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未踏 12号 「いつ死んでもいいかなあ」の感情の考察

作者: 山口和朗

「いつ死んでもいいかなあ」の感情の考察


 人を励まさなければ。人に共感を与えなければ。いいものを書かなければ。書くことで生き抜いていかなければ。そして使命を完うしなければ。今何が一番問題か、何をやらねばならないか。あそこで、ここで不幸が、また不幸ではなくとも、輝いていない人が。人の輝いた姿を。この日本で、この世界で、状況に支配された人間ではなく、普遍的輝きをもった人間の姿を示さなければ。個人の死を類の死へ、存在の意味を個から類へ、人類、生命共同体の意識へ向かって。そこでの個の存在、意味を明らかにしなければ―――。


「いつ死んでもいいかなあ」の感情の考察



 人を励まさなければ。人に共感を与えなければ。いいものを書かなければ。書くことで生き抜いていかなければ。そして使命を完うしなければ。今何が一番問題か、何をやらねばならないか。あそこで、ここで不幸が、また不幸ではなくとも、輝いていない人が。人の輝いた姿を。この日本で、この世界で、状況に支配された人間ではなく、普遍的輝きをもった人間の姿を示さなければ。個人の死を類の死へ、存在の意味を個から類へ、人類、生命共同体の意識へ向かって。そこでの個の存在、意味を明らかにしなければ―――。

 世界の片隅で人を愛し、子を愛し、生き続けている母達の姿を想い浮かべてごらんなさい。視点が在れば良いのです。この日常への奇跡的な目と、我が子への愛が、人類への愛と重なっていれば。典型的人物など必要はなく、日常のありふれた、これら母の姿の中に創造、発見することなのです。現代は確信的であることが大切。理想、価値、信念等、確信し、超越していく人間像こそが―――。


 二律背反、矛盾の統一、そして、それらアウヘーベンの三ッの方向ではなく、第四の道を探りなさい。批判的立場と、肯定的立場と、統一、アウヘーベンの三様ではなく、それらに捉われない視点、それこそ実存的方法なのだが。社会的、歴史的自己などではない、生物的、本来的自己の立場。例えば木の言葉がわかるホモ・サピエンスの立場のような。あらゆるものに先立つ自己を創造で捉えなさい。唯一なるものへ向かって―――。

 人は存在を奇跡だとは思っている。しかし、その奇跡を表す言葉を知らない。人は存在に感謝をしてはいる。しかし、その感謝を表す言葉を知らない。人は虚しさを知ってはいる、存在をいつか終えねばならないという。しかし、その虚しさを表す言葉を知らない。言葉を示しなさい。言葉を存在させなさい。


 やはり私は、私自身を書こうと思う。いま私は暖かい部屋でこたつ机に足を入れ、死ぬ日のことなどは考えに入れないないで、煙草を吸い、コーヒーを飲みながら、これから一つの手記を書こうとしているのだったから。

 「なるほど生きようと思えばこそ、ひとはこの街に集まってくる。だが、ここではあらゆるものが死滅するほかない、むしろそんなふうにぼくには思えてしまう。いまぼくは外をあるいてきた。眼にはいったのは、いくつもの病院だった」 ―マルテの手記の導入―

 わたしが感じたものを、わたしの方法で綴ればいいのだ。わたしは掴んだのだから。思い詰めてではなく、受胎告知のように、突然、空から降ってきたようなあの感情。一年かかるか、二年かかるか、それは解らない、いまはおぼろ気な姿。眼、手足、顔。男か、女か障害を持って生まれてくるか、または流産してしまうか。ただ、いまは決して無くしたくない、失いたくないあの感情に向かって、書き続けるだけ。


 一週間前のことだった。散歩の帰り道、ふうっと「いつ死んでもいいなあ」と思えたのだった。嘗て私は自分が死にたいなどと思ったことはなかったし、この五年間は闘病生活で、生きることに必死だった。死については考えてきた。人の死、自分の死、そして生きる意味。しかし自分がいつ死んでもいいなど、考えたこともなかった。その日も、いつものように、散歩コースを何事かを考え歩いていただけ、何も特別な思いはなかった。なのに突然、ニュートンのリンゴのように降って来た感情。その感情は一週間経っても消えていない。心地良い包まれるような気分。その感情はずっと求め続けてきたもののように思える。揺れ続け、自信の持てなかつた心が安定している。ここに向かって来たのだと思える。


 ガンで余命いくばくもないと解った時、書くべきテーマは、書くべき意味は、人を意識しなければ、残された生命への燃焼の課題だけが見えてくるはず。私の人生よと―――。貧しさと闘って、病と闘って、社会の為に、人類の為にと闘った人生と、無為、怠惰、享楽にと送った人生と、その人の生命にとってどれだけの差異が。

Oとの出会い―――倦怠の日常へ風の又三郎が現れたようだった。

Tとの出会い―――資本論をドイツ語で読んでいると言った、味わったコンプレックス。

Mとの出会い―――麦飯を喰って育ったと、貧しさを私に語った。

Fとの出会い―――心臓弁膜症で青黒い顔をしていた。

Yとの出会い―――彼女の家の前のバラの刺をむしっていた。

Kとの出会い―――夜の木曽川、寒さと月。


 O、M、F、私。運転手、整備工、工員。耐え、働き、学んだ。私はこれら十六才の記憶を、ノンフィクションで、ドキュメンタリーで語りたいのだった。記憶をたどる時、常に一編の小説への欲求と否定がある。小説的構築と、私の独白的方法の葛藤。今私がやりたいことは、ノスタルジィーからではない、ある感情の確認作業、そして定着が目的。この感情は私の結晶ではあるのだが、この結晶に到るまでに過程がある。それはおもちゃ箱をひっくり返したような私の意識の中に。私独自と思っている感覚、記憶の中に。人との共感は、一時的、瞬間的にはあるのかも知れないが、一人、孤独が本来的。共感は得続けられない。草木や生物が、単独で世界と繋がって生きているように、一人一人が真実。人が一人となって世界と繋がる時、人も、木も、鳥も、平等な感情となり。ただ計り知れない存在を感じるばかり。


 宇宙パイロットが地球を見ているという視点があるから、地球の緑が生きてくる。地球に雨が降る、地球に馬がいる。これらの当たり前のことが奇跡的なものとなる。クリスの意識の変化、予告としての導入の映像処理。フイルムの色をセピア色から、緑、青へと変化させ、幻覚が真実になることへの願望をベースにして描いている。それらを映像を通して語っている。シュチエーションを組むだけではなく、それらがリアリティ、メッセージ性を備えていれば、読者に充分伝わり、理解されると―――。十年前に死んだ妻の亡霊、記憶の一部を取り出し物質化するソラリス。完全には物質化出来ない。ソラリスとは子供のイメージ。大人のイメージ(人の現実)がソラリスに作用していく。妻の像をイメージするとソラリスの変調は収まっていく。罪の意識、許してくれと幻覚物に対して謝るクリス。人は意識に対しても常に誠実であらねばと言っているよう。「私たちどうして別れてしまったの」と記憶を主人公とする時の純粋さ。記憶、真実、理想と、概念を主人公にしている。テーマではなく、あくまで主人公である点が説得力を持つ。そこから、イメージ、幻想をシュチエーション化、プロット化している。人間に意味のあるのは人間、宇宙や科学ではないと三人の設定(三様の考え、人間像)真実、愛、記憶の中の妻の像。良心に従っているクリス。愛とは良心であると。議論が必要ではない世界、超現実の世界。議論とは人間的なものである点。愛の結晶と無重力。優しさの象徴が無重力。浮く二人。妻へのしょく罪、和解、父の許し、理解。


 再読したい本。○高野聖 ○忘れ得ぬ人々○春の鳥 ○二老人 ○魚腹記 ○一握の砂○風琴と魚の街 ○風立ちぬ ○歯車 ○冥途 ○闇の絵巻 ○山月記 ○秋の一夜○失われた時を求めて ○死の家の記録 ○ナジャ ○ドビーノ悲歌 ○蒼ざめた馬 出会いの確認、記憶の整理。


 現代人が自己喪失しているとする。で、喪失した自己とは一体何であったのか。真に自己を発見していたのか?、喪失するほどの自己をもっていたのか?、真の自己とは何か?。

 私は、一日を発見した。私は私の共感を発見した。これらを発見したところの自己が真の自己だと。が、それらが真の自己なのか?。未だ知らない真の自己が―――。あらゆる物、人との共感を自らの体験の中に探ってみること、例えば桜の花のように、ある実感をもって蘇る記憶の中に。


小学一年の入学式の時の校庭の桜―――不安な暮らしと、桜の華やかさ。春祭り、本家の庭の桜―――親戚中集まり、私は従姉妹たちとは遊べず。駅の広場の桜―――桜の花で首飾りを作ろうと、糸を通した針で花を刺し続けていた。母子寮の庭の桜―――住込みで働きに行くという妹と、一緒に撮った記念写真。


結婚はやはり、淋しかったからだろうか?。一人の感覚の消滅、結婚とは二人の感覚、そこでの記憶が、喜びとなっている。これら二人の感覚が無かったら、結婚は意味を無さなかっただろう。そしてあの感情の中には、妻と子の感情も反映しているのだろう。子にとっては成人し父を早や必要としなくなり、妻にとっては義務を果たしたといった。働き続け、定年を迎えた者にとって、あの感情など理解しがたいものだろうか?。やりたくてやれなかったものの限りなさが―――。


 「おいくつ?」―――「百歳くらい生きた感じ」―――。実際私のこの感覚とはどんな感覚なのだろうか?。やり残していることはないのか?。やらねばならないことは無い。誰かがやるし、ねばならないことなど一つもないと思えるのだった。生きている意味とは、エゴを除けば家族の為だけに思える。死んだかも知れない人間が助かり、生命を賛美し、次にいつ死んでもいいとの感情に到ったというような話は書きたくない。私の死後も人は生きるし、世界は続く。


 内田百聞の「冥途」。あれは、漱石、芥川と相次ぐ死に接し、自分もいつ死んでもいいかといった感情から書きおこされたものだろう。あの生の感じ、死後の、冥途の感覚。百聞は巧い、名文、よく雰囲気を出している。しかし、私は雰囲気では書きたくない、論理で、あくまで実在感で描きたいのだった。雰囲気では安心できないのだった。病気を知った時の孤独感。人も、文化も、街も、私とは違うといった。不条理、疎外感は雰囲気では押さえられない。最後まで実在の、日常の感覚であの感情を定着させたいのだった。

 近代の超克は何によって成すか?。嘗て問題であった、現在も問題であるところの。二律背反、虚無。私においては、「いつ死んでもいいか」の感情で超越。何にでも、何処にでもアウヘーベン出来る地点、私の到達点。


 心情的、情緒的なものでの完結ではない、そのような世界に長くは安住出来ない。美は美であって私の外なるもの、前近代も、無知からではつまらない、飽くまで主知論においてのものでなければ。西行も、芭蕉も、風流でいいが、終生の私のものではない。安吾の「文化私論」底流はいいが、俊巡が良くない。中野秀人の「真田幸村論」、秀逸。近代の超克がある。


 先人達の思想、作品、私にどのように影響してきたのだろうか?。常に頑なな自分があって、何ら影響を受けて来なかった気さえする。自分の死を考える時、人は本当に他人だし、何も影響して来ないのだった。私と彼等と何ら変わらない地点を思うのだった。今の私にしてみれば、気の遠くなる程の先人達の仕事。確かにそこには彼等が築いた世界がある。が、現実世界よりは狭い。どれだけ才能があっても、どれだけ時を費やしても、世界よりは狭いと。


 名声、地位、そして富。メディアを賑わす彼ら―――。Oが自分以外は全然関係ないんだよねと、自らの死を考える時、彼らとの関係は消えてしまう。作られたメディア的、社会的なことなど、私は死ぬのだし、彼等は生きるのだからと。生活していくうえでの種々の問題、悩み、不安が、いつ死んでもいいによって、何と安々と越えて行けることか、仕事への、妻へ、子供へ、文学への感情、孤独ということ。ベルイマンの神の沈黙の問題も、いずれ生きて行く上での問題であって、死にゆく者の問題ではないということ。この私が消滅する、愛し、考えてきた世界が、私以外のものに、後人のものに。勿論わたしの考えなど、人間世界でのことだけだが、植物、動物にとって私の死など何の意味もなく。


 私がいつ死んでもいいの感情にこだわるのは、種の絶滅の悲劇を考えるからだ。絶滅、この地上からの様々な種の絶滅、人間の傲慢さの為に―――。生きる、人が生きるとは、いつ死んでもの視点からは、いったい何なのか?。食事のように、人間的感情の栄養を摂取すること、感情の快楽、人間の生きる属性。生きるとは、生物の惰性。これは一体何なのかなどと問うものではなく、それは木に何故そこに植えているのかと問うようなもの、前にも後にも意味はなく、私においてだけの、私の一瞬の輝き。無数の私が生き死にしていくだけの、限られた空間でのことに過ぎず。

 五年後に死を迎えたらの意識があった。今また何年後かに病んだらの意識はある。考えた私の全ての意識は無へ。作品の題は「無」がいい。


 あの木、この木、あの草、この草と、イブ・デュティがメッセージしていたが、私には出来ない、私と同じことを言っているだけなのだが、私は人と連帯していない、一人言なだけ、限りなく一人言、風、水、過去の思い出、現在の私、これらをただ見つめる私といった構図、いつ死んでもいいなの感情を武器に、人の代弁者となって、芸術こそ。死、生、正義、真理、あらゆるものは自明、しかし、いつ死んでもの感情は、否この感情の獲得は至難、独自な私の個的な激しい感情。戦争に行くわけではない、不自由な生活をするわけでもない、が、いつ死んでもいいなと―――。実存を理解したなら―――それは、いつ死んでもいいなの地点なのだった。


 結局人は、一人のために生きることが全ての意味なのか、知識のある人は知識を、財のある人は財をなどと言っても、世界はそんなに安易ではない。ただいつ死んでもいいなの感情に到るといった。山谷の冬、既に100人が死んでいると、彼等の死とは何か。世界で、いまも何千、何万の無理死が行われている。これらの死とは。


 エイズの患者達、「この世に生まれてきた意味がつかめたなら幸せだ」と二十一才の青年、ベッドで死を待ち言っていた。「何事もなく色々やってきたけれど、間もなくだわ」と発病の時間を数えていた女性。「私はもう老人にはなれないんだ」と老人と話していてセンチになったと若い女性。五年、十年を死と向きあって生きなければならないことの無意味。私が死を考えるのは、自らの死と向きあってではない。死はただの事実として、生の部分としてとらえているから、死を考えることは意味をもつ。だのに自らの死を知っていて死を考えるなど、拷門にひとしい。いま世界で何百万人がこの拷門を受けているのだった。病んでないで、肉体を通してではなく、精神に、想像に、死が襲ってきているのだった。かつて人が体験したことのない病となって、核の恐怖のように、死の恐怖が個人へ否応なくふりかかって。こんな中で私が、いつ死んでもいい感情などと―――。フランドルへの道のように、ただ人に出来ることといえば、眠りと消滅と自己放棄の感情に抗して、最後まで「いくらかは飽きれはてた、しかしいくらかは感嘆と非難とが同時にこもった、一種呆然とした感じ」に耐えながら、明晰に見続けようと努力することだけなのか。


 エイズで死んだ歌手の追悼集会、彼等の死の意識は集団的である。あの難病で死んだ野球選手と人々との連帯、あれも集団的な死だった、けっして個人の死を描いてはいなかった。個人の、その人の死はいったいどこへ行ってしまったのか。私は見、感じた。人の死が、個別的、個人的であることを。私の文学は、私一人に向かって書かねば、いつ死んでもの感情は、私一人に向かってこそ成立するもの、それ以外では嘘になる世界なのだから。いつ転移、再発があっても恐れない、慌てないと―――、その為に書いてきたのだから。

 自分に向かって書く小説の形式とは、どんなスタイル、文体となるのか?。手記形式は存在感をもつ、物語形式は薄い O、死が五年後かもしれないというのに、やりたいことが、真にやりたいことが何なのか解らないことが不安だと―――。少年の頃にたちかえって考えていると。人は死ぬときには死ぬのだでいいのだろうか、どのように生きても、結局は同じだでいいのだろうか、何事かに夢中の内に死んでいく人の現実。構想力をもって、想像力をもって、テーマに向かって描く。


 Oの肝炎、三割は肝硬変、その内三割はガンへと、彼もエイズと同じこと。彼等の立場にたって、心理にたって、そこから学ぶこと、しかし、拒否感がある。やっと生還した私。嫌なんだった。自分自身が「いつ死んでもいい」と思えただけでいいのだった。死は私だけの問題で。―――。他人の死を通して、そこから孤独、重さ、実存を学ぶなど、私はもうとっくに学んだと思っているのだった。死を人に語るなど、去年から今年へはSさんの死だった。予想した通り、五年生きられた。「五年だったら、書いて遊んでと」―――。


 〔死との対話集〕より、中江兆民「一年有余」、和田久太郎「死刑を直視しつつ」、杉正俊「郷愁記」。杉の日記は心を打つ。闘病のリアルさ、死が闘いである点。精神が揺れるのだった。その点中江は気楽なもの、和田も死刑を望みつつも身体が参っていない分剛直。死は肉体の上にやってくる。その時人は一個の弱い生きものにかえるのだった。その時でもなを、日常と人間の魂を保ち続けることこそが。それにしても、人が死ぬとは、植物や動物が死ぬとは違って大変なことだ。いつ死んでもいいの感情は、生きもの、植物に学ことでなければ。もし人間が、犬や猫のように十年ぐらいで死ぬのだったら、死の感情はもっと明確になることだろう。七十年という長い長い意識のトンネル。私にとって、生命びろいしたということは、五年を経てもなを、また生命を失うかも知れないといった意識を、片時も忘れさせない。行動が伴わず、生き難いと思う日が続くと、それがいつ死んでもいいの感情になるのか、省略の人生でいかなければと締観しても、生きているだけで疲れる日々。

 「人はほんとに身体一つで死んでゆかねばならない、軽くしておかねば」「近いうちに亡き母のもとへゆくような予感がする」「自分の苦悩は自分で耐えねば」「余りにも脆い生命」「人生とは結局こんなものなのだ」「いよいよ最後だ」 ―杉正俊「郷愁記」― 


 この地上で人は働き、学び、喰い、時に遊び、そして人知れず死んでゆく。働き、喰い、働き、喰いと。―――。私にとって生きた満足感がいつ死んでもいいかなの感情を、この五年間一日一日を生きてきたのだったからと。これはがむしゃらではない、死を見つめ、生を見つめての充実、刻一刻であった気がする。かつて青春時代、もっとめまぐるしかった。しかし、それは死を見つめてではなかった、駆けていただけ。見つめて走る、見つめて進ことが―――。名誉や地位、金で、いつ死んでもの感情は得られない。この充実、何気な いものに、日常に、この空間に存在するだけでいい感情、全所有の感情。全部捨ててもいいという感情の中にあった。


 結局私は、最初に出会った実存の命題であった、私独自の(私の死の)所有をめざしてきていたのだった。戦場での強制された死の受容ではなく、死期を知っての受容でもなく、私独自の死の受容。方丈記とも、梶井とも、堀辰雄とも違う私の受容。タルコフスキーの水、緑、あれは死を強制された(ガン)中でのノスタルジーから生み出されたものだったのだ、水、緑への懐かしさ、いとおしさ。最後に廃墟に座り、雪が降るシーン、自分の死との対自がよく出ていた。

 フェルメールの絵が自己完結形だという、視線を見る側に向けていない。静かな空気、日常の営み、ただ存在しているだけのような、遠近法ではなく、平面的な。私もフェルメールのようにありたい、エネルギーに満ちた人々を見ていると、私には出来ない、私自身の方法でしかと。イメージの断片の集合、独白形でしか。知識、技術は、生きている間には身についてくるもの、しかし、心のテーマの問題、何を、何の為に、何故といった、生涯にわたって関わる問題は、巧さでは解決できないのだった。


 死の受容とは、観念や論理ではない。具体的なイメージ、時に物質のように、その人の心に宿った核であるということ。これらを小説化するとはどういうことか。具体的なイメージを積み重ねていくことなのか、私の一日のようなスタイルで、具象を言葉で繋いでいくことか―――。メメントモリ以上に大切な人の宝に思える。最大の悟り、生を肯定しつつ、常に生の側にあって、けっしてニヒルではなく、健康的に死を受容すること。この死の受容のプロセス、意味、これらを繰り返し書くこと。私がやらねばならないと、使命感をもって。人にもし、死の受容がなかったなら、たとえ、天国や、神がイメージ出来ても、確証が持てない人の生への執着。この生への執着を一旦断ち切る方法。けっして一遍でも、親鸞でもなく、哲学のあらゆる観念でもなく、一度死んで、再生の中で掴んだ死の肯定、自然裡な感情。そして、そこから超越も、犠牲も、苦なく生まれてくる姿を。ドストエフスキー的体験ではなく、人、神をなんら疑わない、あるがままの受容を。


 〔私の死の受容プロセス〕、○父母の離婚○父の犯罪 ○親戚での生活 ○養護施設での生活 ○社会主義運動 ○組織と個人の悩み○彷徨 ○結婚 ○父の死 ○K氏の死○Nさんの死 ○Mさんの死 ○Oの自殺未遂 ○作品「父の呼び声」 ○「木の男」○「死者の物」 ○「G線上のアリア」 ○私のガン体験 ○キーツとの出会い ○「ぼくの所有と存在」 ○ディキンソンとの出会い ○「存在のノート」 ○タゴールとの出会い ○「私へのよびかけ」 ○「共感の探究」 ○体力の恢復 ○五年経過、もはや転移はないと。


 昔、人の死に出会い、そのたまらなさに人を求めた。今自分の死を考え、きっと耐えられると。あの手術の痛み、半病人の身体、これらが生の情念から私を遠ざけてくれている。受容が出来て以来、人の病、人の不幸にたいして、自然裡にとらえられ、できるだけの励ましへと変化した。ひたすら受容へ、不幸は人の試練、死への受容プロセスと、全ては希望的存在と考えるようになった。


 健康体から突然に病人へ、生から突然に死へ。私は早期ガンではあったが、告知と同時に強烈に思い知らされ、解決しておかなければならなかった問題が、私の死ということであった。そして、何んとしてもつかんでおかなければならないものが、私の生の本質、真実であった。どうすることも出来ない奈落。人の現実。不条理、宿命と言葉や概念で表されたとしても、私にとっては何の解決にもならない、私の死の問題。


 突然彼は話をやめ、手をあげ人さし指を立てて、じっと耳をすます―――あの彼らの声が聞こえるでしょう―――寂しさふくんだ優しい気持が彼の顔つきを和らげる―――陽気なものですねえ、どうです楽しく遊んでいるんですよ―――仕方ありませんなあ、ああいう年頃なんですねえ―――わたしたちだってあんなように笑いころげていたものですからな―――  ―「サロートの小説」より―

 あの死を待っていた人々を思い起こすこと。私自身解決不能だったあの感情を、死は全ての支配者であり、常に主人公なのだった。


 父が獄中から手紙で、伯母が病気のようだから見舞いに行ってくれるように頼んできた。幼少時わたしが世話になった、父の一番上の姉さん、子供のいなかった伯母さんは、猫を何匹も飼っていて、口うつしに猫にご飯を食べさせていた。らっきょの匂いがしていた台所、私を見る瞳が、私の心の奥底をおしはかるように、いつもしっかりと見据えられていた。しゃがれ声であけっぴろげの伯母だった。


 骨と皮、皮は土色をしてシワがより、ベッドの中で動くこともない、黒い大きな瞳だけの身体になっていた伯母、「父が見舞いにと言ってきて」と言う私の言葉はうわのそらのよう、私の顔を輝やきを増した瞳で追い続けていた。その瞳に映っていたものは、末期に見舞われた喜びもあったのだろうが、何より私が十年振りに、成長した姿を見せに来たことの喜びのように思えた。溢れる伯母の涙は自分の死よりも、末期において見たものの喜び、お妾さんと一緒に暮らしてきた、辛い半生の伯母でもあったから、獄中の弟と、その息子である甥の私への共感。も早何も話せなくなっていた伯母の瞳にこれらを読みとり、近くに住んでいながらの御無沙汰を詫びていたのだった。「また来ます」と言って辞した私だったが、その後見舞うこともなかった。


 人が人を捕らえておく建物の中で父は死んだ。父がまだ生きているうちは、刑務所のことも、そこでの生活のことも、父が生きて手紙などくれていることで、私と同じ社会に生きている気がしていた。ところが父が死んで初めて、父は刑務所に入れられていたのだと感じた。死んでやっと出られた刑務所の塀。人が人を捕らえておく建物の中で、私と繋がっていた父が死んだ。伯父と二人だけの通夜、私は私が刑務所に入れられていたいたような恐怖と無念を感じた。何だったのだろう父の生とは、囚われのまま死ぬ生なんて、三十二才から四十二才の獄中の父の人生、心臓麻痺だったという父は、死を見つめることもなく去ったのだった。


 ほとんど七十才までは生きられない予感がある。この疲れ易さ、この頭の回転の悪さ、またこの間、考えにおいては限界まで深めてきたという満足感もあって、六十才がいい、あと十五年でいいと考えている。春にもう十五回も出会えたら充分だと―――。


 誰かが魂を新しくする作品をと言ってたが、それは人間との対話とは思えない。その新しさとは、神との対話とならなければ。人はもはや救われている。小説が、芸術が、人間を対象にしてばかりで嫌になる。人間によって魂が新しくなど、さんざんやられて来ている。科学の眼をもった文学を、文学の眼をもった科学を、ノンフィクションがいい、世界の事実を通した文学を、文学を通した世界の事実を、私における魂の新しさとは、それらを通した、未知の新しさでなければ。


 マルテの手記はリルケ自身ではない、マルテに仮託して書かれ、リルケ自身の死ではない。自らの死を、他人に、登場人物に仮託するなど私には出来ない。日常において、平静において、自らの死を見つめ、受容していくプロセスをこそ書きたいのだった。北條の「いのちの初夜」が私の等身大であるところに実存を感じるのであって、概念や、虚構からでは、私は見破ってしまう。今、梶井も弱いと思う、芸術的完成があっても嘘を感じる。志賀の「城の崎にて」も。今わたしはああした小宇宙を欲していない。


 かつて私は越えられなかった。決定的な所で越えられなかった。多くの作家、芸術家が越えようとして越えられなかった壁。その壁にたどりつきはするが、引き返し、またその壁の前で佇み、ドンキホーテのごとく竹ヤリで時々刺してみるだけ。


 その壁とは死ということ、主人公の死ではなく、作家自身の、私の死という壁。作家は主人公を死に立ち向かわせることで、解決したかのように考えているが、それはただの虚構であって、私の死ではない。主人公という他人の死に過ぎないのだった。それらは、どれだけでも描けるものだった。カメラマンのカメラのようなものだから、しかし、そのカメラマンが明日自らの死をカメラに収め得るかということなのだった。自らの死とは死に行く自分にシャッターを押すことであるのだった。Mさんの死、O君の自殺未遂、父の死、K氏、Nさんの死、私は文学的にこれらの死を引き付け描こうとして書けなかった。逃げ帰ったそれらの死、自らの死を受容しないでは描けない壁であった。キリストの言葉、世界の現実、アウシュビッツ、いつも越えられず、少し突いては逃げていた。しかし今、私は越えた。この壁の越え方は羽根を持つことであった。空を飛べる羽根、死の受容という、いつ死んでもいいと思える安らかさ、自由さの羽根を背中に生やすことで楽々と私はその壁を越えた。壁の向こうに何か在ったか?。否、この壁は浸透膜のようなもので、濃度によって分子が行き交いするようなもので、私利私欲、不遜という大きな分子を持ったままでは越えられない世界で、壁の向こうには何も表面上は変わらないが、やはり人々が暮らしていた。ダンテの神曲の世界ではない。同じ暮らし、同じ世界。生と死は裏表ではない、生も死も同じ線上。木に草に死はあるか?。人があれは死だ生だと言っているだけ、彼らには生も死もなく、始まりも終わりもなく。

 核の冬の地球にはも早緑も太陽もなく、たれこめた暗雲、枯れ木、崩れかかった家々、灰色のただの惑星。シェルターの中で生き残った私は、人々の食糧を食べて露命をつないできた。いたずらに生きてきただけ。希望のない地球に、何の為の生命、ただ記憶の中の緑と、太陽の希望に溢れていた地球の記憶を食べて、何とか死を拒んできただけ。が、も早記憶も色褪せ、思い起こすこともできない。私は安楽死ルームのドアを叩いていた。


 ソイレントグリーンの安楽死のイメージが忘れられない。シネラマのスクリーにかつての生きものたちに溢れた地球の姿が映し出され、部屋には田園交響曲が流れ、老人達が静かに死んでいく。死体はイエローグリンとなって、まだ生き残る人々の食糧となっていく。


 あのときの手術の痛み、精神の錯乱を体験した今の私には、安楽死は考えられない。死は痛みと苦しみを伴い、最後まで意識をさいなみ、さようなら、ありがとう、などとは死なせてはくれない、しかし今、痛みも苦しみも、死と同じように受け入れようと思う。耐えようと決意している。その為に、あの時の痛みはけっして忘れまいと、腹の傷をさわる度に思い出しているのだった。


 ベッドも人も暗闇なのに、虹を帯び変に明るく輝いていた。私はベッドごと空中を揺れ、身体は羽根になったような軽さで、手、足、身体に感覚がない。眼は外界を見る道具に過ぎず、頭の中に世界の全てがあった。暗闇の中に次々星座が見えた。グラスミュージックのようなきらびやかな音楽も聞こえていた。五分もすればきっと大気圏に突入し、あの重い重力がのしかかってくるのだが、その時までの吸い込まれるような心地良さ、手足、身体が溶けていくようなモルヒネの味。


 騙された―――、二度と騙されない―――、生の楽しさ、それを終わらねばということは、騙されていたということ―――、あの手術の

後の痛みと、モルヒネの快楽―――、生と死のコントラスト―――、死の受容には痛みの体験が必要、あの痛み以上のものはない、あの痛みは決して忘れまい。公園の一周がちゃんと出来なかった。背筋を伸ばしては歩けなかった。記憶は残っている。歩きたい、食べたいと。この死のテーマは他人のことではない、私のこと、私がどうしても解決しておかねばならないこと。


 「末踏」読み返してみる。一生懸命書いていると思える。フィクションで、小説仕立てでは書けなかったのだといま分かる。事実の重み、私の死、知人の死を、フィクションでは書けないのだった。フィクションが有効性を持つのはどんな時なのか、未だ私には分からないのだった。

  「木の男」

 進行性側索硬化症で死んだNさんを思い描いて、Nさんを見ていた私の救いを見い出そうとして書いた。私がああなったらどうするかということ、何よりNさんが夜中になると叫び声をあげ、同室の人に迷惑がられたと、死後看護婦から聞いた、そのことの驚きと無力、たった一人の共感者もNさんには無かったのではないかと、私はといえば、仕事や自分のことに囚われ、見舞いも二度行ったきりで、逃れていた。懺悔と覚悟の作品であった。私も誰とも共感なく終わるだろう、その時一本の木に私は共感を寄せて、木になってと。あの時私は、自分の発病など考えていなかった。しかし、それは予知のように、私の発病の二年前であり、癌は進行していたのだった。


  「花」

 死者への共感からだろう、花を手向けてくれる人がいること、墓参りしてくれる人のいることの喜び、死とは生者のものであるのだから、生きている中にある心地良さは、死の受容が大切なものであった。子にとって母の手向けてくれる花が、何より美しく喜びであった。


  「G線上のアリア」

 私のKへの罪、絆の確認が動機だった。Kは離婚、病後の生活の不安などから堕ち込んでいた。母のような、時に父のような、全てを受容し導いてくれる者としての存在を求め、どこかで私にその代用を頼んでいた。が、その頃の私には理解不能だった。私は自力で切り開いて生き始めていた。私にはまだ人の弱さ、哀しさが解らなかった。為にKの求めも知ることもなく、むしろ、私は更なる情熱に向かって自己を強めようとしていた。Kに私は自殺するほどの覚悟や、勇気があるのなら見せて欲しいと思ったのだった。自殺する者への嫉妬、羨望があった。「死ねよ」と私はKに告げていた。Kは母の予感によって助けられた。作品ではKを殺してしまったが、現実には生きている、私とは以来結ばれた絆でもって。そのKが今、C型肝炎にかかり困難な日々を送っている。


  「死者の物」

 銀河鉄道の中のサソリ座の話、アウシュビッツの話、知人のMさんの死、私は人の自己犠牲の精神ということを考え、越えられない壁を感じていた。罪の問題も、生存するだけで罪であり、人の罪は自己の罪であることも、そして、Mさんの死の虚しさ、人の営為の不条理。私は捉えたいものとして死の周辺を回り、逃げ帰っていた。個人的な私において、私の死の受容がなされていない限り、他人の死、戦争、etcの悲惨は常に、君は、私はと、自らへ跳ね返ってきてしまうものであった。私の死の解決が実感をもって、いつ死んでもいいと受容されていないなら、常に偽善や、二律背反に陥る人の原罪、不条理であったのだつた。


  「癌体験」

 まだ五年。読み返すと、まざまざと体験が蘇る。助かることを信じていた私は、自分の体験を必死に見ようとしていた。時に感情を飛躍、誇張させ、私の実存、私の死を捉えようとしていた。またとない体験と、刻印するようにあらゆる感情を焼きつけ、メモした。あの頃の日記、手帳の中にはくめども尽きない、テーマ、モチーフがある。例えば屋上に書かれていた落書の事、私はあの時、妻に対しあの少女のような、私という生命への愛おしさを求めていたのだった。妻は妻なりにあったのだが、私は少女の一途さに嫉妬していた。私は少女の一途さを自分の中に求めることによって生きようとしていたのだが。人生とは何んぞやなどと考えたこともない、豊かな社会の、普通の男女に突然襲いかかった病魔、恋人が、日常が、意味を持って迫った。生命、少女は激しく抵抗した、不条理に立ち向かった。恋人の生命の終末を通して知らされた。日常の意味、人の存在の意味、少女の認識を通して浮かびあがった。


  「一日の探究、私の所有と存在」

 その頃私は、もしかすると十年は生きられないかも知れないと考えていた。だからこそ、もし五、六年で死ぬようなことになるといけないから、十年をイメージしょうとしていた。その為の一日、一日の意味、実感を確かめておこうとしていたのだった。


 まだ身体は一日についてゆけず、一日の中に私はやっと存在を許されているような気分だった。そんな中で鳥や、木、生きものたちと、自分が一緒にこの一日を所有している存在なのだと知ったのだった。


  「共感の探究」

 私は死にゆくSさんとなら共感できるのではと、実際にも発病以来交流を深め、作品でも探っている。私は健康人とは、切迫した共感は得られないと思っている。私が求めていた共感とは、自らの死の臨場感の中で、はかない者同士としての共感のだった。一瞬でも相手からそのようなはかない者としての、虚しさ、せつなさを読みとれば、言葉、理屈などではなく、共感し合えるものだったが、人の健康さとはこうした共感を奪っていた。Sさんのあの末期の感謝、私は共感出来たと思っているのだった。「ありがとう、生きている感じがする」と涙のうちに聞いたSさんの最後の言葉。


 死にたくないということばかり考えていたのだと思う。まだ恢復していない身体が生きようとすることに精一杯だったのだと思う。五年目の夏を迎えた時、とつぜんにと思える程、体力が回復し、心もそれにつれて昔と変わらぬ姿に変わってきたのだった。体力がつき、心がもう死なないなと実感したからだろうか、五年たてばという生存率の統計を考えてなのだろうか。現金なもので、心はむさぼるように、季節を味わい、旅行に、人との出会い、おしゃべりにと興じた。心なんてほんとにいい加減なもので、寝不足の時、熱のある時、痛む時、どのようにでも変化するもう一人の私、それが心の存在。病気をし、死を身近に感じ、頼りないこの心を思い知らされた。でもいたいけない、剥き出しのセルロースの細胞膜を持たない私の心。あの時の、おののき、錯乱は何だろう。あれで人は、人の心は死んでいってしまうのだろうか。抵抗、諦め、抵抗、希望。その間に、共感、感謝と、短日時に、人それぞれの方法で死を受容して。


 作家の死、人々に、励まし、楽しみ、共感を与えてきた作家達の死、私はきっと結果として、人々に覚悟、その時にあたっての真実、一匹の生命としての共感だけ伝えられればいいと思い描いている。人の末期を、いま私は冷静に見つめることが出来ると。かつては出来なかった、私自身の死のようで、生命の尊厳が何か冒されるような特別な感情を抱いた。しかし、いま人の病気に対して、死に対して、生きているうちは生きるんだ、生きているうちが人生だ、その人の生命だと。死など私は知らない、死は貴方が人々に告げるものだと、死にゆく人と今対等でいられる私、Oの発病も、生きているうちが人生だと、病床であっても、健康体であっても、それは同じこと、病気、死を特別視することもなく、今の私は捉えている。有名、無名、そんなことは私は知らない、私の仕事は私の死に向かっての作業なだけ。いつ死んでもいいと思えたからといって、何かが変わったわけではない。死は依然として生と同じように謎ではある。この謎を生きることを喜びとはするが、死は生きられないと思える分だけ謎が深い。ダンテのように神曲をイメージしたとしても、死を受容するばかりで、死を葬ることにはならない。天文学者がビックバンを考えたように、文学者も生の起源を、死の果てを考えるのだった。


 が、死はタブー、そして胡散臭いもの、何故なら人は生きている。生き続けようとしている、健康な肉体には、死など考える必要もないことだから。O、私の死の受容を理解してくれた。「その通りだと思う」。「やっと自由になれたのだね」と、そして喜んでくれた。笑わないで、嫌わないで、認め喜んで欲しい。やっと掴んだ、どうしても掴みたかつた私のもの、あの痛み、不安、苦しみ、今も続く肉体の不自由の中で掴んだ感覚。私は今、闘いを挑む必要がなくなった。死が闘う敵ではなくなったのだ。味方ではないが、何んでもないもの、無視できるもの、考えないでいいものとしての死になったのだった。生きている間だけの人生として、美しい景色、美味しい食物、芸術、etcの美的、快楽的なものが何でもない、特別なものでもない、この生のありふれた私の部屋、生活と何ら変わらないものとして見えてきた。人の悲劇も、戦争も、病気も、あらゆるものが生の部分、生のあたり前の姿に思えて来た。少しも特別なものではない、あれほど驚き、心痛め、悲しみ、畏れ、憤った世界の現状に対し、素直、自然な感情になっている。地球というもの、観念というもの、日常というもの、生の部分、あたり前の、ありふれた、私の生命のように、在る間は生き続けるだけの存在。


 死を受容した者にとって、死はなんら特別なものではなく、必要において、自然性において捉えられているもの、あたかも持っている食糧を分け与えるかのように行われたものと今思える。世界の多くの犠牲的精神の行動の底に、この死の受容があって行われていると、生ある限りはより良く生きる、喜んで生きることにあると、死は天命であるだけ、もうよい、充分に生きただろう、ハイわかりましたと言うだけのことのような死の受容。


 死の受容をしていく人々の姿がそこに、五年かかってやっと受容できた私、半年、一年でそれをしなければならない人々の心中の疾風怒涛を思う。私はこの五年を日常の何気ない暮らしの中に充分に楽しんだ、そしてもういいと感謝出来、自然裡の受容をしていると思える。それもなく、半年でなど大変なことだ。

 私の心もあれまでだったのだろうか。あれ以上はないと思えるのだった。しかし、それでは何ともつまらない。突然であったことと、若かったことと、考え続けないではいられなかつた。だから考え続けたのだと思う。五年間を、私の死を。そして得たのが、この感情であった。「もういつ死んでもいいなあ」という健やかな死の受容の感情であつた。けなげな、全てを受け入れた、存在への喜びだけの心がそこにはあった。舗道の上を透明なアミーバーのようなものが踊り、敷き石のある空間を大きく包み、時にちぢこまったりと、ゆらゆら揺れて、死の感覚が物質化したような確かさだつた。


 一日一日を生きる感覚の中に居る。かつては一日一日などと区切ることはなかった。永遠に思えた。病後、生きている今だけしか信じられなくなった。明日は奇跡としての一日に変化した。かつては必ず来る一日を信じて疑わないで一日を生きていたが、再発、入院の不安は、例え一パーセントであっても私の死につながった。それは確率の問題ではなかった。そんな中から一日との一体感、一日の中での希望、締観を行うようになった。そして、現在の死の受容へと到った。このプロセスを経て初めて、世界との一体感、存在の意味を実感するようになった。


 人は極度の緊張の後、血圧は下がりα波が出、静かで安らかな状態になるという。私の夜の散歩、思索しているのではあるが、深くではなく、瞑想するように、一歩一歩をゆっくり、刺激の少なくなった夜の空間に漂うように。心地良い気分は、一日が肉体的には結好ハードで、精神的にも死の受容の緊張感をもって生きて、夜を迎えると、今日も生きたと安らぐのだった。

 

 私は、私がこの五年間考え、やってきたきたことが間違ってなかったことを確信した。テーマにおいて、高さにおいて、作家が避けては通れないもの、使命において成さねばならないもの、私自身において到達し得たと思えて、末踏峰ではない、先人達がいずれも踏破してきたものではあるが、いま頂点に立ったと思えて、この地球で、これ以上の高い峰はなくて、私はエベレストに到ったのだ。人において、これが最高の高さ、それは死の受容ということ、事実であり逃れようもない、当たり前のことであったが、このことを獲得し得ているかどうかで、この人生への態度が決まってくる。その上での文学表現であり、人間形成であり、愛であり、諸々であったのだった。


 真実だ、本質だ、すごい、すばらしい、偉大だ、天才、英雄、幸福、最高、などなど、何ごとかを所有しえたと思い、浮かれているうちに自らの実存が迫り、この世の舞台を降りることとなる人間の営み。無限大の死の世界が広がり、生きている、意識している世界とは嘘で、死、無意識、物質の世界だけが真実となる。けっしてニヒリズムからではなく、自然なこととして、世界は無意識が真だと思える。

 いつ死んでもいいの感情を得てから、本来の私は不死、永遠であって、もう一人の有機体としての私が死ぬのだとの印象が強くなった。本来の私とは、私という精神、生まれてこのかた培った心というもの、私の肉体の中に確かに存在していて、日々刻々、生きて変化している私、この私は永遠で、死ぬのはもう一人の私だと。


 二〇〇万年の間に、私が私を考えるものに変化してきたということ。二〇〇万年前、私は私を知らなかった。私の意識はもっと動物に近かかった。ほとんど食べること、腹がふくれれば眠ること、あとは繁殖行動。私は私の死など考えたことはない。私は他の私を知らなかった、仲間を知らなかった。生まれたときから孤独、一人なのだった。親に育てられてはきたが、親とはエサをくれる者という存在。自分でエサがとれるようになれば一人立ちした。私の頭の中は単純、意識は常に外へ向かって開かれ、内を覗き考えることはなかった。それは初め、虫が夕陽を見つめるようなものであった。それがしだいに鳥が、馬がと、そして猿が夕陽を見つめるようにと変化してきたもの。一秒から、十秒、そして一日へと。二〇〇万年の間に、私は私を見つめ続け、もう一人の私を持つ私にと、変化してきたのだつた。


 人間がこの地球に存在する意味を、何か見付けなければと考えたが何も見つからない。あの木にあの花に、あの生物に、何故に何の意味も与えられていないのか。そして、人間もなんら他の生きもの達と変わらないとは。何か意味を見つけださねばと。何もないと、不条理が、原罪が、意味を成さなくなるのだった。


 ガスカール、人間も、この惑星、宇宙が行った一つの表現、変成作用と見ている。人間変化していくものだと。しかし今、私の心と私は全く別者だと思えるのだった。私とは社会によって造られたもの、けっして心によって創られたものではない。心とは、今この舗道で飛び跳ね、喜んでいる、透明なアミーバーのようなもの、そして精神は生と死の超越の中に。植物と、他の生物と何ら変わらない、石とも変わらない、存在そのもののこと。今私は死の受容を通して、心を真に知ったと思える。私などは心にとっては、ただの外套膜だけだったと、いつ死んでもいいなあの感情を得てから、真の私は不死身、永遠の生命へ。


 いつ死んでもいいの感情を抱いてから、全ての可能性を信じられるようになった。人間の進化とはこの可能性の確信だったのではと、死ぬことを予知し、立ち向かった結果だったと。イエスが病人を治し、海を割り、自らも復活する。人は奇跡をその目で見ないと信じないが、その人においては奇跡は見えて、確信されているのだった。人が意識することは全て真実、可能だと信じられるほどの、いつ死んでもいいなという感情との出会い。


 食べれて、歩けて、見ることが出来た一日、世界を、いつ死んでもいいなの感情から見つめると、どれもが奇跡に思え、木の緑、鳥の声、空、風、人が宇宙を旅する時代の人々の感情のような、地球には雨が降り、生きものたちが住んでいることの奇跡性、当たり前のことが死者の視点、宇宙船の視点から見ると、何と輝き、素晴らしい世界なことかと。


 木の言葉が解る、生きものの気持が解るという、未開人のその心が今わたしは理解出来る。いつ死んでもの感情は、自分が木であり、鳥であるとの一体の感情を生む。木の死、鳥の死、そして自分の死、どれも自然死であり、何ら変わりはないと。木も鳥も一人を生きている、そして私もと。理解、言葉など本当は要らないのだった。君も一人なんだ、僕も一人で生きているよで充分だったのだ。


 自分が一匹の弱い生きものであったことを思い出す。何事にも素直で、心地良かった時のこと―――。


 点滴がとれ、十五日振りに屋上に上った。素足にコンクリートが生暖かかった。深呼吸する喉に春風がピリピリと痛かった。手を回し、足も振り上げて見た。血が騒ぐのが分かった。「風に吹かれてみたらあ」と歌も唄ってみた。かすれてはいるが、心地良く喉を振るわせる私の声があった。偶然だったのか、たまたま運が良かったのか、誰が、何の為に私を生かしたのだろう。蘇る感覚に、再び戻ってきた様々な思い出に、涙が一筋一筋、流れて止まらなかった。美しい生きものたちの世界へ、四十年間の楽しい記憶の中へ。


 テーブルにコップ、水、光、この間にうれしい、きれいといった単純な言葉を置いただけの詩であっても、今の私においては一体感を表現し得ていると思える。十年かかってそのコップとの一体感の言葉を探るなど、こと他人との関係においては意味を持っているかも知れないが、物との関係は単純、明晰、一体の関係であるのだった。


 踏み切りで見た線路の石ころたち、この空間に彼らが存在していることの確かさ、驚き、そして畏敬、それに引き換え、線路のむこうに見える、草や木、そして人、家の何とけなげで可憐なことであるか、一夏で生命を終えるもの、時に数百年のものと、しかし、石の存在に比べれば、幻のような、カゲロウのような不在。そして間もなく訪れる私の不在、私は、私を含めた存在を、夢でも見るように眺めていたのだった


    Ⅰ

  母は「ああ、もういつ死んでもいい」

  といった感情を、父を愛したその時よ

  り抱き、お前を宿したその時より、お

  前のためなら「いつ死んでもいいと」

  生きてきたのです。

 

    Ⅱ

  この地上が、仮りの棲み家と知った時

  より、真の孤独が生まれた。この街も、

  この緑も、この生きものたちも、私の

  所有でもなんでもない、草、木、生き

  もの、そして私、彼らと同じ私。

 

    Ⅲ

  罪をほんとうには知らず、罪を犯した

  彼ら、獄につながれ、初めて知った無

  知の涙と共に、憤怒の叫びをあげてい

  る彼らの痛苦に比べたら、私の悲しみ、

  怒りなど


    Ⅳ

  意識が頭から抜け出て舗道に漂う。意

  識が半物質のようになって、辺りの景

  色との輪郭を描く。見ていると、どん

  な感情でも物質化、存在化させられる

  と思えてくるのだった。


    Ⅴ

  死ぬための準備など、死ぬための忍耐

  など、何もする必要はないのだった。

  転移があったら、間もなくバイバイだ。

  ホスピスにでも入って余生を楽しく送

  だけ。

 

    Ⅵ

  「いつ死んでもいい感情なんて、嘘

  でしょう」「貴方にとっては嘘でも

  ぼくにとっては真実」、「ほらこう

  して、いつも肌身離さず持っている

  のです」


    Ⅶ

  風邪で三九度の熱、五年前の手術を思

  い出していた。苦しんでいる私と、そ

  れを見つめている私と、

  あの時私は、私を見守るもう一人の私

  を得たのだった。

 

    Ⅷ

  あの時、私は私の死を笑って人に語っ

  ていた。

  死を人に語れるなど、

  死は人の秘めごと、再びは私は私の死

  を人に語るまい。

 

    Ⅸ

  澄んだ心は

  人と分かち合いたい。

  光、風、木のそよぎ、子供の声、

  どこまでも透明になりたくなる。

  秋の日の、この風のように。


    Ⅵ

  彼の人生は、吹去った秋風のようだっ

  た。

  サッと吹いて、私の前を通り過ぎて行

  った。

  まだ座っている私の前を。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 一級の純文学です。
[一言] いつ死んでもいいと感じた時のきっかけの話は衝撃的でした。
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