見上げた空の七色
私たちが出発してから、二・三時間が過ぎた。雨が強くなってきているようで、たまにぽつりと木の葉からしずくが落ちている。
雨が緑を反射して煌めく様は確かに美しいのだが、傘のさせない山では濡れるということが一番気になる。
「ここで休憩にしましょう。そろそろお昼だし、ちょうどいいわ」
「そうだな。大丈夫そうか? ルーン」
「問題ない。僕も賛成だ」
リュックの中から防水性のある布を取り出して敷く。この雨の町でかなり需要があるものの一つだ。
他には昼食用に、ちょっとしたお菓子やパンなど。
「ルーン、これ食べる?」
「……いい匂いだな」
ふんふんと匂いを確かめたルーンが、ぱくっとスティッククッキーを食べる。小さな音をたてて食べていく様子がかわいい。にんじんスティックでも持ってくればよかった。
「エリアス、俺にもくれよ。うまそう」
「いいわよ。はい」
ランチバッグごと渡す。何も差別というわけではない。中には色々トッピングなどが入っているからだ。
一応ルーンが何を食べられるかわからなかったから、彼にはそのままのクッキーを渡すという配慮をしたのだ。
「お、これレモンのやつだよな? レモンカード……だっけ?」
「そうよ。この前買ったの、おいしかったから」
雨の町では、レモンなどのさっぱりした食べ物が好まれる。ほかの街などから大量に仕入れ、ここで色々なお菓子に加工されることが多い。
「甘いのがいいなら、りんごのジャムもあるわよ」
陽希はすっぱいものが苦手だ。昔、何と間違えたのかそのままレモンを食べたらしく、以来甘く調理されているレモン以外食べない。
しかし残念なことに、この町で主に売られている果物はレモンばかりだ。
「やった! さすがエリアス、わかってるなー」
「伊達に何年もあなたと幼馴染みやってないわ。わかってるわよ」
家が近所で年も同じ。そうなれば、かなりの確率で関係は幼馴染みというものに落ち着く。
「君たちは、いつから友人なんだ?」
好奇心からか、ルーンが聞いてくる。
「きっかけか? う~ん、わかんないな。でも、友達ってそういうもんだろ?」
「そうよね。気づいたら、一緒にいるのがあたりまえになってたわ」
強いて挙げるなら、積み重ねてきた時間そのものが理由だろうか。私も陽希も別に友達はいたけれど、一番仲が良いのは互いだった。たぶん、私は陽希にしかないものが、陽希は私にしかないものが見えていたから。
それが何かは具体的には言えないけれど、そこに惹かれている。
「あ、俺はルーンのことも好きだぜ!」
「君はどんな好意も『好き』の一言でくくるつもりか」
珍しいことに、ルーンがツッコんだ。翼を使って、陽希の頭の上に前足でぺしっと着地。かっこよかった。
「え? え? 俺なんかした?」
「……こんなのがいいのか? エリアス」
「……そんな、だからいいのかもしれないわ」
戻ってきて私の膝に座ってくれたルーンに、さっきのスティッククッキーをあげる。私の分はレモンカードをつけて食べる。こんな時に限って、レモンの甘酸っぱさが際立つ。
「エリアス、飲み物くれ」
「はい。紅茶だけど」
「砂糖入ってる?」
「ええ。入れてあるわ」
紅茶が入った魔法瓶とカップを渡す。紅茶に入れる砂糖の量の好みは、私と陽希の数少ない共通点の一つだ。
「ルーン、頂上まであとどのくらいかしら?」
「ただ登るだけなら、一時間もかからない」
ただ登るだけなら。つまり、魔物が出ればもっと時間がかかる。そして、山のほとんど全体が封印までされているということから、魔物に出会わずに進むのは難しいと考えられる。
「そう。なら急ぎましょう」
「おう。じゃあエリアス、これ頼むぜ」
陽希から受け取った魔法瓶とカップを、再び私のリュックの中へ戻す。ランチボックスはすでに仕舞ってある。
*
いよいよ坂が急になってくると、足下が滑ることも多くなってきた。きつい坂に加え、ぬかるんだ地面に足をとられるせいで体力を使う。
しばらく歩くと、私の息が上がってきた。
「エリアス、大丈夫か?」
「ええ。……っ!?」
がくんと力の抜けた足の下で、地面がずるりと動いた。
違う。私が滑ったんだ。そう理解すると同時にぐらりと身体が傾いだ。
「エリアス!」
「ハル……」
伸ばしかけた手も、呼ぼうとした名前も途中で途切れた。重力に従って、私の身体はさっきまで歩いていた道とは違う坂を転げ落ちていく。
「……っ」
落ちた先で傷を確かめると、坂が緩やかだったおかげで、擦り傷だけで済んでいた。
「怪我はないか? エリアス」
「なんとか大丈夫よ」
上からルーンが降りてきてくれた。
全体的に汚れたし傷も多いけれど、怪我は軽いものだし動くのにも支障はない。
念のため辺りの匂いをすんすん嗅いで確かめたルーンが、私の右肩の上で雰囲気を変える。警戒するように見回した。
「もしかして、いるの?」
「ああ。陽希! 来るなよ!」
上からわかったという声が返ってくる。そこにいろとルーンが言うなら、上は安全なのだ。だったらわざわざここに呼んで、危険に晒すことはない。
ルーンの指示で、彼を肩に乗せたまま坂から離れて、比較的平らな場所に移動する。
前方から、人のものとは違う足音がする。ただ異質なのは、どこか水っぽい音が混じっていることだ。足音と同じタイミングで、それがする。
木の陰から出てきたのは、犬にも似た形をした四足歩行のモノだった。その身体は泥で覆われていて、目にあたる部分は真っ赤な光が灯っている。そこに見えるのはまぎれもない敵意。それがこちらを見た。
「きゃあああっ!」
「エリアス下がってろ!」
私の肩から勢いよく飛んだルーンが、襲いかかってきた魔物に向かう。
泥でできたような黒に近い茶色の牙を、ルーンの角が受け止める。振り払われ、頭から追突された魔物は、よくわからない断末魔の叫びを上げて土に消えた。
「もういない。大丈夫だ」
「あ、ありが……とう、ルーン」
声が震えてうまく言葉にならない。
向けられた殺気が怖かった。こちらを見た赤い目が私を映して、牙が襲いかかってきて。
「エリアス! ルーン!」
土ぼこりと共に坂から降りてきたのは、陽希だった。上から魔物が倒されるのを待って、私たちを心配して来てくれたらしい。
「陽希ぃ……」
「ごめんな、エリアス。怖かったろ」
陽希は何も悪くない。私が勝手に足を滑らせただけだ。
だけどおずおずと手を握ってくれた陽希の両手の、その暖かさが私を落ち着かせる。肩に戻ってきたルーンが、ふわふわした身体を頬にくっつけてくれる。
「ありがとう。もう大丈夫よ、行きましょう」
「……そうだな」
もう一度出てきたらと思うと、身体が震えてしまいそうなくらいに怖い。だけど、陽希とルーンがいてくれるなら大丈夫。そう思うようにする。
陽希の頭上で、ルーンがまわりを見ては匂いでも魔物の存在を確かめて、進んでいく。箱の近くほど魔物が多い。だからきっと、また襲われることになる。
「もうすぐ仕掛け箱のある場所だ。三体ぐらい魔物がいるが……大丈夫か? エリアス」
「ええ」
もうすぐだ。ここまで来て、引き返すわけにはいかない。
「先手必勝だ!」
弾丸のように飛び出したルーンの角が、一匹目の魔物を貫く。二匹目が翼で振り払われ、三匹目は牙で噛みつかれた。
あっという間に魔物を倒したルーンは、身体についた泥を頭を振ったり羽を動かして落としてから私たちの元に戻ってきた。
「さすがだな、ルーン」
「僕はヴォルペルティンガーだからな。さあ、こっちだ」
そこからほんの少しだけ歩いた先。まるで宝箱のような、古びた木製の箱が平らな岩の上に置かれていた。あれが仕掛け箱だ。
陽希が私とルーンより先に近づいて、箱の上部に手をかける。
「あれ? えっと……エリアスー!」
「何? どうしたのよ、陽希」
陽希は困ったときにはたいてい私を呼ぶ。いつものことなので、私も慣れっこだ。ルーンを肩に乗せたまま、私も箱に歩み寄る。
「箱が開かないんだ」
「そう。魔法がかけられているから、普通の方法じゃ開かないのかしら」
両手で抱えられるほどの大きさの箱は、確かに開けようとしてもびくともしなかった。
「この件に関して、僕からは何も言えないからな」
「えー。まあ、ルーンがそう言うには訳があるもんな。よしエリアス、頑張ろうぜ!」
「もちろんよ。私と陽希だけでなんとかしてみせるわ」
もともと、私はそのために陽希に誘われたのだ。それだけではないだろうけど、私がここにいるのにも意味がある。
それに、さっきから足を引っ張ってばかりだ。こういうのは、陽希より私の得意分野。ここで頑張らないと。
「謎解き、だったわね。きっとどこかに、ヒントがあるはずよ」
「そうだな。……これ、じゃないか? 箱の下」
箱を横によせると、平らな岩には文字が刻まれていた。
「『月昇るとき 陽は沈み 星が煌めく 移ろいを知るものこそが 光をもたらす』。……全然わかんねぇ」
「箱を開けるのは、お役目の子供よ。そう難しいものじゃないはずだわ」
後半はこの暗号のヒントだろう。移ろいというのは夕暮れから夜までの時間、あるいは空のこと。なら最初に考えるべきは、『月』が何を表しているかだ。
「月……ね」
「月かぁ。月といえば、みたいなか? うーん、うさぎ。とか?」
うさぎ。私はちらりとルーンを見る。ルーンはヴォルペルティンガーだし、うさぎはうさぎであって、月ではない。だけど関係する何か……。
「わかった! ムーンストーンよ!」
ルーンを喚び出したムーンストーン。あれはこの山に入るための鍵にもなっていた。もしそれが、箱の鍵でもあるとしたら。
見ると、箱の上部と下部の境目に穴があった。その形には見覚えがある。扉の鍵穴と同じものだった。
「ほら、ぴったりだわ」
「ほんとだ! すごいなエリアス!」
きゅん、と小さな音をたててムーンストーンのまわりに魔方陣のような光の輪が現れた。
二重になっていて、内側はオレンジで輪の中に丸い記号がある。外側はほぼ透明に近く、目を凝らして見ると細かい点が一部にあった。
「この丸が太陽、点が星って可能性が高いわね。なら……」
どうやら、輪に触れると回すことができるらしい。内側の輪を丸が下にくるように回した。ぽう、と下の輪の点にわずかな光が灯る。今度はそれが上にくるように回す。
鍵が開く、がちゃりという音がした。
「……開いたんだな」
「ええ。でも、本当に開けるのは陽希よ。ほら」
「ああ」
今までが嘘のように、箱はあっさり開いた。そこから、光の球が花火のように空に飛んでいった。それが上空で弾けると、黒い雲が消えて青い空が見えた。
「あ……!」
陽希と私の声が重なる。
空には七色の橋が架かっていた。
「エリアス、ルーン、ありがとな。ここまで一緒に来てくれて」
虹の下、最高の笑顔で陽希が私とルーンに笑いかける。
ああ、やっぱり陽希には青空がよく似合う。
「こちらこそありがとう、陽希。私、今日のことを忘れない」
まるで宝石のような虹と、ルーンのいる肩のぬくもり、あなたの何より素敵な笑顔を。