役立たずの灯台
海水面が上昇し、陸地は昔と比べてずいぶんと減ってきた。
これは異常な事態だ。何とかしなければ……
コストはかけられない、失敗は許されない、時間は限られている。
それでも、やらねば。
俺は灯台。何十年も前からここに立っている。まあその役割については、今更言うまでもないだろ?海を見て、ここが陸地だと船に知らせてやる。それが俺の役割さ。
ここに立っているだけなんだが、何とも環境の変化というのはダイナミックなもんだ。俺の足下を見てくれ。海面がもうすぐそこまで来ているだろう?もうずっとこうなんだ。見てたから間違いない。
どういう事かって?あ~。時々ここに来る偉い先生の言葉によりゃぁ、『海進』だとか、『海水面上昇』だとか、そういう事らしい。
その影響でそう遠くない内に、俺は俺の役割を果たせなくなっちまう。陸地の端がここじゃなくなっちまうからな。皆にも言われちまってるが、俺も分かってる。俺はもうすぐ役立たず、海の底だ。ははは。
ある日、俺の所からほど近い駐車場で何か大騒ぎしている。あぁ、例の先生だ。……あの手に持ってるのは何だ?
俺は意識をそちらに向け、先生の話を聞いてみる事にした。
「海水面上昇という深刻な事態が人類を襲い始めてからどれだけの時間が経ったでしょうか。島々は海に飲まれ、人類の生存可能領域は狭まり、必然的に食糧事情を逼迫しました。争いも起きました。人心も荒廃し、まともだとは言えない状況。それが今です。
そもそも海水面上昇とは何か。原因ではなく、起こっている現象に私は目を付けました。そして海水面上昇は二つの事象によって引き起こされていると言う事を発見しました。
一つは地表にあった氷河の融解。水量が単純に増加し、海水面が上昇したのです。これは皆様、既にご存知の事と思います。
二つ。こちらが重要ですが、物体というのは、基本的に温度が高くなる程に膨張する、と言う理屈をご存知でしょうか。実は水も同じです。……そう、海水そのものが膨張し、体積が増え、水かさを増やしているのです」
な、何だって?先生、もうちょっと簡単に言ってくれないか?
「簡単に言えば、水の量が増えていて、かつ水の温度が上がっている。この対策は非常に単純です。
一つは海水の量を減らす事。蒸発させて雲にする、そして陸地に留める方法です。
二つ。海水を冷やしてやる。海水温上昇の原因は太陽熱ですので、これを遮ってやればいいのです。
私はこの事実を見つけ、対処法を考えました。最も効果的で、最も安価で、最も容易に出来る方法を。
その結果がこれです」
言いながら、先生は手にした物を掲げた。それは、二つのパーツで出来た簡単な物だった。全て黒色のプラスチック製で、紡錘形の薄い板のパーツと、そこから10cmほどの長さで直角に生えた綱のような繊維束のパーツ。それはまるで地面から生えた植物のような形をしていた。
「水は体積に対して表面積が多い方が熱の効率がいい。
単純に言いますと、大量にあるプールの水を素早く全て蒸発させるには、なるべく薄く広く伸ばした方が効率がいい。表面積が大きい方が良いと言う事です。
これと同じで、私のアプローチは、『海水面の表面積の拡大』です。如何に効率よく水を蒸発させ、雲を起こし、その雲で太陽熱を遮断するのか、と言う事に考えを集中しました。
しかし表面積を増やす為に水面を持ち上げる、と言う事は動力が必要で、コストがかかる。熱をかけて蒸気にするにも莫大なエネルギーが必要である。これでは解決策にならない。
そこで目を付けたのが、『毛細管現象』です。これは動力も不必要で海面上に海水を引き上げる事が出来る。ほんの10cm程度の上昇ですが、持ち上がった所は太陽熱であっという間に蒸気となる。この蒸気が雲になり、徐々に太陽熱を遮断するようになっていきます。
この装置は見ての通り船のように浮かび、この綱状の部分、ここを水が毛細管現象で上っていき、効率的に熱を浴びる事で蒸気となります。
まるで植物が根から葉へ、水分を移行させ蒸散させるように。私はこの装置を『Floating Weed』と呼ぶ事にしてます。そのまま、『浮き草』ですね。
勿論一つや二つでは意味がない。何百、何千と流してやる必要がある。環境に悪影響があってはいけないので、生分解するプラスチックで製作しております。およそ5年程で全て融解する予定です。
……今日、これを初めて海に流します。今日から始めていつ成果が出るのか分からない。だが、強い意志を持って続けなければならない。
我々は、海から大地を取り戻す。今日はその第一歩です」
わっと拍手が沸き起こる。
ほ~。何だか難しい話だねぇ。とりあえず、それを大量に流せば、海が引いていくって事かな?
先生と取り巻き達は、先生が持っていた物を大量に海に流した。海流に乗って沖に流され、太陽光を反射するそれは、海面でピカピカと光り続けていた。何とも綺麗だった。
こいつがもし、海が引く事に役に立つなら、こんな良い事はねぇや。俺だって、役立たずにならなくて済むかも知れねぇ。先生、頼むぜ!
先生は度々ここに来ては、取り巻き達と例の物を海に流した。そういえば言っていたな。一個や二個じゃ意味がないって。大変だね、全く。
誰も見ていなくても、先生達は定期的にここを訪れては流していった。
俺は、ここから応援していた。本人達にはきっと届かないだろうけどね。俺に出来る事と言えば、そんな事くらいさ。
しばらくして、気のせいか風雨のきつさが増してきたような気がする。いたたた、そんなに吹き付けるなって!しつこいの、痛いのって、もうひどいもんだ。いてて。これじゃお肌が傷んじまう。海に沈む前に壊れちまうぜ。
その内、先生の悪評が耳に入ってきた。俺をメンテナンスに来た奴らがぼやいていた。
先生の「あれ」のせいで、急激に雲が大量発生し、強力な上昇気流が生まれ、超巨大な台風が幾つも出来るようになったんだそうだ。そのせいで農作物も荒らされ、人類を窮地に追い込んでるとか。
おいおい、ちょっと待ってくれよ先生。これじゃ却ってひどくなってるんじゃないかい?何にもしない方が良かったんじゃねぇのか?
俺が思ったのと同じように、世間も先生を叩き始めた。却ってひどくなったじゃないかと。
先生達は黙って流し続けた。誰もそれを見ていなかったが、俺だけは見続けていた。ちょっとだけ、白い目で。
先生はまた駐車場で人を集めていた。今度は……なにやら糾弾されているようだった。
先生は静かに答えた。
「この成果が出るには数十年と掛かる。今がダメだからと簡単に諦めてはいけない。私はこの実験を続けます」
非難囂々であった。「役立たず!」だとか、「一体どうしてくれるんだ!」ってなもんだ。誰一人先生の味方をする奴はいなかった。
グッと唇を噛んで非難を受け止める先生。わーわーと喚き続ける観衆。
役立たず……?役立たずだって?
何だい何だい、この状況は。お前等、ちょいと悪い事がおきたからって、もう用済みってか。先生は結果が出るには時間が掛かるって言ってるのにか。随分ひでぇもんじゃねぇか。……そりゃぁ俺だって確かにそうは思ったけどよ。でもよ、てめぇでは何もせず、簡単に見捨てて、「役立たずー!」ってか。……気にくわねぇな。
よしっ!決めた。俺はこの先生の言葉を信じる。誰が何と言おうとな。
俺が先生の成果を見届ける。それが俺の役割だ。何、人間よりは人生が長い。どうせ俺は、ずっと海を見てるしな。
今日から俺は先生のファンだ!先生、そんな奴らに負けんじゃねぇぞ!
またある日。
こっそりと流しに来た折り、先生は誰かと出くわした。
その誰かは先生を罵倒した。俺は何をこの野郎っ!と怒ってやりたかったが、俺には喋る事も出来ない。先生は黙って耐えていた。
ある時は人から石を投げられた。ある時は囲まれて殴られた。大怪我をした先生は、それでも定期的に流しに来た。
先生と若者達は、大衆から石を投げられた。それでも流し続けた。
先生は若者達にこう言った。
「ダビデが一撃でゴリアテを倒したようにはいかない。巨大な問題に対して、ただ一つの方策で、ただ一度の投石で解決出来る訳じゃない。続けなければならないんだ。
今は耐えろ。辛いだろうが、耐えてくれ」
若者達は、泣いていた。
俺は、見てるしか出来なかった。
その内灯台周りの駐車場は、監視が付くようになった。これ以上先生に『浮き草』を流させない為に。
先生はそれでも流す為に、夜の闇に乗じて幾つも流した。さすがに若者を引き連れては来なかった。危険すぎるからだろう。だが先生は来た。自分の信条の為に。
俺に出来る事はと言えば、時折照明で照らしてやる事くらいだ。何せ灯台の足下、上手くは照らせねぇが、勘弁してくれや、先生。
俺に出来るのは、これくらいなんだよ。
ある晩には見つかっちまって、罵声と共にどこかへ連れて行かれた。俺は……見てるしか出来なかった。止めるなんて、出来る訳もない。
数日して、包帯にまみれた先生が、また夜の闇に乗じて流しに来る。こっそりと、人目を忍んで。
先生。先生よ。
何だってそんな、一生懸命なんだ。もう誰も望んじゃいないじゃないか。
あぁ、また今日も来て、こそこそと盗人のようにそいつを海に流す。
俺ぁ何にもしてやれねぇよ。
俺だって、出来る事なら手伝ってやりたい。そばに立って、あんたを守ってやりたい。俺ァあんたの心意気に惚れてるんだ。
でも出来ない。俺は動く事も、話す事も出来ない。ただ見ているだけの、役立たずだ。
悔しいよ、悔しいよ。頑張ってくれ、先生……
先生はいつか、俺を睨んでこう叫んだ。
「やい、灯台。お前がここに立ってるなんて、おかしい話なんだ。遙か昔、海はずっと向こうにあった。
お前がここで、こんな場所で機能しているのはおかしいんだ。俺が必ず正す。お前の役割を、終わらせてやる!」
……おう。おう!そうだよ、先生!おかしな話さ。だから、俺を役立たずにしちまってくれ!俺はそいつを見届けたいんだ!そうなって欲しいんだ!
俺を見るとやる気が湧くかい?恨み辛み、色んな物を吐きだしてくれるかい?だったら俺はここでずっと立っていてやる!折れることなく、腐ることなく立ち続けてやる!
先生……俺は、先生の役に立てるのかい?
いつからか、ずっと一人で来ていたのが、夜の闇の中でも数人の若者を引き連れて来るようになった。彼らの目には、強い光があった。
先生は流しに来た折り、若者と言葉を交わしていた。
「今このバッシングは仕方のない事だ。物事が変わる際には、必ず反作用がある。人間の体と同じだ。良くなる前に悪くなるのは当然なんだ。
必ず良くなる。必ずだ。だが、この実験は何十年と掛かる。俺の命は終わるまでには持たない。受け継ぐ人間が必要なんだ。
君たち。黙って耐えてくれるか」
若者達は言葉で答えず、ただ一つ頷いた。
泣かせるじゃねぇか、ちくしょう。
ある日、葬式の行列が例の駐車場まで来た。棺を出し、それを駐車場の傍らに埋めた。
話から察するに、先生は亡くなったらしい。そして墓はここにしてくれと最期に頼んだらしい。
海水面が上昇すれば、海の底になっちまう。家族は反対したそうだが、意志は固かったそうだ。
何々、説得の末、最後には「俺の研究が正しければ、海の底になんぞ沈まん! 沈んだなら、俺は忘れ去られるだけだ」と言い張ったそうだ。
はは、先生らしいぜ。
これで、ずっとそばで研究成果を眺められるな。先生。
あれからどれだけ経っただろうか。何度季節が巡っただろうか。何百回、あんたの遺志を継いだ若者達が、そしてその次の世代がそいつを流しただろう。
いつからか、気候は穏やかになり、海はすっかり遠くなった。『浮き草』が先生の手を離れて初めて沖に流れた、あのキラキラよりもずっと遠くなった。俺は内陸に取り残された、役立たずの灯台になった。
先生、先生!
遂にこの俺を、すっかり役立たずにしてしまったな!
海は遙か彼方、もう見る事も出来ないよ。
こんな所に突っ立ってるせいで、もう誰も俺の事を灯台だなんて信じないだろうよ。
先生。あんたはすごい人だ。誰が何と言おうとな。
たった一つあった俺の役割、それはあんたの成果を見届ける事だった。だが、もういいだろ?老朽化で、もうがたが来てるんだ。立ってるのが精一杯なんだ。
全ての役割を終えた俺に残されたのは、もうたった二つの意味だけだ。もう何の役にも立たない俺だが、それだけは倒れて死ぬまで全うさせてくれや。
一つ。ここがかつて海であった事を証明する意味だ。海水面上昇で人類の危機にあった事、忘れない為にな。
そしてもう一つ。その人類の危機を救った偉大な男がここに眠っている、墓標としての意味――
長い長い戦いの結末であった。