往診。
古風な邸宅。
縁側のそばにある部屋で、初老の男が病に伏せていた。
彼は犯罪組織のボスを務める人間だ。
近隣一帯を統括する実力者であり、その名は闇社会でも広く知られている。
そんな男も病には勝てなかった。
末期ガンと診断されて以降、寝たきりの日が続いている。病院も三日前に退院した。最期は自身の邸宅で迎えたいという本人たっての希望だ。
周りに座る部下たちの顔は暗い。堪らず泣いている者もいた。彼らにとって、男は偉大な存在だったのだ。
犯罪組織ではあるが、仲間内の絆と結束力は非常に固い。恩と忠義で繋がっている関係なのだ。
余命幾ばくもない男を見送るため、邸宅にはたくさんの人間が集まっていた。
誰もが心からの感謝を告げる。男は弱々しく微笑み返した。もはや意識すら曖昧なはずなのに、彼は必ず応える。
穏やかな別れの儀式。そこには確かな愛があった。
このまま男は満足して逝き、数日後には葬式が行われるのだろう。
しかし、運命がそれを許さなかった。
「ごめんくださーい。ちょっとお邪魔しますねー」
悲しみに暮れる中、間延びした声が響き渡る。
声が聞こえてきたのは邸宅の入り口の方からだった。
部下たちは怪訝そうに顔を見合わせ、すぐに気を引き締める。
この機を狙って他の犯罪組織が襲撃に来たのかもしれない。
緊迫感に包まれる室内。砂利を踏む音が聞こえてくる。
さらに待つこと暫し。声の主が姿を現した。
年齢は三十歳前後だろうか。整った顔立ちの男だ。
縁側の向こう――敷地内の庭園から出てきたその男は、開口一番に自己紹介をする。
「どうも初めまして。私、医者の世崎と申します」
朗らかに名乗る世崎の風体は異常であった。
手入れを怠ったワイシャツにスラックス。
だらしなく羽織った白衣には、赤黒い染みが点々と付いている。
片手はバス停にあるポール型の標識を引きずっていた。コンクリートの重石が庭園をがりがりと削る。
部下たちは困惑していた。
突然の来訪者にどう対応すべきか判断できなかったのだ。
明らかにおかしな外見だが、物腰は丁寧で柔らかい。世崎が医者という肩書きを口にしたのも大きかった。
この奇天烈な男が、ボスを助けてくれるかもしれない。
根拠のない予感が部下たちの思考を鈍らせる。皆、藁にも縋る思いなのだ。
結局、彼らは無言で世崎の動きを見守ることにした。
もしこの男が期待外れなら消してしまえばいい。そういった手段もあるからこその結論であった。
部下たちの心境もいざ知らず、世崎はマイペースに語る。
「いやー、ここにお住まいの方が病気だと聞きましてね。私でよければお手伝いしようかと思ったんです」
つらつらと喋りながら、世崎は土足で邸宅に上がった。
そのことに何人かが怒鳴ろうとして、すぐさま口を噤む。
見てしまったのだ。世崎の双眸を。
遠目では分かり辛かったが、彼の瞳には深い狂気が渦巻いていた。
楽しげに紡がれる口笛の音色。不規則に翻る白衣。
歪んだ笑みは愉悦を描く。
引きずられるバス停の標識が木目の床を傷付けた。
硬直する部下の間を世崎は進む。
革靴の歩みは眠るボスの前で止まった。
動揺する面々を見回し、世崎は嬉しそうに宣言する。
「それでは治療を始めますねー」
言い終えると同時に世崎は標識を振り被った。
標識の先端が天井の梁を粉砕し、木っ端を散らす。
次の瞬間、世崎は躊躇なく腕を振り下ろした。
思いがけず誰かが声を漏らす。
「あっ」
標識の重石が叩き付けられ、ボスの頭をかち割った。
びしゃり、と血と脳漿が布団の上で弾ける。
ボスの手足が何度か痙攣し、それっきり動かなくなった。
世崎が床にめり込んだ標識を引き抜く。
頭蓋は原型を失っていた。薄い頭髪は潰れ、血肉がべっとりと張り付いている。
衝撃で飛び出したのか、枕元には眼球が転がっていた。ねっとりとした粘液が糸を引く。
惨状を生み出した張本人は、満足げに頷いた。
「ふむ、これでもう苦しむこともありませんな。治療成功です」
爽やかな微笑みは、そのセリフが本心であると物語る。
標識を肩に担いだ世崎は、嬉々として周りの反応を窺った。
「ボス……」
「な、んで……?」
敬愛する男の変わり果てた姿に、部下たちは呆然としている。
あまりの酷さに現実を受け入れられないのだ。
つい数分前までは、別れの挨拶をしていたというのに。
この頭の破裂した死体がボスとは思えない。思いたくない。
部下たちは一様に後悔する。
最初に世崎が訪れた段階で追い払えばよかった。
胸に沈殿する痛みはやがて怒りとなり、その元凶へ向けられる。
室内の人間が殺気立つ中、世崎は意外そうに苦笑した。
「ありゃ、殺し方がお気に召しませんでしたか。とは言っても患者さんは亡くなっちゃいましたし……そうだ、せっかくですから解体ショーでもします?」
名案とばかりに世崎は言ってのける。
常軌を逸した考えだった。完全に狂っている。
部下たちは逆上し、世崎に罵詈雑言を吐き出した。
「ふざけんなよテメェ!」
「見張りは何をしていたんだ! サイコ野郎を招き入れやがって!」
「殺してやる、絶対に殺してやる……!」
騒然とする室内。ついに一人の男が立ち上がる。
彼はボスの一人息子だった。その手には短刀が握られている。
何をしようとしているかは明白であった。誰も止めない。
「親父の仇だあああぁぁぁっ!」
短刀を低く構えたまま、ボスの息子は世崎へ突進する。
世崎は笑みを浮かべて避けようとしない。狂気を湛えた瞳は、迫る男をじっと見据えていた。
鋭利な刃がワイシャツを貫き、その奥にある腹を抉る。
短刀が抜き取られると、鮮血が勢いよく溢れ出した。着古した白衣が一部分だけ真っ赤に染まっていく。
「はぁ、はぁ……やったぞ」
確かな手応えを感じ、顔を上げるボスの息子。
その首が飛んだ。
宙を舞った頭部は転がり、父親の身体にぶつかって停止する。
虚空を見つめる彼の表情には、怒りと悲しみが入り交じっていた。
ワンテンポ遅れて首なしの胴体が倒れる。切断面から噴き出る血液が床を伝い、近くにいる人間の足下を濡らした。
相次ぐ理不尽な死。
再び静寂に包まれた部屋で、白衣の男が微笑む。
その手には真新しい血の付いた標識が握られていた。
「いやはや、なかなかの死にっぷりでしたねー」
親子二人を惨殺した男は、にこやかに小躍りする。
短刀で刺された直後、世崎は標識でボスの息子の首を刎ね飛ばしたのだ。
重石とは反対側――バス停名の記されたスチール板は変形し、千切れた皮をまとわり付かせていた。乱雑な扱いによるものか、軸自体もひん曲がっている。
切れ味のない標識による斬首。
世崎の人外じみた怪力が発揮された瞬間だった。
「わーい、楽しいなぁー」
目を爛々と輝かせながら、世崎は無邪気に喜ぶ。
短刀による腹部の出血が酷いが、特に気にする様子もない。そもそも痛みを感じているのかすら疑わしかった。
狂った殺人鬼は子供のように飛び跳ねる。
「わーい、わーい、わー……い?」
はしゃぐ世崎の胸に無数の穴が開いた。固まる笑顔。
数人の部下が銃で彼を撃ったのだ。
さすがにこれ以上は野放しできないと悟ったらしい。
甚大な被害を前に、ようやく射殺に踏み切ったようである。
弾丸を受けた世崎はよろめき、そのまま倒れ――なかった。
踏み出された一歩が両者の距離を埋める。
想定外の動きに凍り付く部下たち。
彼らの眼前には、標識を構える世崎の姿があった。
「あらよいっと」
気の抜けた声と共に放たれる反撃。
数人の部下が一瞬にして肉片へと変わる。
室内が血飛沫に染まった。バラバラになった人体の一部が散乱する。
標識を振り抜いた世崎は大きく深呼吸をした。
口端は吊り上がり、三日月のような笑みを形作る。
俯きがちとなった世崎は、ぽつりと呟いた。
「……ふぅ。そろそろ我慢の限界です、ねっ」
言い終える前に、標識の斬撃が三人の命を刈り取る。
それに怯んだ部下が引き裂かれ、赤黒い臓腑を晒した。
日本刀を持った中年男は顔面を重石に打ち砕かれる。
背中を見せた数人が薙ぎ払われて天井や壁の染みとなった。
ついに本性を露わにした世崎。
これまでの言動は、彼なりに自重した状態だったらしい。
現在の世崎は殺戮に酔いしれていた。
浮き足立った部下たちは、為す術もなく逃げ惑う。
そんな彼らを世崎は追いかけ、とびきり残虐な方法で殺害していった。
被害は秒速で拡大する。
縁側の一室から隣の部屋を伝って廊下を巡り、ついには邸宅全体へ。
恐怖はあっという間に伝播し、敷地内はパニックに陥った。
「化け物だぁ!」
「ひいいいぃぃ、助けてくれー!」
「こんな馬鹿なことが……」
「お、おいっ! 反撃するぞッ」
我先にと逃げ出す者。
呆然としたまま尻餅を突いている者。
仲間を叱咤して反撃を試みる者。
リアクションは人ぞれぞれだ。
そんな彼らに対し、世崎は平等に襲いかかった。
「あっはっははっははははは! 待ってくださいよおおおぉぉぉっ」
標識が二人分の上半身を斬り飛ばし、勢い余って大黒柱をへし折る。
踏み付けられた女は血反吐をぶちまけた。
もぎ取られた生首が投擲され、隅に隠れる人間を貫通する。
蹴り飛ばされたタンスは襖をぶち破り、奥にいた人間を轢き潰した。
振り回される死体が鈍器となって生者を道連れにする。
突き出された標識は何人かをまとめて串刺しにした。
暴走する世崎によって、組織の人間は次々と殺されていく。
その中には反撃に打って出る者もいた。
組織の幹部が物陰から散弾銃を発砲する。世崎の背中にまばらな穴ができた。破れた白衣がめくれ、ずたずたになった肌が見え隠れする。
意を決した若い女が日本刀で突進した。白刃が世崎の肩に食い込み、そのまま脇腹まで一気に切り裂く。
さらには手榴弾を持って世崎にしがみ付く男もいた。それだけ恨みが強く、絶対に殺したいという想いがあったのだろう。
一部の人間の勇気ある行動が、世崎を着実に傷付ける。
しかし、それは無駄な足掻きに過ぎなかった。
どんなに重傷を負っても世崎は殺しまくる。
銃弾を食らい、刃物で斬られ、至近距離で爆発されようが関係ない。
傷口から骨や内臓が覗いても平然と動き続けた。
「あっははっはははっはは! 楽しいなあああぁぁああああっ!」
狂笑が邸宅内に響き渡る。
不死身の殺人鬼は僅かな反撃も力で捻じ伏せた。
血みどろの肉体で凶器を振るい、ひたすら肉塊を量産する。
そこでは如何なる存在も生きられない。
たった一人の男による、不条理な殺戮だった。
◆
西日に染まる黄昏時。
静寂に包まれた邸宅から世崎が現れた。
ぼろぼろの白衣は血塗れとなり、背中全面が焼け焦げている。
太腿からは短刀が生え、刀が胸部を貫通していた。
腹は大量の銃創で裂けており、零れた小腸が地面を擦る。
首回りに至っては、乱暴に縫い付けた跡があった。赤い筋のような傷はぐるりと一周している。
満身創痍を軽く通り越した状態だ。常人なら数十回は死んでいるだろう。
もっとも、邸宅にて悲惨な死を遂げた百名余りの人々に比べれば、ずっとマシだと言えるかもしれない。
半壊したバス停の標識を片手に、世崎は満足そうに歩き始めた。
「やっぱり鏡を見ながらの裁縫は難しいですねぇ。器用な方が羨ましいです」
世崎は暢気に苦笑する。縫い合わせた首が振動でぐらぐらと揺れた。
血に染まった唇を尖らせ、明るい曲調の口笛を吹く。
仕事終わりの余韻に浸っているのだ。
夕日に目を細め、閑静な住宅街を血塗れで彷徨う。
ふと思い出したかのように、世崎は壊れた標識を投げ捨てた。
いらなくなった凶器の破棄。彼としては軽い気持ちだった。
それから数歩も進まないうちに、前方から突如としてバスが登場する。
急停止したバスのドアが開き、車掌が標識を指差して叫ぶ。
「ちょっと困るよお客さん! 勝手にそれを動かしたら駄目じゃないかっ。これは会社に報告して弁償してもらわないと……」
わざわざそれを伝えるためだけに赴いたのだろうか。
車掌は世崎の姿が恐ろしくないのか。
そもそも、なぜ世崎の居場所が分かったのか。
募る疑問があったが、気にするほどでもあるまい。
肝心なのは怒鳴られた殺人鬼の反応であった。
車掌を見た世崎は黙り込んだまましゃがみ込む。
そして地面に強く手を突き――――土下座した。
「あわわ、すみませんでしたっ! 落とし物かと思って、つい拝借してしまったんです! 今月は懐が寂しいのです。だ、だからお金の請求だけはご勘弁をっ……!」
ぺこぺこと平謝りをする世崎。
それをバスの中から見下ろす車掌。
不死身の殺人鬼にも弱点はあったようである。