長靴
「お出かけ?」
「ああ。万年筆のインクを新調したくてな。あと、他にも細かいものを仕入れてくるよ」
食料と消耗品は、週に一回やってくる、風海の宅配屋の支給で賄える。だが、町に下りなければ仕入れられないものも、当然ある。
志郎にとっては、屋敷から出るのはただでさえ気が進むことではない。その上、この雨だ。せめて梅雨明けまでは屋敷で粘りたかったのだが、仕事道具が使えなくてはどうしようもない。
紺色の傘を携え、さて出かけようか、と思ったその時、リッカが言った。
「一緒に、行ってもいい?」
「……それは」
断るべきか、と一瞬悩んだ。
リッカは、見かけこそ人とほとんど変わらない。だが、人形のような青い目の少女は、この田舎町では目立ってしかたないだろう。
それに、何よりも、歪神は歪神を呼ぶ。歪神は、この世に存在するだけで、世界の境界を歪ませるものだ。
屋敷には家主による結界が働いているため、必要以上に境界を刺激しないが、一歩結界の外に出れば、他の世界の歪神を呼びかねない。それだけならまだしも、それらの歪神に干渉されて、防ぐ術がリッカにはない。
もちろん、それはリッカ自身もわかっているのだろう。それ以上は何も言わず、うつむきがちに、ただ、志郎の答えを待っている。
すると、梁の上からクメイの声がした。
「行かせてやればいいじゃあないか。後ろは私が見ているよ」
「いいのか」
「たまには私も散歩をしたくてねえ」
「雨は嫌いじゃなかったのか」
そういう気分なのさ、とクメイはくつくつ笑った。リッカのことが心配なのだ、と素直に言えないものか。
とにかく、クメイが見ていてくれるならば、不安も減る。志郎は、依然うつむいたままのリッカの頭を軽く叩く。
「なら、一緒に行こうか。少しでよければ、町を案内しよう」
「いいの? うれしい。町に出るの、初めてなの」
「初めてなのか?」
「そう。しばらくカザミの人たちにお世話になって、すぐ、ここに来たの。だから、外のことをよく知らないの」
そういえば、風海の姫からの手紙にも、そんなことが書いてあった気がする、と今更ながらに思い出す。
「キリアは、町まで付き合ってくれなかったのか」
「うん……わたし、動けるようになったのも、ついこの間だから」
言って、リッカは履き物を探す。リッカの足に合いそうな靴は、最初に履いてきた革靴に、屋敷の敷地内を歩くときに使う草履。だが、雨の中を歩いていくとなると、それでは少々心許ない。
すると、いつの間にかそこにいたハツカが、「ん」とリッカに何かを差し出した。それは、先代が使っていたのだろう、小さな長靴だった。
浴衣には不似合いだが、足元を濡らさないためにはその方がいい。リッカはハツカから長靴を受け取り、にっこりと笑った。
「ありがとう、ハツカ。行ってくるね」
「おみやげ、買ってきてね」
「うん、わかった」
請け負ったリッカだったが、すぐにはっと顔を上げて、志郎を見る。
「……買って、くれるよね?」
当然ながら、リッカは、金を持っていない。買うのはあくまで志郎なのだ。やれやれと肩をすくめながらも、口元を緩めて言う。
「内容には期待するなよ」