雨傘
ぬかるみに足を取られないよう、リッカの手を取り、山を下りる。結界を越えた途端、どこか遠かった雨音が、急に大きくなった、気がした。
「ここまで来れば大丈夫だろ」
山の麓、アスファルトで舗装された道までたどりつき、手を離す。リッカは、青い目に溢れる期待を込めて、きょろきょろと辺りを見渡している。
リッカの手に握られているのは、先代が愛用していた和傘だ。朱に塗られた傘に、水滴がはじけ、落ちるのをぼうっと見ていると、リッカが不意に志郎に向き直る。
「ね、シロウ。これから、どこに行くの?」
「まずは文房具屋だな。その後、細かい雑貨を仕入れる」
「ハツカへのおみやげも忘れないでね」
「ああ、忘れてないよ」
話しながら、歩き出す。歪曲や歪神が現れないか不安だったが、今のところ志郎の目にその兆候は見えない。もしかしたら、クメイが隠しているのかもしれないが。
リッカは、傘をくるくる手の中で回しながら、小声で歌を口ずさむ。志郎の知らない言葉と旋律は、目の前にいるのが自分と同じ人間でなく、異界からの来訪者であると思い知らされる。
それでも。握った手は、志郎と同じ温かさだった。その感触を確かめるように、そっと、手を握る。
「何だか、不思議な町ね」
突然、リッカが言った。リッカに気を取られているうちに、周囲の景色は商店街に変わっていた。
傘を差した人が、浴衣姿のリッカを不思議そうに見つめては、目が合いそうになるとすぐ視線を逸らす。中にはじろじろ眺めてくる者もいたが、リッカが笑顔で手を振ると、慌てて小さく一礼し、足早に立ち去っていく。
そんな後ろ姿を見送って、リッカはぽつりと言う。
「人がたくさんいるのに、静か」
「そうか?」
「うん……」
傘の下で不安げに頷くリッカの気持ちも、わからなくはない。志郎とてわかっている。志郎たちは、町の中では、どうしても目立ちすぎる。だから、誰もが二人を遠巻きにする。
リッカに非はないが、道行く人を責める気にもなれない。きっと、自分がリッカを見かける側なら、やはり彼らと同じように、一歩引いた場所から、息を殺して見つめていただろうから。
だから、せめてリッカの不安を和らげられるよう、つとめて軽い口調で答える。
「きっと、雨続きで憂鬱なんだろ」
「そうかな。わたし、雨の日も好きよ」
リッカは長靴で水たまりを踏んで、志郎を振り返る。大きな青い目を瞬いて、ふわりと笑みになる。
「雨の空気、土の香り。それに、雫に濡れる花も好き」
リッカの笑顔に、志郎を気遣うような色はない。素直な思いを言葉に乗せて微笑むリッカは、薄暗い世界に明るく咲いた、一輪の花を思わせた。
そして、リッカが目を留めたのも、また一つの花であった。
「このお花、ずいぶん綺麗な青をしてる」
「紫陽花だ。そっちの世界にはなかったのか」
「お花はいっぱい咲いてたけど、こういう形のお花は知らないの。ここまで鮮やかな青い色も、珍しいよ」
「ああ、そういえばうちの裏手にも、紫陽花が群生してる場所があったな」
「本当? 帰ったら、案内してほしいな」
小さく頷いてリッカを見れば、すっかり青い花に意識を奪われ、周囲の視線や空気からは注意がそれたようだった。
本当は、できる限り早くこの場を立ち去りたかったけれど。じっと道端の紫陽花を見つめるリッカの横顔を見ていると、声をかけるのも躊躇われて。しばし、傘を叩く雨の音を、聞くともなしに聞いていた。