相川さんの口紅 3
「おう、出勤お疲れさん」
「……うっす」
明るい声を上げる先輩に対して、俺はとんでもなく低い声を返した。
相手は困惑気味だったが、それでも許してほしい。
アレから数日が経ったが、その後口紅の女性には会えず現在に至る。
その為こちとらろくに寝てないのだ。
口紅の事を思えば眠れなくなるし、眠れば夢にあの光景が写し出される。
本当に勘弁して欲しい。
俺はあの時口紅を返したんじゃないのか?
嬉しそうに笑うあの人の顔も見た。
あれは全て夢だったのか?
もはや何が夢で、何が現実なのか分からなくなって来ている。
夢の中で、俺は何度もあの人の死に様を目の当たりにしているのだから。
「おいおいどうしたよ、調子悪そうじゃん」
そういってウザ絡みしてくる先輩が、俺の肩を掴んだ。
普段だったらどうとも思わないが、今だけはイラッと来る。
頼むから、今だけは放って置いてくれ。
「あ、そうそう。 俺らが使ってる電車なんだけどよ、こんな噂知ってる? “口紅の相川さん”。 これさぁ、聞いたら出るって言うか、聞いたら拾っちゃう……みたいな話なんだけど、聞きたい? ねぇ、聞きたい!?」
もはや聞けと言わんばかりの先輩が、生き生きと話しかけてくる。
色々と思う所満載の話題ではあったが……本当にうざい、こっちはもう被害にあってるんだ……などという訳にもいかず。
「へぇ……どんな話なんですか?」
「あ、聞きたい? 聞いちゃう? でも聞いちゃったら、来ちゃうかもしれんよ?」
だったらそもそも話題振るなよ、と言いたい所だが。
多分先輩が言っているのは、十中八九“口紅のあの子”の事なんだろう。
だったら少しでも情報が欲しい。
口紅を捜している理由は散々夢でみせてもらったが、何故口紅が返って来てしまったのか。
もしかしたらその答えが分かるかもしれない。
そして、この後俺がどうすればいいのかも。
「なんでも高校生の間で流行ってる話でさ、俺も現役JKから聞いたんだけど……ねぇねぇ羨ましい?」
「そういうのいいんで、話の続きを」
「連れねぇなぁ……」
ニヤニヤ笑顔の先輩にピシャリと一言でぶった切り、話の続きを促した。
やれやれと首を振る彼は、先程よりも少しだけ落ち着いた様子で“噂”を語って聞かせてくれた。
「何でもこの話を聞くと、とある駅に立ち寄った時に『A.A.A』って書かれた口紅を拾っちまうらしい。 しかも道に落ちてるとか、駅に落ちてるとかじゃなくて、いつの間にか“拾ってしまっている”って話なんだよ。 んで、怖いのがココからよ。 なんでもその口紅を拾うと、持ち主の女が毎晩枕元に立って、『私の口紅を返して』って囁きかけてくるんだと。 でもこっちは金縛りにあって、口紅が返せない。 その結果、女が居なくなるまで相手の恨み言を聞き続けるしかないんだってよ」
「あぁ、そっすか」
「ノリわりぃ……」
所々合っているが、全体的な流れとして大いに外れている。
まさにこの事例をお題に、“都市伝説”にしました! って内容じゃないか。
聞いて損した……なんて思い始めた頃、先輩は再び口を開いた。
「でもよ、そんな状況が続けば人間精神的に参ってくるだろう? そしてその結果何が起きるかというと……実際に駅に出るんだとよ、“相川さん”が。 駅の向かいのホームだったり、乗車後に今まで自分が立っていたホームに、唐突に現れるんだってさ」
どうやら続きがあったらしい。
あまり期待は出来ないが。
「遠いし声なんか聞こえる訳もねぇのに、何故か耳元から聞こえてくるみたいに鮮明に聞こえてくる相手の声。 そして、『返して』って言われるんだと。 数日間“相川さん”に苦しめられていた奴なら、必死で返そうとするだろ? その結果隣のホームに飛び移ろうとしたり、走り出してる電車の扉をこじ開けたりして、“運悪く”事故にあう。 それが相川さんだ」
なんというか、ここまで聞くと他人事な気がしないな。
俺も毎晩の様に“あの夢”を見ている訳だし、多分“相川さん”とやらが現れたら必死で口紅を届けようとするだろう。
そしてその結果が……この前電車に轢かれた男、という事なんだろうか?
全く持って笑えない。
「こっからは与太話というか、想像の産物なんだろうけどよ。 口紅を例え渡せても、“次”があるんだと。 ソレをクリアしないと、絶対に死んじまうらしい。 制限時間は七日間」
「何ですか次って。 そんなゲームみたいに……」
「俺が良く遊んでる子は、その続きを知らないんだってよ。 赤ん坊がどうとかって言う話はあるらしいんだが、正直わからん」
先輩の言葉に、どんどんと背筋が冷えていく。
口紅を返した後で現れる赤子、そして制限時間。
一度口紅を返しただけじゃ駄目なのか?
7日ってなんだよ、聞いてねぇぞ。
それから赤子って……明らかに“あの人”の子供の事じゃねぇか。
母親の手首を抱え、そして笑っていたあの子供。
「……うぷっ!」
思わず掌を口に当て、席を立ち上がった。
ダメだこれ、吐きそう。
「お、おいおい! そこまでこういう話駄目だったのか!? だったら先に言えよ! ホラ、吐く前に便所行こうぜ!」
そう言う先輩に強く手を引かれ、俺はトイレの個室に連れていかれた。
吐き出されるのは胃液ばかり。
そりゃそうだ、ここ最近ろくにちゃんとしたモノを食ってない。
グロい夢のせいで、食欲なんてろくに湧いてこないのだ。
そして何よりも……俺はあの夢を見始めてからどれくらいの時間が経った?
今日で何日目だ?
「おぉーい、大丈夫かー?」
「……駄目っす」
扉の向こうの先輩に声を返しながら、俺は胃液をぶちまけ続けた。
――――
結局体調不良は収まらず、定時と同時に帰路についた。
おかしいな……定時に帰るのは当たり前な筈なんだが、何故か申し訳ない気持ちになってくる。
どうしたんだろう、病気だろうか。
なんて、良く分からない事を考えながら電車へと乗り込んだ。
本日も人が多い、非常に多い。
当然座れる筈もなく、青い顔のままつり革につかまった。
「――だからさ、マジで来るんじゃないかって。 先輩達も噂してたよ!」
「いやぁ……でもさぁ、出る出ないの話の前に、それはちょっと……」
隣に立つ高校生が、耳障りな高い声を上げながら喋っている。
元気が良いのは結構だが、今は勘弁してほしい。
こっちはろくに寝てない上に、訳の分からない事態に巻き込まれて精神すり減らしてるんだ。
噂話なら他所でやってくれ……
なんて、げっそりした顔で窓の外に視線を投げると。
「……え?」
その光景に、思わず声を上げてしまった。
周りから不審な目を向けられるが、それどころじゃない。
だって、電車の窓から見える眼の前。
俺の正面に当たる位置、駅のホームの真ん中。
そこに、見覚えのあるベビーカーが止まっているのだ。
周りの人間は自然と“ソレ”を避けて歩き、誰も気にした様子はない。
駅のホームの真ん中に、放置されたベビーカーがあるんだぞ?
普通気にしない訳がない。
いや、忙しい社会人ばかりなら見て見ぬふりくらいはするかもしれないが……それでも、誰も見向きもしないってのは異常じゃないか?
そしてそのベビーカーに乗っている子供。
ソイツは、明らかに俺を見て笑っていた。
『あの、すみません』
聞き覚えのある声が隣から響き、思わず視線を向ける。
そこには、真っ赤なシャツを着た女が立っていた。
『この前届けて頂いた口紅、私の物じゃなかったみたいなんです。 なので、お返ししますね』
真っ赤なシャツ、どころではない。
服は全身赤く染まり、それどころが見えている皮膚さえもどす黒い赤に染まっているその姿。
でもその声は、間違いなく俺の聞いた“口紅の女”のソレだった。
「――ぁ、あ……あっ!」
声にならない悲鳴を漏らしながら後ずされば、すぐさま周りの乗客とぶつかってしまう。
ぶつかったサラリーマンから舌打ちされ、さっきまで隣に居た女子高生は気味悪そうな視線を向けてヒソヒソと何かを喋っている。
それだけじゃない。
周りにいる全ての人が、俺を見ていた。
“俺だけを見ていた”
何故だ、何故皆俺の目の前にいる“相川さん”を見ない。
こんな異常な格好をして、致死量をとっくに超えて良そうな血液を垂れ流している女の事を、何故誰も見ない。
「――く、来るな!」
叫びながら、人を押しのけて後ろに下がる。
それでも彼女はダラダラと血を流して、口元を吊り上げながら付いてくる。
左手に以前渡した口紅を差し出して、真っすぐに俺の瞳を見つめながら。
「来るなって言ってんだろ!」
全身から脂汗を垂れ流し、必死で人押しのけて。
やっとの思いで電車から抜け出した。
――ドアが閉まります、ご注意ください。
その声と共に、プシュー! というけたたましい音を上げてすぐ後ろで扉が閉まった。
振り返って見れば、まるで異常者を見つめる様な数々の瞳。
止めろ、俺を見るな。
アイツに気づかないお前らの方が異常なんだ。
そう叫びたい衝動に駆られるが、今はそれどころではない。
口紅の女……相川さんを撒けたのかどうか。
それを確かめるべく、徐々に動き出す電車の窓を睨むように見つめる。
何処に行った?
俺のすぐ後ろに居た筈だ、入り口付近にいるはずなのに。
隈なく視線を凝らす俺を嘲笑うかのように、電車は走り出す。
俺が駆け出した出入口は、どんどんと離れていく。
しかしその中に、あの女の姿はなかった。
「何なんだよ一体! 俺が何したってんだよ!?」
思わず叫び声を上げ、その場に蹲ってしまった。
こんな事をすれば再び周りから奇異の目で見られてしまうだろうが……知った事か。
何だアレ、直接近づいてきやがった。
もはや夢がどうこう、噂がどうこうじゃない。
血まみれの女が電車内で追ってくるって何だよ。
もうホラー映画じゃねぇか。
なんて事を思いながら荒い息を繰り返している俺の肩に、ポンッと誰かの手が置かれた。
あ、終わった。
一瞬だけゾッと背中が冷たくなって、それからは徐々に諦めの気持ちが広がっていく。
どんどんと全身から力が抜けていき、ボケッとした顔のまま背後に立つ人物へと振り返った。
そこには……
「お客さん、どうかされました?」
困った顔の駅員が立っていた。
膝から力が抜けるって、こういう時に使う言葉なんだな。
良く分からない感想を胸に、完全に脱力してしまった。
「もしかして体調が悪いとか? 救急車呼びましょうか?」
駅員が声を掛けてくる度に心が落ち着いていく。
大丈夫、俺は逃げ切ったのだ。
こうして“普通”に人と話せているのだから、きっとあの女から逃げきれ――
『――口紅を見ませんでしたか?』
耳元から、そんな声が聞こえた。
「……は?」
間抜けな声を上げながら振り返れば、反対側のホームに佇む人影が見えた。
影になって表情は見えないが、真っ赤なシャツを着ている女性だという事は分かる。
赤子を乗せたベビーカーを支えながら、手首を失った右腕をこちらに伸ばしている。
『口紅を、見ませんでしたか? とても大切な物なんです』
女の口元が動くと同時に、耳元で声が聞こえる。
何だこれ、何なんだコレ。
頭の中が真っ白になっていき、全身がガクガクと震え始める。
「お客さん、大丈夫ですか?」
依然として話しかけてくる駅員の言葉さえも、今では“相川さん”より遠く聞こえてくる始末だ。
俺は一体どうしたらいい?
カツンッ……
そう音を立てながら、何かが手元に転がった。
視線を落せば、そこには一本の口紅。
さっきまで鞄に入っていた筈なのに、何故か今は足元に転がっている。
無意識の内に手を伸ばす、しかし。
「ん? 今なんか……あ、すみません」
もう少しで手が届きそうな距離、その瞬間に誰かの足が口紅を蹴飛ばした。
蹴飛ばした、というより気付かず弾いてしまったという方が正しいのだろうが。
それでも、結果は同じだ。
口紅はカラカラと軽い音を立てながら、駅のホームから滑り落ちた。
「ふざけんなよテメェ! どけぇっ!」
「え? ちょっ! なんだよアンタ!」
スマホを片手に持った男性を押しのけ、駅のホームから飛び降りた。
後ろで駅員が何かを叫んでいる気がするが、それどころじゃない。
はやく、早く見つけないと。
そして相川さんに口紅を返さないと。
『返して』
責め立てる様に反対側のホームから彼女の声が聞こえる。
分かってる、分かってるんだ。
だからこうして、線路に落ちた口紅を必死で探しているんだろうが!
頭の中で文句を垂れ流しながらも、地面を這うようにして口紅を捜す。
どこだ、どこに行った?
薄暗い線路には多くの影が落ちていて、中々見つからない。
背後から何やらけたたましい叫び声が響いているが、本当にそれどころじゃないんだ。
むしろ一緒に探してくれ。
「お客さん! 早く戻って!」
「うるせぇ! 落ちた口紅を見つけなきゃいけないんだ! 戻って欲しけりゃアンタも探してくれ!」
頭に血が登り、思わず駅員に叫び返した。
這いつくばる様な体制だったから気づかなかったが、駅員は真っ青な顔で叫び、周りの乗客はこちらに向かってスマホのカメラを構えていた。
そしてその何割かは、俺では無くて別の方向へと視線を向けている。
「アンタ何言ってんだ! 口紅か何か知らんが、さっきからずっと握りしめてるだろうが!」
「……は?」
駅員の叫びに、思わず視線を手元に落せば……確かに何かを握っていた。
いつから? いや、もしかして最初から?
唖然としたまま掌を開けば、そこには『A.A.A』と刻印された口紅があった。
あった、見つけた。
これで返せる。
相川さんに、口紅を届けられる。
こんな状況だと言うのに、何故か心からは幸福の感情が芽生えた。
これで終わる、救われる。
そう思っての感情だったのか、それとも俺自身もうおかしくなっていのか。
正直分からない。
でも“口紅”を見つけた瞬間、俺は反対側のホームへ向かって叫んでいた。
「相川さん! 口紅見つけました!」
手に持った口紅を振り上げ、口元には笑みを浮かべながら手を振った。
……あれ? 俺なにやってんだ?
「いいから! 早く戻れ! もうすぐそこまで来てる! 早く!」
「は?」
何やら良く分からない事を叫ぶ駅員の言葉に疑問を覚え、首を回した。
プワァァァァァ! と耳を劈く音と共に、足元から伝わる振動。
そして眩しい程の光量でこちらを照らす鉄の塊が、本当にすぐそこまで迫っていた。
あぁ、もう……
「……勘弁してくれよ」
視界が暗転する瞬間。
何かが潰れるような、聞いた事の無い汚い音が聞こえた気がした。
午後に最後の一話を投稿します。