黒い狼5 ―斐伊川クラウス=ギードより—
1月。年末のシークレットシリーズ行方不明事件は、破壊された発信機を辿って向かった先、厚木基地付近の雑居ビルで「迷子」として保護されているところを連れて帰った。今後カードー妙見さんとその信奉者たちの使う脅しのネターとして使うための一部始終の撮影の方が時間がかかったが、非番だというのに今日も俺はなんだか仕事をしてしまった気がする。
年明けとともに防衛省内では海蜂の調査計画が動き出しているとのことを、公式発表より少しばかり早く俺は仲間から聞いていた。これまで俺は、「国の仕事に携わること」に、彼女が良い印象を抱くよう誘導してきた。これからは、牧園さんと妙見さんと引き合わせ、4月から発足する対策委員会への参加を、彼女に3月までにうんと言わせなくてならない。非常勤でかまわないとのことだった。そもそも講師の仕事が内定している以上、そちらを無理に取上げるのは計画を破綻させ得るし、彼女に一生職を与えられる保証もないのだ。2月中に、妙見さんと一度会わせなくてはならない。
2月。
「あの、俺がお世話になってる方なんですが、海蜂について知りたいとのことでご紹介させてくれませんか?」
「バレンタインデーだから」という理由でくれたチョコレートケーキをお茶請けに、彼女との雑談を楽しんで見せる昼下がり。バレンタインデーに、女性から、男である俺へのチョコレート。とはいえ全くもって他意はないようだ。そもそも、前に彼女の同性の恋人が、博論提出前の修羅場の時期に洗濯物を届けに来たのに会ったことがあるし、このケーキ自体彼女とよく行く店のものだという。期待する方が馬鹿だ。俺はさりげない調子で、計画の骨子を実行した。
「斐伊川くんのお世話になってる方?あ、そうか、いろいろ助けてくれた遠縁のおじ様がいらっしゃるのよね」
孤児である、ということに彼女は触れなかった。
「はい。院に受かったという話をしたら、一度あってみたいといわれて。ほんと申し訳ないんですけど、一度会ってもらってもいいですかね」
「いいわよー。博論出し終わっちゃうと、あんまりやることもなくて。毎日論文講読ばっかしてるから。研究のことを知りたいって言ってくれる人がいるのは嬉しいわ。あ、あと一応春からの講義の準備。まあでも、そんなに焦ることもないのよね、博論を学部の子たちに、さわりだけわかりやすく説明する講義だし」
あっさりと約束を取り付けられた俺は、
「ありがとうございます。喜ぶと思います」
と礼を言って、妙見さんのもとに報告にむかった。
顔合わせの約束を取り付けたあと、4月から害獣駆除にまつわる自衛隊の災害派遣にまつわる法律―妙見さんがここ数年、懸命になって打ち立てた法律の正式名称、通称害獣駆除法―に基づき、防衛省内の一組織として発足する対策委員会へ、牧園さんを非常勤でもいいから参加させるようにとの新たな、というか具体的で切迫した指令を受けた俺は、二人を会わせる店のセッティングをしていた。
場所は都内、静かで、ゆっくりできる店。あまり店員が多くない店。いくつか候補をしぼり、妙見さんに「大学院の先輩から海蜂の話を聴く予定ですが、どの店がいいですか」とメールを送る。俺と妙見さんの関係性は、特に隠してはいない。孤児の俺を陰に日向に支えてくれる恩人、それだけだ。このメールだって、見られてもなんの問題もない。任務に関する人に聞かれては困ることは、屋敷まで行って話すのだから。
数時間して、店を指定するメールが帰ってくると、俺は牧園さんに当日の待ち合わせ場所、店名を送った。牧園さんは
「お店を決めてくれてありがとう。こんなすごいとこに行くのね。妙見さんって、調べさせてもらったけどもしかして統合幕僚長の妙見國仁さん?お偉い方なのね。お会いするの、とっても緊張するわ。当日はよろしくね」
と返信してきた。牧園さん、緊張しすぎてやらかさないと良いけど。
日曜日。俺は、大学のある駅前で牧園さんと待ち合わせていた。それから、とある料亭で妙見さんと引き合わせることになっている。任務とはいえ、俺は今日はただの紹介役だ。彼女を店まで連れていき、紹介して、高い日本料理をおごってもらう、はっきりいって役得というやつだ。
「あ、いたいた!どういう恰好をしてくればいいのかわからなくて・・・。変じゃないかしら」
改札をくぐり、俺を見つけた牧園さんは、緊張した様子で微笑んだ。上品な紺のワンピースに、ベージュの革のトートバッグという風体だった。トートバッグの中身は、海蜂に関する研究資料だろう。
「大丈夫ですよ、行きましょう」
一瞬だけ、デートのようだなと思った。駅前を流すタクシーを呼び留め、海辺の街までと伝えた。走り出す車の中、そんな浮ついた発想は駅に置き去りにすることにした。
目的地までは、20分ほどで着いた。
「猫ちゃんね、近くの動物愛護センターに行ったんだけど一人暮らしだからって断られちゃった」
だの、
「料亭って靴は脱ぐのよね」
だとか、
「正座しないとだめなのかしら」
だのと聞いてくる牧園さんに、適度に「それは大変でしたね」「タイツ履いてますよね、大丈夫ですよ」だとか、「妙見さん膝が悪いので、椅子にしときました」と返しているうちに到着した。
仲居さんに案内され、部屋に入る。妙見さんは、まだ着いていなかった。荷物を置き、下座に置かれた二つの椅子に座る。落ち着かなげに床の間の軸を読もうとしたり(草書だったので、わからなかったらしい)、お品書きを眺めている牧園さんを眺めているのは正直、ちょっとおもしろかった。
しばらくして、さっきの仲居さんに襖の向こうから声を掛けられ、妙見さんが入ってきた。
「すまない、待たせたね。その方が牧園常葉博士かな。斐伊川くんがお世話になっております。はじめまして、妙見國仁です。」
牧園さんはちらっと俺を自信なさげに見てから、立ち上がって妙見さんに挨拶した。
「斐伊川くんからお噂はかねがね聞いております、妙見、さん。△△大学院ドクターコース3年の牧園常葉と申します。恐縮ですが、私まだ博士号をいただいておりませんので、博士はやめていただければ」
統幕長、と呼ぶかどうかで少し戸惑ってから、結局こう呼ぶことにしたようだ。今日は仕事ではなく、個人的な興味のために時間を作ってもらったということなのだから、ということだろう。
「ああ、申し訳ない。斐伊川くんから、入学したら牧園先生に教わると聞いていたので、てっきり・・・。今日はお忙しいところ、時間をとってくださりありがとうございます」
「いえいえこちらこそ。統合幕僚長とお会いする、と斐伊川さんから聞いてから、正直雲の上の方とお会いするので緊張しております。ですが、研究に興味を持っていただけるのはとても嬉しいです」
料理が運ばれてきた。いちいち牧園さんは「きれい!」だの「おいしい!」だのはしゃいでは、ちょっと恥ずかしそうにしていた。とはいえ、研究の話が始まると、難しい内容をわかりやすく丁寧に説明する牧園さんをみて、やはり相当賢い人なのだなと思わざるを得なかった。
「つまり、海蜂は、もともと存在した深海生物の一種が、突然変異を起こし狂暴化したものである、と。」
「現時点では、それが一番確実な可能性である、ということではありますが。深海は現在人類が探索できている地域が2パーセントとほとんど人類にとって未踏の地です。現在私たちが見ている海蜂は解剖したところ生殖器がなく、恐らく社会性動物―有名なところでは蜂や蟻のように防衛や餌集めをする個体と繁殖を担う個体でわかれており、私たちがみているのは前者―つまり本来の生息地である深海に女王蜂のいる巣があるのではないかと考えられます。」
そこまで言って、牧園さんは俺たちの理解を試す様に言葉を切った。
「蟻・・・か。兵隊蟻というのもいるらしいが、オオエビステッポウエビは兵隊どころか軍艦のようだね」
「ええ。生物でありながら、なぜ軍艦のような挙動をするのか、なぜ人を積極的に襲うのか、なによりなぜ深海と海面という大きく環境の違う場で活動可能なのかという点はいまだ未解明です。私たち研究チームはその性質からこの生物を『海蜂』と呼んでいます。発見当初からけっこう多くの方が、この名称を使ってくださっています」
「なるほどねえ・・・。確か、君の先輩は、海蜂を軍艦の怨霊であると主張しているそうだね」
牧園さんの顔が引きつった。俺は馬喰さんとも話したし、その話を妙見さんにしたはずだと思っていたが、やらかしただろうか。
「・・・あーーー・・・あれは・・・あまり・・・科学的でないと言いますか・・・その・・・」
目を泳がせ、声がだんだん小さくなっていく。違った、単に変人の兄弟子を扱いかねているだけらしい。
「牧園先生」
妙見さんは、牧園さんに改まって向かい合うと、頭を下げた。
「あなたをだますような形でお呼び立てしてしまったことをまず、謝りたい」
「・・・と、言いますと」
牧園さんは驚いたようだったが、事情を知ることを優先した。
「私は統合幕僚長として、あなたに教えを乞いたいと思っているのです」
思ったよりも妙見さんがストレートに言ったことにびっくりしつつ
「え、ちょっと妙見さん!」
と声をかける。全く不自然ではない、はずだ。俺の半年間はいったい何だったんだ。
「・・・『海蜂』の影響は現状では不運で片づけられるものとされています。しかし、私にはこの生物が、未来に大きく爪痕を残すように思われてならないのです。この国で自由に海に出られなくなれば―海運に関わる企業の倒産、輸入品の高騰、輸出産業の停滞―国民生活に直結する問題だ。あなたのような研究者のアドバイスなしに、私たちはもう、正直対処のしようがなくなるでしょう」
「・・・それは、このように個人的に来ていただいてお伝えするわけにはいかないのですか」
「私一人が、あなたの教えを受けたとして、多勢に無勢なのですよ・・・。我々には狩猟免許をもった民間人ではなく、専門家の助けが必要なのです。正式にアドバイザーとしていらして下されば、ライフル一つを頼みに立ち向かう民間人の犠牲を減らすことができる。どうか、お願いできませんか。」
牧園さんは、優しい人だ。自分の行動で誰かを助けられると聞けば、乗るだろう。
「それは、ありがたいお話ではありますが、私は来年から××大の講師として着任することが決まっています。それを断ることは恩師の顔に泥を塗ることになってしまいますので、このお話は」
牧園さんを遮り、妙見さんが畳みかける。
「専属で統幕に来てほしいとは言いません、4月から、先生の研究のことをお時間のあるときに講義してくださるだけでいいのです」
しばらく逡巡する牧園さん。俺の誘導は、効いていたはずだが。
「・・・わかりました。」
「ありがとう!」
妙見さんは、椅子を弾き飛ばす勢いで立ち上がり、彼女の手を握った。
「あ、いや、すみませんね。女性の手を握るなど。あとで斐伊川から、詳細に関する書類を届けさせます。本当に、ありがとうございます。先生は救国の女神だ」