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マユコの香り

作者: MASANA



(一)

 



 ヂーヂーと五月蝿(うるさ)い蝉の声にベッドの中で目を覚ますと、マユコは長かった今年の梅雨のことをふと思い出した。


 それは六月の声が聞こえ始めると、さも待ちかねたようにじめじめと雨をふらせ、連日、部屋の窓を斜に叩いては、消沈な朝を連れて来た。


「日にも日にも、鬱陶(うっとう)しい」と、寝ぼけ(まなこ)をごしごしやっていたのが、いつの間にやら「日にも日にも、喧しい」と、大あくびに漏らすようになって、気が付いた時には、夏はもうすっかり始まっていた。


 そんないよいよ明日から夏休みという蒸し暑い部屋の中で、マユコは何やら(うめ)き声を上げると、じとつく(おでこ)を枕にギュッと押し付けた後、勢いを付け、ごろっと仰向けに身体を返した。


 それから、今度は幾らか少女らしい声で「うーん」と、漏らしながら大きく伸びをする。すると不意に旋毛(つむじ)の辺りで何かが手に触った。


「はて?」と、マユコはしょぼしょぼ瞼をやりながら、指の甲で軽く叩いてみると、ヂーヂー蝉しぐれの間隙(かんげき)を縫ってトンと小さな音がする。


「これは……」と、醒めない頭をマユコがあれこれ巡らせてみると、昨夜ベッドの中で読んでいた文庫本だと暫くして思い当たった。


 ✳︎ ✳︎ ✳︎


 長崎マユコは中学三年生、読書好きが高じて、最近ジャズに興味を持ち出した。それは大好きな作家さんの小説の中に、必ずと言っていいほどジャズが流れていたから……


 リーフ柄のレースのカーテン越しに、木漏れ日のような朝日を受けるベッドルーム、気怠い昼下がりの首都高速をドライブする車の中、カウンターの隅に氷の溶けたロックグラスがぽつんと置かれてある夜更けのバー、そのどれもが中学生には遠い世界のことだったが、マユコにはごくごくあたり前に経験する未来としてイメージすることが出来た。


 しかし、その空想の中には小説のようなジャズは一切流れて来なかったから、マユコは歯痒くて歯痒くて仕方がなかった。


 


(ニ)




 夏休みは当然、マユコにとっても嬉しいことだったが、だからといってマユコのすることに大きな変化があるわけではなく、小説の世界と現実の世界を行ったり来たりするだけで、ただその(小説の世界にいる)時間が増えるというだけだった。


 そして今日も、役立たずの扇風機に悪態を吐きながら、首筋を流れる汗を軽く指で弾くように拭うと、読みかけの文庫本のページを開く。


ーー空間?

 そこはまるで天上のような……

 およそ影を忘れた(まばゆ)い光だけが煙のように広がり、時折その中を純白の美しい羽がひらりひらりと舞っている。すべてが白い光のグラデーションで表現された世界。

 当然、どこからともなく聞こえて来るメロディ、優しいジャズの調べ……

 ゆっくりと跳ねるピアノーー


「優しいジャズの調べ、ゆっくりと跳ねるピアノ? 跳ねる…… んん?」と、マユコは眉を寄せる。もやもやとすっきりしない。

 

 そして「天上…… 天上……」と、呪文のように低く口から漏れると、視線は虚ろに手元から()()へと移動する。木目模様が滲む()()…… するとなぜか、マユコにはそれが、くるっと渦を巻いたトランペットに見えて来た。金ピカでかっこいい。


 そしてその次は、同じ金ピカだけど、もっとずっと大きくて、竜の落とし子みたいな形をしたアレ…… えーと、えーと、名前が出てこない…… また汗が首筋を伝う、更にイライラが募る…… マユコは意地でもジャズのことが知りたくなった。




(三)




 次の日、マユコは駅前のよく知った本屋にいた。開店と同時、まだBGMも流れていない店内に足音を響かせると、わき目も振らずミュージック・コーナーのところまでやって来る。


すると直ぐにチケット・トゥ ・ザ・ジャズ・パラダイスという本が目に留まった。マユコは、奪い取るような勢いでそれを掴むと、早速、パラパラと流し見を始める…… アルト…… テナー・サックス……

「そうだ、竜の落とし子、サックスだ!」と、モノクロのジャズメンの写真を見ながらマユコは呟く。そして…… またある箇所で強く指先が引っ掛かった。


『クレオパトラの夢』


 開いたページの見出しの文字にマユコの目は吸い寄せられた。それは以前、夢中で読んだシェイクスピアの戯曲を思い出させ、夢見る乙女の想像力を大いに掻き立てる…… 迷わずレジに向かう。


 途中、店内に音楽が流れていることにマユコは気が付いたが、それはやっぱりジャズではなかったので、溜め息がひとつこぼれたが、それでも気分は充分によかった。




(四)




 マユコは柔らかな長い髪をよくポニーテールに結んでいた。瞳の色はやや薄く、細いけれどはっきりとした三日月型の眉と合って美しかった。


 すっと通った鼻筋と口元は、如才ない優等生のような知的さがあったが、見様によっては少し神経質そうにも映るようだった。


 身長は平均的、細身のシルエットが、それよりも高く見せている。そして、そんな中でも一番の特徴が、透き通るように美しいという比喩がぴったりな、白く若々しい肌だった。本人の好むと好まざるとにかかわらず、マユコの容姿は人目を惹いた。


 ✳︎ ✳︎ ✳︎


 そんなマユコだったが、パパとママからは幼い頃から「頑固なんだから……」と、事あるごとに言われて来た。


 マユコは始め、それがどういう意味か分からずに、自分のことをとても悪い、いけない子供だと思って、言われる度にところかまわず大声で泣きじゃくったりした。


 小学生くらいになると、流石に意味は理解できたが、やっぱり悔しくて、涙がこぼれ落ちそうになった。しかし、もう道端に座り込んで泣いたりするのは無理なので、代わりに何日も家の中で口を利かないというマユコなりの精一杯の抵抗を示すのだった。


 原因はいつもマユコの突然の宣言にあって、そのほとんどが可愛らしい誇大妄想的なものばかりだったが、なかには唖然とするような発言もあり、大いにパパとママを慌てさせた。


 一度こうと決めたら、熱が冷めるまで周りが見えなくなるマユコが心配で、口出しすると、マユコはますます固執するのだった。


 中学に入ると、運動部と文化部に幾つか籍を置いたマユコだが、どれも長続きすることがなく、唯一興味を持ち続けているのが本を読むことだった。




(五)




 本屋を出ると、先月の十五歳の誕生日に買ってもらった、真新しい青い自転車に乗り、ペダルを力いっぱい漕ぎ出す。


 照りつける太陽は真上から容赦がなく、マユコの卵のような頬から顎にかけての曲線に沿って汗が伝う。


 家に着くと、ほぼ同時に近所の繊維工場から正午を知らせるサイレンの音が鳴り響いた。マユコは玄関に靴を脱ぎ飛ばしキッチンへ向かう。


 そして、冷蔵庫から麦茶ポットを取り出すと、なみなみとコップへ注ぎ一気に飲み干した…… 冷たくて気持ちいい。


 と、ここでようやくホッと一息ついて、テーブルを見ると、昼食が用意されていたが、マユコの()()()はお腹の中へは向かわずに、そのまま二階の自分の部屋へと駆け昇って行く。


 部屋着に着替えるのももどかしく、マユコは「えい!」と、ベッドにうつ伏せに飛び込むと、早速、本を開いた。


ーークレオパトラの夢

 ジャズピアニスト、バド・パウエル作曲。1958年録音のアルバム『ザ・シーン・チェンジズ』収録。

 エキゾチックなテーマ・メロディを持つ、マイナーな色調に彩られた楽曲は、一聴して人を惹きつける不思議な魅力があり、多くのリスナーにとってーー


「ふーん、エキゾチック…… で、不思議な魅力ねぇ……」と、マユコは健気(けなげ)に瞳を輝かせる。まだ見ぬ異国の風景が頭の中にむくむくと広がる、ちょうど真夏の雲のように。

  昼食のことなどすっかり忘れさせて……




(六)




 マユコが住む小さな町に(唯一)ある、ちいさな小さなレコード・ショップには、ジャズと表示されている棚なり場所なりが存在しない。


 今回、バド・パウエルのアルバム『ザ・シーン・チェンジズ』を、お目当てにやって来て、マユコは初めて気が付いたのだが、ジャズのCDは、クラシックやイージーリスニング、そしてワールド・ミュージックや映画音楽と一緒くたにされて、店の奥まった場所に申し訳なさそうに存在している。


 そして、たまたま今日に限ってなのか、それとも平生(へいぜい)のことなのか、その掘り出し物コーナーと化した一角には、ダンボールの箱が高く積まれており、もはや商品としての陳列を完全に放棄していた。


 勿論、品揃えに関しては言うまでもなく、マユコは無駄足を運ぶこととなった。




(七)




 夏休みも終わりに近づいたある月曜日。この頃のすっきりとしないマユコの気分とは裏腹に、よく晴れたこの日は登校日になっていて、久しぶりに会う仲良しの女の子たちと、休み中にあった様々な出来事や、残りわずかな予定などをこもごも話し合った。


 マユコは気の合う仲間とお喋りするのも、もちろん好きだったけれど、それと同じくらい孤独に過ごす時間も好きだったので、自分から積極的に何かを勧めたり、遊びに誘ったりはしなかった。


 マユコには、社交的に振舞いながら社交性の高い人をさらりと敬遠するという一種の才能があった。


 そんなマユコなので「マユコ、休みの間、何してた?」と、聞かれた時も「私は何にも、ただ家で本読んだり、ゴロゴロしてただけ」と、その通りではあるのだけれど、一番の楽しみなんかを(今回に限らず)得意げに話したりはしなかった。


 ✳︎ ✳︎ ✳︎


「じゃあね、マユコ」

「うん、また明日ね」

 マユコが唯一、心を許せる友人の諏訪(すわ)ミウと別れて、自転車に向き直ると、ハンドルの先に赤とんぼが止まっていた。

「ミウ、ほら見て、赤とんぼ」と、マユコはすぐ振り返ったつもりだったが、その声が友人に届くことはなかった。仕方なく、また視線をハンドルに戻すと、赤とんぼはさっきと同じようにまだそこで羽を休めていた。


 もうすぐ新学期が始まる……

 中学最期の夏が終わる。


 あれほど賑やかだった蝉の声も一様に遠く聞こえ、陽が傾きかけた空には薄い雲ばかりが浮かんでいる。


 消え入りそうな夏の面影の中を飛んでいた赤とんぼが、一匹すっとこちらへやって来てハンドルに止まった。


 二匹は暫くの間、互いを(うかが)うように羽を震わせたり、身体を置き替えたりしていたが、やがて寄り添うように澄んだ空へと仲良く消えて行った。


 ミウは最近、夏来(なつき)という男の子の話しばかりする。今日は偶然見かけたとか、初めて挨拶をしたとか、それはそれは嬉しそうに……

 きっと恋をしているのだろう。


 マユコはふぅーっと深い息を吐くと、サドルに腰を落とした。いつもよりペダルが重く感じる。


 マユコの心境の変化は、何も秋空のせいばかりではなく、ミウのことや進学のこと、それにどうしても手に入れることが出来なかったジャズのCD…… そんなことが重なって、めずらしくマユコを滅入らせ、内相的にさせる。


 私の罪は? と、マユコは自問する。

 

 おそらくは周りへの配慮に欠けていたこと……


 自分の身の周りにあるものはすべて凡庸で魅力ないものと決め付け、ぞんざいに扱い、小説や物語の世界にあるものだけに価値を認め、敬意を払って来た。


 その報いが、その罰が、いま自身を襲う(わび)しさなのだと感じる。


 マユコはあふれる涙を抑えることが出来なかった。

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