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家主

 雨の日に掃除など、気分が重いことこの上ない。

 思いながらも、水を汲んだブリキのバケツに、新しい雑巾を添える。普段ならば面倒くさいと先延ばしにするところだが、何しろ、今は客人がいる。しかも、歪神(ユガミ)とはいえ、志郎の考える「少女」と何一つ変わらない姿かたちと心を持つ、客人だ。むさくるしいところを見せ付けるわけにもいくまい。

 その客人であるリッカは、浴衣の袖を汚さぬようにとハツカに手伝ってもらいながら襷をかけ、白い腕に箒を携え、あちこちを掃いて回っていた。客人の手を煩わせる気はなかったのだが、リッカの方から手伝いたいと申し出てきたのだ、その思いを無碍にする理由もない。

 それに、この広い屋敷を一人で清めるのは、気が進まないということも、ある。こういう時だけは、几帳面で潔癖症な家主の不在を恨む。

 少々危なっかしい手つきながら、廊下の塵を無事塵取りに収めたリッカは、ふと、志郎を振り返る。

「そういえば、このお部屋は、誰も使っていないの?」

 青い瞳を向けているのは、襖に閉ざされた空間。そこに部屋があることは屋敷に暮らしていれば当然わかることだが、志郎も、屋敷に住まう歪神たちも、好んでこの部屋に立ち入ることはない。

 別に、深い意味はない。ただ、近寄りがたかっただけで。

「そこは家主の部屋だ。今は不在で、何もない」

「家主……それが、コバヤシさん?」

「そう。この家の、本当の持ち主だ」

「記録者のお仕事を、シロウに押し付けた人だっけ」

「本当にいい迷惑だ、それで、都会でのうのうと学生やってるんだから」

「学生さんなの。意外と若いのね」

 家主、という言葉から、年かさの人物を想像していたのかもしれない。不思議そうな顔をするリッカに対し、志郎はとんとんと襖を叩いて説明する。

「元々、この屋敷と記録者の役目は、コバヤシの一族に受け継がれてきた。コバヤシの一族は、君も世話になったカザミの分家で、長らく歪神と親しい一族だったから。ただ、つい数年前に先代が亡くなって、先代の養子がこの家を継ぐことになったんだが……これが、記録者にさっぱり向いていなかった」

「記録者のお仕事が難しかったの?」

「いや、まるっきり、逆だ」

「……え?」

「家主は、君と同じように、優秀な記憶力の持ち主でね。この屋敷に残された記録や、屋敷に持ち込まれた歪神の報告は、全て彼の頭の中にあった。だからこそ、先代も養子として迎えていたところはある。だが、家主は、蓄積した知識を出力するのが、とことん嫌いだった」

 苦手、なわけではなかったはずだ。家主は、人からかけ離れた思考回路を持ちながら、人にわかる形にまで物事を噛み砕くことも、さして苦にはしていなかった。

 だから、きっと、まどろっこしかったのだ。自分の頭の中に収まっていることを、手を使って記録する「手間」が。

「それで、ちょうどこの家に世話になっていた僕が、記録者の役目を引き継いだのさ。それをよいことに、家主は家を飛び出して、以来さっぱり寄り付かない」

 本当は、家主が家を飛び出したのには別の理由もあるのだが、それは、リッカに説明する理由もなかった。

 どんな人だったんだろう、と首をかしげていたリッカは、おもむろに襖に手をかけた。

「開けても、いい?」

「ああ、入ることを禁じてるわけじゃない。埃っぽいかもしれないが」

 襖が音もなく開く。

 その向こうには、何もなかった。ただ、八枚の畳が広がっているだけ。人の気配もなければ、調度品があったという痕跡すらもない。

 本当に人がいたことがあるのか、と疑いたくもなる、冷えきった空漠の気配は、家主の完璧主義をこれでもかとばかりに表現していた。

「立つ鳥跡を濁さず、とは言うが、いつ見てもやりすぎだよな……リッカ?」

 いつの間にか、リッカはすたすたと部屋の中に踏み込んでいた。畳の上に積もった埃が、一歩ごとに舞い上がる。

「汚れるぞ」

「どうせ、お掃除してたら汚れちゃうもの」

 朗らかに笑ったリッカは、踊るような足取りで、畳の上に足跡と箒の跡をつけていく。そうして、凍りついた部屋は、徐々に不規則な痕跡に覆われていく。

 白くかすんだ空気の中で、知らない歌を口ずさみながら箒を使うリッカの姿は、まるで御伽話にでも出てきそうだ、と思う。

 すると、リッカから、叱責の声が飛んできた。

「ほら、シロウも。ぼうっとしてないで、手伝って」

 冷え切った気配は、いつの間にか埃と一緒に緩んでいて。何もかもを拒絶していたはずの部屋は、あっさりと志郎を受け入れていた。

 長らく人の手が入らなかった部屋ではあるが、物が無いだけに、そう長くかからずに掃除は終わった。畳に積もった埃はさっぱり消え去り、開けはなった襖から、雨の気配を伴う空気が入り込み、抜けていく。

 息を吹き返したような部屋を見渡して、埃まみれのリッカは、額を拭って息をつく。

「もし、家主さんが帰ってきたら、驚くかな」

「驚いてから、泣いて喜ぶだろうな」

 几帳面で潔癖症な家主の姿を思い浮かべると、自然と頬が緩んだ。

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