僕は君じゃないし、君は僕じゃない
人は解り合うことなどできない。けれど、解り合うための努力も忘れてはいけない。これが僕の持論だ。
どういうことかって?ふむ。では、具体例を上げて説明するとしようか。
そうだな…例えば、ぬいぐるみと言われたらどんなものを思い浮かべる?テディベア?ウサギ?カメ?イルカ?ライオン?だっこちゃん人形みたいなものを思い浮かべる奴もいるかもしれないな。
まあ、単にぬいぐるみと言われて思い浮かべるものは千差万別、十人十色…完全な一致を得る事はまずないだろう。
なら、テディベアと言ったらどうだ。少なくとも、ベアであることは共通認識になる。色や素材、ポーズ、大きさなんかの詳細は一致するかもしれないし、しないかもしれない。まあ、ぬいぐるみと言った時よりは想像するものは近くなったはずだ。
30cmくらいの藤色のモヘアの右手を上げて座ったポーズのテディベア、と言ったらどうだ。これは言ったものと聞いたものの思い浮かべるものはかなり近いものになるはずだ。まあ、前提として、30cmくらいという大きさ、藤色がどんな色か、モヘアがどんな素材か、ということが共通認識として一致している必要はあるが。
互いの思い浮かべるものを完全に一致させようと思ったら、実際にそのベアを見せて、このベアはジョニーという名前なんだ、とかなんとか言えばいい。そうしたら、ベアのジョニーの話なんだけど、と言えば同じものを思い浮かべることになるはずだ。
さて、此処まで言えば、お互いの認識を一致させることの困難さがわかっただろう?これを全ての人間が共通の認識を持てるように、一つ一つの単語で実践していくというのは、現実的に考えてまず不可能だ。しかも、それを目に見えないものに対しても行わなくてはならない。但し目に見えないものは、本当に認識が一致しているか確かめる術はない。
そしてだ、認識の一致ってのは解り合う為の前提条件に過ぎないんだよ。ベアのジョニーと言われて同じものを思い浮かべるだけじゃ解りあったとは言えない。ジョニーが可愛いとか、不細工だとか、まあ何でもいいが感想が一致するか、少なくともお互いの感想に一理あると認め合わなくちゃならない。それがわかりあうという事だ。
ちなみに、ジョニーが可愛いと言ってるやつに、いや、サーシャの方が可愛い、って言って突っかかってくる奴が現れることを宗教戦争という。ジョニーが可愛いということを周りに押し付けてもそれはまた戦争だがな。まあどちらにしても、意見を押し付け合えば争いになることになるわけだ。
大体の人間はこの、認識のすり合わせという作業を軽視している。自分の認識している定義を他の人間も同じように認識しているのだと高をくくっている。まあ、それは一定の正しさを持っている場合もあるだろう。少なくとも、同じコミュニティで共通の認識を持っていないと困る事項なら一致していて当然であるはずだしな。だが、別のコミュニティの、別の価値観の元で暮らしている人間が相手であればそれは当然の事ではない。寧ろ、一致しない方が当然だという事すらあるだろう。
だから、人と人が解りあえない時の何割かは、そもそも前提条件が食い違っている事にお互いが気付いていないということなんだ。それで話がかみ合ってない事に気付けずに話がこじれる、というのは珍しい事、というわけではないと思う。まあ前提が間違ってて話も噛み合ってないのに何故かいい感じに進む、なんてこともあり得ない訳ではないんだが…まあ、レアケース過ぎて喜劇の類だな。
解り合う為の努力というのは、相手がどう考えているのか、どう言えば伝わるのかを考える事であるのと同時に、自分がどんな思い込みを持っているのかを考えるという事でもある。自分の伝えたい事を伝えるだけじゃなく、相手の言いたい事を組み取る事も必要だからね。
これは共通認識を作る時点から言えることではあるが、ただ意見を押し付けるだけではダメなんだ。藤色モヘアのベアは皆ジョニーだって言われたら、大抵の人ははぁ?って言うだろう。まあ、なんだこいつ面倒くさいなって顔してああそうなんですか、って返す人もいるかもしれないが。実際問題、藤色モヘアのベアの全てがジョニーではないし、逆にジョニーというベアの全てが藤色モヘアというわけでもない。
これがジョニーに限った話ではないということを納得できれば、少しは僕の言いたい事もわかってくれるだろうか。




