晩、佐野悠斗は謎の魔法陣により異世界へ連れ去られた。