記憶喪失と過保護な夫
全八話の予定です。
よろしければ、お付き合いください。
うう。
頭痛い。
がんがんして、物凄く痛い。
割れるように痛い。
もう、人生初ってくらい、とにかく痛い。
これは、戒められる孫悟空もかくや、だわ。
「エミィ!?エミリア!気が付いたのか!?」
目を閉じたままそんなことをつらつら思っていたら、すぐ傍で男のひとの声がした。
エミリア、って誰?
というか、私って誰?
でも、何だか懐かしい。
その名前の響きも、この声も。
誰か、なんて判らないのに。
自分のなかに堪らない違和感を覚えつつ重い瞼を開けば、超絶男前が触れ合いそうなほどすぐ近くで覗き込んでいて、思わず悲鳴をあげそうになる。
「ああ!エミィ、僕の命。よかった。本当によかった・・・バート!エミィが目覚めた!医師を早く!」
「あ・・の・・こほっ」
状況が全く分からず、ともかく何が起こっているのか聞こうと思えば、喉に引き攣れるような痛みが奔った。
「エミィ、無理はするな。ほら、水だ。飲めるか?ん?」
すると、超絶男前な彼は即座に優しく私を支え、何か柑橘の香りがする美味しい水を飲ませてくれる。
それは、更に感動を呼ぶほどに丁寧な心の籠った動作で、私は痛む頭と同じくらいの強さで感激した。
凄い。
超絶男前なのは顔だけじゃなくて、中身も、なんて。
「ありがとう・・ございます。ところで、あの。こちらは?貴方はどちら様でしょうか?」
「どちら様、って・・・っ!エミィ!?僕が判らないのか!?」
とにかく頭が痛いので、失礼とは思いつつも横にならせてくれたことに感謝しつつ言えば、超絶男前な彼が驚愕に目を見開いた。
「エミィ、調子はどう?」
目覚めてから三日。
その間に、超絶男前な彼が私の夫であることとか、超絶男前な彼がこの国、アールクヴィスト王国のアールグレーン公爵であることとかを教えてもらった。
私はといえば、あれほど酷かった頭痛も収まり、身体のふらつきは未だあるものの、体調が戻りつつあるのを実感している。
そんななか、アールグレーン公爵閣下・・・じゃなかったフレデリク様は、一日に何度も私を心配して訪れてくれる。
それはもう過保護の域では、と思うほど私のことを気遣ってくれ、私が望むことは何でも叶えてくれるほど、なのだけれど、ただひとつ。
私が公爵閣下と呼ぶことには難色、というより激しい拒絶を示し、名前で必ず呼ぶように、と念を押された。
なので、私が躊躇しつつも、フレデリク様、と呼ぶと。
『フレデリク様、か。まあ、仕方が無いか』
と、お寂しそうな笑みを浮かべられたので、記憶を失くす前の私はもっと違う呼び方をしていたらしい、と見当を付けるも、今の私に呼ばれたくはないかも、とも思いそれ以上は深く追求していない。
初日に、記憶にあるのは、日本という国にいたこと、そこの言葉やお話は幾つか覚えているけれど、名前や年齢など自分のことは何も分からない、と言った私に、フレデリク様は優しくこの国での私のことを教えてもくれた。
それによれば、私はエミリアという名で、生まれた時から正真正銘この国の人間であり、フレデリク様は私の従兄で幼なじみでもある、らしい。
赤ん坊の頃から知っているんだから間違いないよ、と笑ったフレデリク様はとても格好良くて、私は思わず顔が熱くなるのを感じて俯いてしまった。
「エミィ?どうかした?気分でも悪くなった?」
「ああ、いえ。フレデリク様は今日も格好いいなあ、と思いまし・・・すみませんっ」
そんなことを思い出していたせいで、私に近寄り心配そうな瞳で私を見つめるフレデリク様にするっと言ってしまってから、私は思い切り顔が熱くなるのを感じる。
「エミィこそ、今日も可愛いよ」
気障にも嫌味にもならず、そんな甘い言葉を自然に音に出来るフレデリク様は本当に格好いい、などと見惚れていたら、その顔が極限まで近づいて、頬に優しく唇が触れた。
「っ」
「嫌だった?」
目覚めて初めてのことに、私がぴくりと驚けば、フレデリク様が哀しい瞳になる。
「い、嫌ではありません、でした。ただ、驚いて」
本当にそれだけなので正直に言えば、フレデリク様が嬉しそうに笑って私の頬を撫でた。
私を気遣ってか、余り触れないようにしてくださる、手の甲側を使ったその仕草も優雅で優しくて、フレデリク様が本当に私を大切にしてくださっているのだ、と、そのあたたかさに実感する。
「僕にとっては日常でも、今のエミィには受け入れ難い事もあると思うから。その時は、きちんと伝えて欲しい」
「はい。ありがとうございます。あ、あの。今日のご本はそれですか?」
フレデリク様と居ると、記憶の無い不安も忘れるほど穏やかで優しい気持ちになれる反面、落ち着かない気持ちになるのも事実で、誤魔化すようにそわそわとフレデリク様が持って来てくださった本を見て言えば、優しい笑みが返る。
「ああ。約束していた、建国の英雄譚だよ。でも、本当にこれでいいのかい?」
「はい。とても楽しみです」
今の私に、この国の記憶は何も無い。
何度も読み返すほどに好きだった、という建国史はおろか、この国の言語を書くことも読むことも出来ない。
記憶にあるのは、日本で読み聞きしたお話とその言語だけ。
なので私は、何故か会話することだけは出来るこの国の言語で、フレデリク様に日本のお話をたくさんした。
いつも、この国での暮らし方を教えてくれるフレデリク様にお礼がしたいと思っていた私にフレデリク様が願ってくださったのだから、と、それはもう、張り切って。
フレデリク様は、どのお話も興味深く聞いてくださったけれど、かぐや姫を語った時は、私の手を握りしめて『エミィを、日本という月に帰しはしないからね』と、強く宣言された。
その瞳は『いえ、日本という月はありません』などという軽い返答を許さないくらい強くて、フレデリク様にこれほど愛されているエミリアが、自分なのに羨ましくなる、という複雑な体験をすることになった。
尤も、記憶が定かでない私は、そもそも日本が本当に月じゃないのかどうかも正確には判らないのだけれど。
日本って、月じゃない、わよね?
だったら、帰る、って言わないもの、ね?
「じゃあ、読むよ」
本を読んでくださるとき、フレデリク様はいつも私を膝に乗せ、本が良く見えるようにして読んでいる場所に指を添わせ、私も文字を追えるようにゆっくり発音してくださる。
今も、その体勢を整えたフレデリク様が、良く通る声で建国の英雄達を語り始めた。
その臨場感ある読み方に、私は直ぐ物語に夢中になってしまう。
冒険あり、陰謀有りのその世界に、自分も生きているかのように、私はフレデリク様の声を聞き、懸命に文字を追った。
物語を聞き始めると、あっというまに夢中になってしまう私だけれど、最初からこの状況をまったく気にしなかった訳ではない。
まず、フレデリク様の方が私よりずっと大きいとはいえ、成人女性を膝に乗せ続けるというのはかなり大変だと思うし、幼児相手に読むように建国史を紐解くというのも面倒なことだろうと思うのに、フレデリク様は、この役を他の誰かに任せようとしない。
けれどフレデリク様は公爵という地位にあって、広大な領地の領主であるうえ、王城でも役目を担っていると聞いて、私はとても心配になった。
なので、もう体調は大分いいので、私のことはほどほどで、と伝えたのに、フレデリク様はおろか、周りの皆さんも微笑ましく見守るばかり。
『フレデリク様とエミリア様は、ご幼少の頃より相思相愛でございましたから、エミリア様が体調を崩されている今、フレデリク様は出来る限りお傍にいらっしゃりたいのでしょう。存分に甘えてしまいなさいませ』
嫁いで来る前から私付きの侍女をしているというアデラに相談すれば、そう茶化すように言われ。
『フレデリク様を思いやられるそのお心。エミリア様は、ご記憶を失くされてもエミリア様なのですね。大丈夫でございます。フレデリク様は、お仕事を蔑ろにされている訳ではありませんから』
家令であるバートに言えば、そう胸を叩いて、補助はお任せください、と力強く頷かれてしまった。
「フレデリク様。お疲れではありませんか?お仕事がお忙しいのに、私のことまで」
本を読んでいる途中、喉を潤すためにお茶を飲まれるフレデリク様に問えば、その眦がふにゃりと下がる。
「全然。エミィとこうして過ごす時間は、僕にとってなくてはならない癒しの時間だよ」
「ですが、私がしていた分のお仕事もされていると聞きました。それが、申し訳なくて」
記憶を失う前、公爵夫人として、領地での役割も、貴族としての付き合いも、家のことはきちんと熟していた、という私だが、今の私にそのようなことの出来る筈も無く。
誰もそこには触れないけれど、それらの仕事はすべてフレデリク様の負担になっているのだと思うと、私はとても居たたまれない。
「エミィ。僕はね、君に改めて感謝したんだ。領地や領民、それに家のなかのことを、君は本当に立派に熟してくれていた。そのことを、僕は本当には知らずにいたんだ。今回のことでそれを知れて、それだけは良かったと思っているよ」
それなのに、真っ直ぐに私の目を見て紡がれる言葉は何処までも優しくて、涙が出そうになる。
「フレデリク様」
きゅ、と唇を結んで名を呼べば、フレデリク様の手が、ぽんぽん、と優しく私の頭に触れた。
「だからね、エミィ。今は、これまで頑張った分のご褒美だと思って、ゆっくり休養するといいよ」
「なんだかもどかしいです。文字も、読めなくなってしまって」
情けなさに溜息を吐けば、フレデリク様の腕が、ふんわりと私の身体を包んだ。
「記憶を失くしても、エミィはエミィだよ。それに、今のエミィは日本語が書けるじゃないか」
「この国では、まるで暗号のようですよね」
そこに意味はあるのか、と遠い目をする私と裏腹に、フレデリク様は瞳を輝かせる。
「いいじゃないか。僕とエミィだけで通じる言語なんて、素敵以外のなにものでもない。出来るだけ早く、僕も覚えるからね」
本当に嬉しそうにそう言って、フレデリク様が私の頬に唇を寄せ、そのまま耳へと唇をずらすのを感じ、私は焦って本の一ページを指さした。
「わ、私、この騎士様が特に好きです!」
「ん?・・・・ああ」
その挿絵を見たフレデリク様が、目に見えて不機嫌になる。
「あの・・・?」
初めて見るほどに不機嫌な様子に、心底心配になった私が下から覗き込むように見つめると、フレデリク様は、面白くなさそうな瞳のまま、私の髪を撫でた。
「記憶を失う前のエミィも、この騎士がお気に入りだった。子どもの頃から、ずっと」
ぶすっ、として言うフレデリク様は幼い子どものようで、私は思わず指でその頬にそっと触れてしまう。
「私は、本当にずっとフレデリク様が好きだったのですね。だって、この騎士様、フレデリク様に似ていますもの」
子どもの頃から相思相愛だったというフレデリク様と私。
そして今、私は記憶を失う前の私が、確かにフレデリク様を慕っていた、という確信を得て嬉しくなる。
心の底から湧き上がるそれは、記憶よりもっと深い、本能のようなものだったけれど。
「俺に、似ている?この騎士が?そんな話は聞いたことも無い。今のエミィは、そう思うの?」
フレデリク様は、驚いたように私を見ている。
「ええ、似ていると思います。それに、記憶を失う前の私もそう思っていた、という妙な自信もあります。うまく説明できませんけれど」
「そうか。なんだ、そうなのか」
ぐりぐりと私の頭にご自分の頭を擦りつけるフレデリク様は、本当に安堵したようにその言葉を繰り返す。
「フレデリク様。私、早く思い出したいです」
早く記憶を取り戻して、昔からこの騎士様がフレデリク様に似ていると思っていたからお気に入りなのだ、と、ちゃんと伝えたい。
染み入るように心地よいフレデリク様のぬくもりを感じながら、私は強くそう思った。
読んでくださってありがとうございます。