紫の兎を見た話
「紫の兎」
蒼白の森の中で、僕は一人歩いていた。
厚手の上着越しにさえ寒い。雪は止んでいるが、辺り一面は真新しい白に覆われていた。
陽が沈みゆくなかで、空は薄暗く蒼い。周囲の森は鬱蒼としていた。
しばらく歩くと小さな池が見えた。凍りつき、底は見えない。
池の際に、紅の綺麗な花が咲いていた。一輪だけひっそりと、いつの間にか現れた月の光を淡く返している。風が吹く。森が泣く。池の向こうに、ふと何か動いた。
兎だ。祖国では見たことがないが、本にあった。
だが、僕の知る兎は白や灰の色、珍しいものでも黒い兎だけだ。
今、冷たい風を受け尚、悠然と跳ねるように歩く兎は、艶やかな紫の毛並みをなびかせている。
その兎の、暗い瞳に目が合った。
僕は瞳の先に深淵を見た気がした。
渦だ。何かが渦を巻いている。外側だ。何も無い。いや、同じものしかなかった。
間違いない。この兎は、知っている。
眩い光の束。感覚が蘇るような感覚。飛び上がるように起き上がると、すぐに悟った。
夢だ。
窓を開けると風が吹き込み、カーテンが揺れた。
寝室から出て工房へと歩く。工房とは言っても研究室のような扱いだ。棚に並べられた瓶の中には黒い渦が巻いているが、それもやがて消滅する。やはり世界に外側を見ることはできないのだろうか。
「いるかー?」
工房の外、店先の戸を叩き、呼ぶ声がした。渋い男の声だ。そういえばまだ店をあけてなかったか。
僕は男に大声で返し、工房を出た。カウンターと壁に建てられた棚には工房で作った薬剤や様々な全く以て何に使えるのか定かでない液体や気体の詰まった瓶、それに宝石や粉、石が置いてある。
戸を開け、男の姿を確認する。
まあ分かってはいたが、この男は近くの酒屋の主人だ。最近はよく僕に特注で薬剤を作らせる。妹が病気だとかなんとか。興味はない。
「やあ、レジナルド。そろそろ来るんじゃないかと思ってたよ」
僕は男、レジナルドにそう言った。相変わらず雑な容姿の奴だ、髭くらい剃ったらどうだろう。
「また髭が伸びてるぞ。そろそろ剃った方が客に好印象じゃないか?」
「いいんだよ、来る時ってのがあんだ。それで?」
「ああ、薬の方はもう準備できてるよ」
工房の奥に仕舞っていた小瓶を取って来る。白みがかった液体は、これでいて無味だ。ほとんどの軽い病に効くが、副作用が怖いので長期の服用を勧めている。
「僕は薬剤師ではないんだがね」
「ははっ、けどこの辺にはそういう奴がいないからな。皆お前を頼ってる」
レジナルドは愛想よく笑ってみせた。こいつの人の良さが、そのまま商売の繁盛につながるのだろう。
「僕がある日突然、居なくなるかも知れないのにさ」
ふと、何かを思い出すような素振りを見せた。
「そういやお前、“紫の兎”って旅人を知ってるか?」
「は?」
紫の兎。
それは、夢で見た兎の・・・あ、いや、今旅人って言ったか?
「何だそれ」
「なんか、願いを一つ聞くと、救いをくれるらしい旅で、自分の事を紫の兎って名乗るらしい。紫色の髪に紫の瞳で、真っ黒な馬で旅をしてるってさ。超可愛いらしいぜ」
「そいつ、今どこに居るんだ?」
少し思案するように顎を撫で、
「知らねえよ」
と素っ気なく答え、彼は去っていった。
紫の兎。
夢に見た、ただの幻かと思っていた。兎は深淵を見ていた。あれは、僕が探している真実を知っている。世界の基盤を。そして、旅人の紫の兎は、夢と関係があるように感じた。
いや、そう思いたかった。でなければ、僕は報われないような、気がしたから。
城壁に囲まれた我が国は狭いが、その心地良い世界が豊かさの所以だろう。
僕は城門へ馬車を走らせていた。長旅になるだろう。門番の兵に軽く挨拶をして、僕は祖国を去った。もう夕暮れ近い。出発は明日にすべきだったが、落ち着いてなどいられない。より遠くへ行かねばと、そんな焦燥が僕を駆り立てた。
壁の先は、広かった。
壮大な世界は、異様な程に美しい。“遠い”と感じさせる景色には、どうにも胸が踊るものがある。
紫の兎に会わねばならない。
たとえ、それが無駄としても、僕だけでは到達しえない領域への手掛かりにはなるだろう。
そういえば、レジナルドの妹が気がかりではある。だが僕には関係ないことだ。
僕は薬剤師ではない。僕は、魔術師なのだから。