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第8話 端緒

「断っておくが、わたしはヴィディチの任務について何も知らないし、関わってもいない。いや、いなかったと言うべきか……」

 ジゴヴィッチは薄暗い食堂(タヴェルナ)の喧騒の中、ポツポツとしゃべり始めた。


「わたしが本当の意味でこの件に関わったのは三日前の夕方、教会近くの酒場で呑んでた時からだ。突然、店の常連らしい男が飛び込んできて、ピレウス通りで火事が起きてると騒ぎ始めた。わたしはそれを聞いて途端に悪い予感がしたよ。わたしがヴィディチ達に用意したアパートメントはそこにあったからね」


 火事と聞いてニーナはギョッとするように身を硬くする。

 今まで陰謀とか政治闘争からは程遠いところにいた彼女でも、そこに暴力の匂いを嗅ぎとったのだろう。考えてみれば火事というのは、そこにある証拠やら何やらをまとめて消すのに都合がいいものである。

 おそらく彼女にしてみてもそこまで考えていたわけではないだろうが、何しろ陰謀の多いセルビアという国の人間である。オシッチにしてもジゴヴィッチにしても同様で、それを事故とか偶然とかで片付けられないようにできているのだ。


「すぐに駆けつけてみると、すでにサロニカの警官や軍人が取り囲んでいて、火の手も周りの何軒かに燃え移っていた。そして火元はやっぱり、わたしが用意した例のアパートだったよ。近くにいた知り合いが教えてくれたんだ」



 酒場や教会、アパートの位置について細々としたことを問いただしたあと、オシッチは眉をひそめて言った。

「警官とは話をしたのか?」


 ジゴヴィッチは肩をすくめて視線を逸らした。

「仕方がなかったんだ。あのアパートはわたしの名前で借りていたし、こっちはこっちで何が起きたのかを把握するためには、警官の話を聞く必要があった――。そこで二人の男の焼死体が見つかったことを知った」


「アピスの話ではヴィディチの同行者と秘密情報部(オクラナ)の人間ということだが、警察はどうやって突き止めたんだ?」


「二人の身元を突き止めたのは警察じゃない、オクラナだよ」


「何だと?」

 自然と声に不審が混じる。

 オクラナ自体、信用ならない相手だということもあるが、彼がオクラナと接触があるという事が彼に対する疑念を抱かせた。


「言いたいことは分かるが、さっき話したとおりそれが私の任務なのだ。少なくともロシアは我々の側にいる」


 確かに皇帝はバルカンのセルビア民族を支持する立場にある。彼の嫁がモンテネグロ出身なのだ。

 しかしオクラナはどうかというと話は違ってくるだろう。先の話のようにオクラナの忠誠心がどこに向いているか、知る者はいないし、存在するかも分からない。

 


 オシッチの疑念をよそにジゴヴィッチは続けた。

「あの場にあった焼死体の一つは彼ら―― オクラナのエージェントのものだったらしい。クローギンというのがその男の名前らしいが、おそらく偽名だろう。ヴィディチは彼をアパートに招いて何事か話し合っていたそうだ。 ――それからもう一人、ベオグラードから来た組織の人間と共にな。 少なくとも勘定は合っている」


「そいつの名は?」


 ジゴヴィッチは考え込む様子を見せたあと、顔を上げて言った。

「確かペータル・ボヤノヴィチとか言ったな。ベオグラードの出身と聞いたが知っているか?」


「知らんな、聞いたこともない」

 オシッチは隣のニーナに目を向ける。

 彼女の方でも心当たりはないようだった。



 一瞬、会話の隙間に不自然な沈黙が混じる。

 横目でニーナと目を見合わせていると、先ほどの若いウェイターが軽食(メゼ)とウーゾ酒を運んできた。


 ニーナが笑みを浮かべて目顔で感謝を示すとウェイターはサッと顔を赤らめ、スキップしかねないほどの軽い足取りで離れていく。

 その後ろ姿を眺めていると、何だか気詰まりな沈黙が多少なりとも柔らいだ気がした。


 一方で、当のニーナはさっさと元の真剣な表情を取り戻し、オシッチに先んじて口を開いた。

「さっき警官と話したと言ったわね? 警察は兄を探しているのかしら?」


 ジゴヴィッチは表情を失ったまま、むっつりと頷く。

「君には悪いが、警官に彼のことを話さないわけにはいかなかった。さっきも言ったようにアパートは私の名前で借りていたし、主不在のその部屋で二人の人間の死体が見つかった。そんな状況で隠し事をしていれば、彼の代わりにわたしが疑われていただろう」



 理解できない話ではない。しかし彼も組織の一員であるなら、我が身を犠牲にしてでも任務に殉じる人間を守って欲しかったところだ。

 とは言え、あまりジゴヴィッチを責めるわけにもいかない。おそらく相手に対する不審がそう思わせたのだろう。

「いいだろう、それで奴はどこに向かったんだ?」


「わかるはずがないだろう? わたしは個人的に彼を知っていたわけじゃないし、彼が何のためにこんな事をしたのかも分からない。だから君たちが来たんだろう?」


「緊急時用の脱出路とか、逃走用の身分とかを用意したのはお前じゃないのか?」


「いや、要求されれば用意しただろうが、彼はそういう事を一切言わなかった。そもそも要求されても時間的に間に合わなかっただろう。それくらい急な話だったんだ」


「つまりアンタに話が来たときには、荷は既にフランスを出ていたという事か?」


「あぁ、ヴィディチが来る前日に連絡があって、彼らの宿を用意するように言われたが、その時にはおそらく積み荷とやらは港を出ていたはずだ。ヴィディチもそう言っていた」



 この返事はオシッチにとって予想外のものであった。というよりまともな返答が返ってくるとは思っていなかったのだ。


 オシッチはタンコシチの館で聞かされた話について、多少の真実は含まれているにせよ話の大部分はでっち上げなのだろうと考えていたし、フランスから届く兵器を云々という部分については全く関係がないものだと考えていたのだが、オシッチの質問に躊躇なく答えたジゴヴィッチの様子から察するに、何か嘘をついたり誤魔化そうとしている様には見えない。


 そうなると考えられるのは三つ、ジゴヴィッチも同じ嘘を聞かされ、それを信じている。彼がオシッチに気取られることなく嘘をつけるほどの熟達した嘘つきである。

 そしてありそうもない事だが、彼が紛れもない真実を述べているということだ。



 オシッチはウーゾのグラスを傾け、一息つくと言った。

「二人共、皿の上のものを片付けてくれ」


「話は終わり、という事かい?」ジゴヴィッチは安堵のせいか、表情をこころもち和らげて言った。「あまり役に立ちそうな話でもなかっただろうが、これから君たちはどうする? 彼を探すのか?」


 ニーナの方に目を向けると、彼女は目顔で頷く。


 オシッチは向き直って言った。

「あぁ、そのつもりだ。しかし状況から見て警察が奴を追っているのは間違いないし、奴もそれに気がつかないほどバカじゃない。おそらくもう、この街にはいないだろう」


「ではどうする? こんなご時世とは言え港町だ。行こうと思えば外国だってどこだって行けるんだぞ」


「わかってる。だが逃亡中の身でそうそう見知らぬ土地に行くことはあるまい。まずはミトロヴィツァへ行こうと思う」


「ミトロヴィツァって――、 コソヴォの? あそこに何があるのよ?」


 ニーナの問いに、オシッチはうつむいて答えた。「思い出ってトコかな、戦争中の。もしかしたら奴も覚えているかもしれない」

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