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笹竜胆の王   作者: 笹竜胆
第一部 収容所と呼ばれた部隊
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とある朝2-牧園常葉より-

ちょっと伸びました

 月曜日。明乃ちゃんは朝から仕事に向かい、私は家事を片づけてから大学に向かった。昨日のうちに準備しておいてよかったわ、スムーズに実験を始められそう。


「馬喰先輩、私はあなたのクレーンじゃないです」


いつも通りちょうどいいものがあった、とばかりに試料の入った試験管を私で運ぼうとするこの研究室の助手であり、一学年上の馬喰先輩に注意する。


「O-229は培養できましたか。呪いを実験室で再現したいので、できあがったら分けてください。2個体以上から培養できると尚いいのですが」


こちらもいつも通り頑として腕を動かさない私を見てあきらめたようで、自分で席を立って遠心分離機に試料をかけ終わると、馬喰先輩はこっちを見て聞いてきた。『呪い』―海蜂同士の戦いで傷ついた個体は、その回復能力を発揮できずふつうに衰弱死する現象について、立証することを馬喰先輩はまだ諦めていないらしい。『呪い』っていう言い方が悪いんじゃないだろうか。


「今のところできたのは海蜂の細胞液内だけですね・・・生食でもダメ、寒天でもダメ・・・何か細胞液内に特殊な物質でもあるんですかねえ。必要な分量は」


返事は期待していないけれど、顔を上げると先輩は自分の用事が終えるとドアを開けて出ていこうとするところだった。うん、まあ、いいのだけれど。また言ってきたときに渡せばいいわ。せっせと細胞を染め抜いていく。染めもの屋さんになった気分だ。


「あ、牧園先輩。5限の発表のことなんですけど」


必要な量を染め終わったから、ちょっと休憩しても許されるだろう。ちょっとオレンジ色になった手で紅茶を淹れる。実験を終えてデスクで一人、ティータイムを楽しんでいると、修士2年、4学年下の男の子が声をかけてきた。下の子たちの面倒を見るのも上級生、特に博士課程の学生の義務でもあるのだけれど・・・うわすごいクマできてる、大変だったのね。


「どうしたの」


「発表スライドの入ったUSB無くしちゃいましたあ・・・、助けてくださいいぃ・・・」


「えーー!!!って、元データパソコンにあるでしょ、落ち着きなさい」


「それが昨日寝ぼけててUSBの方にしか保存してなくて・・・半分も仕上がってなかったんです。すいませんバックアップ取ってると思ってたんで余裕こいてたらこの時間に・・・」


うわあ大変。早く帰ってしっかり料理でもしようかと思ってたけど、無理そうね。というか5限の発表って、もうあと2時間ないじゃない。


「USB、ホントに心当たりないの?おうちとか、電車とか」


「・・・電車で財布掏られたんす、ここ来るときに。で、大事なものだからクレカとかといっしょに財布に入れとこっかなーって朝、思ったような・・・」


それは、無くしたとはいわない。


「牛田くん、それは無くしたじゃなくて盗られたっていうのよ!今すぐ生協行ってカード止めてきなさい!あと帰りに警察に被害届!」


「はいい!」




30分後。大学生協でカードの停止手続きを取ってきた牛田くんとともに、昨日のスライドの復元作業を進めることになった。


「えーと、じゃ、この海底の写真のとこまではできてるのよね」


「あ、はい。紀伊半島沖南1200キロ海域での食害を調査してきたんで、その事例報告ですね。あとこのグラフと・・・あ、このグラフタイトル入ってないじゃん、やっべ」

ちょこちょこ修正を入れつつ、一応印刷しておいたらしい地図を向こうのプリンターでスキャンしてきて、それを載せることにしたらしい。


「ちょっと黒くなっちゃったっす」


「そうね。あ、この写真せっかくだからタイトルページに入れたら?」


「あ、はい!・・・ほんときれいな海が台無しっす。自然のままにっていうけど、こいつ自然の破壊者っすよ。鹿とおんなじです」


牛田くんのスライドには、海蜂がめちゃくちゃに食い荒らした海底の写真が載っていた。増えすぎた海蜂が土壌を掘り返して土壌中のミネラルを漁ったり、魚を獲るために特殊な方法で海水にプラズマ波を発生させて魚を死滅させたり、液状爆薬をまき散らしたりとやりたい放題してくれたらしいこの海域の群れのおかげで、数十年はこのあたりは海藻も生えない海になるのだろう。悲しいことだ。


「鹿は人を襲わないしね、刺激しなければ」


それに、ジビエはおいしいし。


「そうっすね。あーあと、最後にこの地図載せて・・・できました!ありがとうございます」

保存をかけて、メールサーバーとUSBの二か所にもバックアップをとったのを見届けて、私もほっと息をついた。・・・あれ、海蜂のいる海域で調査していたのよね。危なくないのかしら。


「間に合ってよかったわね。ねえ、ちょっと気になるんだけど、安全確保はどうしてたの?調査の間」


「あー・・・、ここオーストラリアとかにいく貨物船の航路なんで、海上保安庁が追い払った海域なんすよ。この調査も秋園先生経由だったんで、『じゃあそこで調査したら』っておっしゃってました。あ、牧園先輩死体欲しかったんすか?」


「まあね。でも海蜂一匹殺すのにどれだけ大変か考えたらね・・・なら自分でやって来いって話でしょう。それに博論に載せるには今から解剖してる時間はもうないわよ。今の検体で手一杯」


「まあ、そうですけど。・・・馬喰さんの飛行機に爆弾でもつけたらいけますかね。底がぱかって開いて、でこう、どかーんって」


牛田くんのいうような古典的な爆撃機って、もう現代にはないと思うのだけれど。それに、放水とか爆竹じゃなくて、爆弾が使えたらさくさく駆除できるのだけれど、それは法律の壁に阻まれている。それに月の半分くらいは自家用機で海蜂を追いかけているクレーン先輩は、きっと他人の研究の手助けなんてしてくれないでしょうね。


「そうできたらいいんだけどね。じゃ、私帰るわ」


「はい!ありがとうございました」




「あれ秋園先生―!」


今日のお昼はちょっと贅沢して学内のカフェで食べることにしたのだけれど、そうしたら雨に降られた。ついてないわ。まだ降ってるどころか、だんだんひどくなりそう。やっとのことで戻ってくると、研究室の前で学生さんが困っていた。


「秋園先生なら今日農水省の会議でご不在だけど。どうしたの?」


「今日卒論のアドバイスをしていただく予定だったんですけど・・・えーどうしよう、明後日発表なのに」


文献を抱えたメガネの女の子は、眉を寄せて言った。卒論ということは学部4年生でしょうけれど、知らない子だからうちの学科じゃないのかしら。


「海洋生物学科の子じゃないわよね?あーもしかして先生、日付間違えて伝えちゃったのかしら」

学科の学生さんには休講理由の書かれたメールで連絡が行ってるはず。困ったわね。


「私ここのラボの院生なんだけど、先生にメールしてみるわ、明日とかに時間取ってくださるかも。連絡先だけ聞いていいかしら、学校のアドレスでいいから」


「あ、はい!ありがとうございます!」


そういって女の子が出ていくと同時に、2か月前に研究室にやってきた学部4年生の男の子が私を見つけて声をかけた。


「牧園先輩、横田研の猫ちゃんのお迎え行きますよ。下で車回しときますから鍵ください」


「そうだったわね。早く良くなってほしいわ」 


 鍵を渡すと、男の子は駐車場まで走って行ってくれた。猫ちゃんを預かるキャリーを横田研のスタッフさんから受け取って、3階分の階段を降りると、すでにさっきの男の子が車を回してくれていた。卒業した先輩からもらった10年選手のボロい型落ちのプジョーだ。次の車検にはきっと通らないわね。乗り込んで国道に出ると、後輩はぐちった。


「じゃ、行きますよ~。でも横田研の子がこういうことってやるべきですよね、なんで俺たちが」


「まあいいじゃない、秋園研でセラピーキャットやってくれてるんだし助け合いよ」


隣の研究室で動物心理の研究のために飼われている動物たちの一匹であるかわいい三毛猫は、昨日から猫風邪で獣医学部の先生に預かってもらっていた。無駄に広い構内で猫を抱えて―しかもこの雨の中―歩くのは嫌なので、こうして車で向かっている。猫も雨の中抱えられて歩くのは嫌だろう。一応、忘れないうちにさっきのメールを送ってしまうことにした。


『獣医学部』と書かれた門柱附近に車を停めて、築100年近いコンクリの建物に入る。土曜日ということで病院はやっていないから、裏口から入ることになる。アポイントの14時ぴったりだ。


「津村先生―!秋園研の牧園ですー!チョコちゃんのお迎えに上がりました」


 「ああ牧園さんこっちまでご苦労様。チョコちゃん点滴したらすっかり元気になっちゃったわ、びっくりよ」


「それはよかったです」


「牧園さんもそんなに猫好きなら飼えばいいのにー。けっこう里親募集してるのよ、見ていかない?」


「ありがたいのですが、就職してからにしようと思います。一応親がかりの身ですので」


 親がかりといっても、15歳の春、父親から中学の卒業式の翌日に4000万円の入った通帳を渡されて親とはそれっきりだけれど。母親はこの間夢に出てきたように、12歳の梅雨時にあぜ道に置き去りにされて以降会っていない。二人とも今どこでどうしていることやら。大学に入るまではそれを計画的に使い、学生時代からは投資に多少の額を割り振って配当を得られるようになったおかげで経済的には今のところ苦労をしたことはない。


「まあそうだよねえ。牧園さんの親御さんも大したものよねえ。ご両親に感謝しないとだめよ」


そうですね、と適当に返す。この人には私の家庭事情など知ったことではないのだし。


「牧園先輩はー、次々に新発見してる天才なんですよ?『牧園あるところに海蜂あり』って。あの自己修復能力のモトになってるとかいう『O-229』の発見も牧園先輩ですしー、でしょ、あと『NSEA(Nitro-secretion-of-Ebisu-ingens Alpheus brevicristatus エビスオオテッポエビ分泌性ニトロ)』のこともそうですし、あと海蜂料理も」


「海蜂料理ぃ?」


前二つはまだしも、そんなものを発明した覚えはないのだけれど。


「え、馬喰先生が『牧園は昔海蜂を刺身にしてかぼす醤油でうまいうまいと食べていた』って」


「馬喰先輩――!」

 びっくりした。あの人が私の行動に興味を持っているなんてというのが一つ、その話を後輩たちとしていたということがもう一つ。全く他者への関心などないのだとばかり思っていたのに。


「え、それ本当に馬喰先輩?」


「そうですよ?あの人普段すごい無愛想で全然指導もしてくれないのに、その時はすごい楽しそうに話してきたんでつい実験の手止めちゃって。」


 周囲の状況はまったく読めていないようだけど、それでも自分から人と話そうとしたなんて。


「うにゃ!」


 カゴの中に入った三毛猫が「いつまでしゃべってるんだ」とばかりに不満げに鳴いた。


「はいはい、ごめんなさいね。津村先生、ありがとうございました」


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