第6話 案内
サロニカはテルマイコス湾の奥に位置する港町であり、エーゲ海へ向かう航路の中継地として重要な拠点として知られている。
長らくオスマン帝国の支配下にあったこの街はつい二年前、第一次バルカン戦争においてギリシャ軍が奪還を果たし、今はギリシャの一都市となっていた。
しかし主人が変わっても街が様変わりするわけでもなく、いくらかのトルコ風建築が各所に見られ、郊外に残った戦争の傷跡も、街の様子を変えてしまうものではない。
エーゲ海を臨むサロニカ駅に降り立ったミハイル・オシッチとニーナ・ヴィディチは、辺りを見回して異国の空気を吸い、通りに出て異国人たちの中に入り込んだ。
「さあ、着いたわね。これからどうするの?」
ニーナが身体を大きく伸ばしながら聞く。
口には出さなかったが、長く列車に乗っていたため疲れているのだろう。何だか早く宿をとって落ち着きたがっているように見えた。
「とりあえず落ち着ける場所が必要だ。この街に駐在している組織の連絡員と合流する手はずになっているから、そいつに聞いてどこか適当な宿を見つけよう」
「ねぇ、考えたんだけど、そんな人がいるなら兄さんがわざわざここまで来る必要があったのかしら?」
「連絡員の役割はあくまで情報収集と連絡だ、重要な取引に関して決断を下せるような権限は与えられていない。だからヴィディチの他にもう一人、組織でも割と上の方の奴が同行して来ていたらしい。そいつはもう死んじまったらしいが……」
アピスの話ではヴィディチが彼を殺した事になっているが、あえてその事を口にはしなかった。ニーナに話したところで信じるはずもないし、オシッチ自身その事を信じるつもりは毛頭ない。
そもそも顔も知らないし名前も初めて聞くような相手なのだ。
そんな男の生死より親友の失踪劇の方が気になったとしても、非難されるいわれはない。
駅を見渡していると連絡員はすぐに見つかった。
相手の方でもこちらを探すように辺りを見回していたのだから当然である。
連絡員は黄色っぽいシャツと茶色のスラックス、赤いズボン吊りをつけており、茶色いハンチング帽をかぶった三十過ぎくらいの男だった。
男は辺りをキョロキョロと見回してはいたが、こちらに気づいた様子はない。
「アンタがこの街の連絡員か?」
オシッチ達が近づいて声をかけると、男は目を丸くして振り向いた。
「君がミハイル・オシッチか?」
彼はニーナに視線を移すと顔に更に驚きの表情を見せて言った。「一人で来ると聞いていたのだが、その娘は誰だ?」
「ヴィディチの妹だ。ベオグラードから何も聞いていないのか?」
聞いているはずがない。何しろ彼女を連れて行く事について、組織の人間には誰ひとり伝えていなかったのだから。
しかし彼としては、オシッチの嘘を疑うよりもまず通信の不備を疑うだろう。
電報にしろ何にしろ、組織の連絡方法をオシッチは知らないが、目の前の事実に勝るような信頼性があるはずがない。どうせこんな事日常茶飯事なのだ。
彼は何事か思案するような顔つきをしてみせ、やがて合点がいったような表情を見せてうなずいた。
「私が連絡員のラドミル・ジゴヴィッチだ。サロニカにようこそ」
落ち着き先のホテルまで歩く道のりで、彼もオシッチもほとんど口をきかなかった。
オシッチとしては早いところヴィディチ失踪時の状況を聞きたいところだったのだが、さすがに人の目のあるところでその話をするわけにもいかない。
現にオシッチはサロニカ駅で、怪しい素振りを見せていたセルビア当局の者らしき二人組を確認していた。
おそらく当局もこの件に関して事態の推移を確認しておく必要性を感じ、事件の中心であるサロニカに人を寄越して見張らせていたのだろう。
ジゴヴィッチも二人組に気づいていたかどうだか分からないが、さすがに秘密組織の連絡員らしく、人前で口をつぐんでいるだけの分別は備えていた。
ニーナに関しては、初めての土地に来て周りに目を配るのに忙しくてそれどころではなく、歴史あるサロニカの街並みをキョロキョロと眺めていた。
ひょっとしたら街のどこかに兄がいるのでは、という期待があったのかもしれないが、ともかく彼女もあまり口をきくことはなかった。
ジゴヴィッチの用意したホテルはマルガリータ女王通りの端にある、だいぶ小ぢんまりとした安ホテルの2階、廊下の突き当たりにある部屋で、彼はニーナの来訪を知らなかったために部屋を一つしか取っていなかった。
部屋はベッドとナイトテーブルでいっぱいになってしまうような手狭なもので、テーブルには陶製の水差しとガラスのコップが置かれている。その他に設備と言えるようなものは、通りに面した腰高窓と、漆喰の壁に人間らしい色合いを添える茶色いシミくらいなものだった。
「どうしてこんな部屋を選んだんだ?」
オシッチは入口に立ち、部屋を見るなり咎めるように言った。
建物の端っこにあるとは言え、壁は薄くて隣の部屋まで話し声が聞かれてしまう。それに外へ出るには階段を抜けてフロントの前を通る他は窓から身を乗り出すよりなく、もし敵が攻めてきた場合の事を考えると、人目につかずに退路を確保するのは不可能で、とても安全な棲家とは言えない。
「仕方がなかったんだ。今は市内のどこのホテルでも軍人たちが占拠してて、この部屋だって取るのに苦労したくらいだったのだよ」
ジゴヴィッチは口を尖らせて言う。
確かにここサロニカという街と、今の時期を考えれば納得できないことではない。
この街は元々通商上、軍事上重要な拠点であり、しかもこれから始まろうとしている戦争の気配のせいで、世界中の誰もがバルカン半島に目を向けている。そんな時に国が軍人達を安閑と過ごさせるはずもなく、ギリシャ海軍はもちろんオスマントルコや果ては黒海を通ってくるロシアの動静をも把握しようと、各国の“関係者”達がこの街に集まってきているはずだった。
言ってみればオシッチ達は出遅れて来たのだ。
しかしオシッチが納得してもニーナは納得しなかった。
「それよりベッドが一つしかないんだけど。そんな事問題じゃないってワケ? ずいぶんと安く見られたものね」
「ハッ、『安く見られたものね』か、大きく出たな」オシッチは敢えて軽蔑の表情を浮かべて言った。「もっとも言う事は全くのお嬢ちゃんだがな。で、どうする? 野宿するか? それともどこぞの男のベッドに潜り込むのか? お安くない奴の」
「そんな嫌な言い方しないで頂戴、わたしはただ――」
「じゃあ一体何だって言うんだ。彼が言ったろう、彼はお前が来ることを知らなかったんだ。部屋が一人分しかないのも当たり前だし、俺は床で寝るつもりでお前に手を出そうなんて気は全然なかったんだ。それなのにお前はお高くとまって淑女のつもりか?」
「何よ、そんな風に言わなくてもいいじゃない。あたしだって一人前の女だし、そんな子供扱いされるのは頭にくるわ」
「知ったことか、それなら俺は――」
「――悪いがその話を続けるつもりなら私は失礼させてもらうよ」
それまで冷ややかな目で二人の口論を見ていたジゴヴィッチは、同じような冷ややかな声で言った。「通りの向かいの食堂にいるから、話がついたら来てくれ」
ニーナは気勢をそがれたようにうつむいて黙り込む。
ジゴヴィッチが部屋を出てしばらくの間、沈黙が部屋を満たし、耳を澄ませているとやがて階段を降りる足音が聞こえた。
「ごめんなさい、ミハイル、少し感情的になり過ぎたみたい。わたしは――」
しゃべりかけた言葉をオシッチは人差し指を立てて封じ込めた。
窓際に近づいてカーテンの間から通りを伺うと、ジゴヴィッチが横切って行く様子が目に入る。そこまで確認して、オシッチは安心したようにフゥと息をついた。
「もういいぞ、おしゃべりでも喧嘩でも、何なら俺に掴みかかったって構わないぜ」
「ねぇ…… ひょっとして、わざとわたしを怒らせたの? 彼を追い出すために?」ニーナは怪訝な表情を見せて言う。「彼を信用していないの?」
「当然だ、奴だって組織の一員だし、俺は組織の人間を信用していない。それにどんな奴でどんな動機を持っていて、どこに繋がっているかもわからないんだ」
「じゃあ…… あの人も敵ってことになるのかしら?」
「そこまで疑っているわけじゃない。だけどこんな逃げ場のないような部屋を用意されたんじゃ、一応は疑ってかからないとな」
再び窓の外を見た。
さっき駅で見かけたセルビア当局の人間らしい二人組がやはり尾行て来たようで、通りの反対側に立って新聞を読んでいる。
相手はこちらが見ている事に気付いても動揺する様子を見せず、チラと視線をこちらに向けるとまた新聞に目を戻した。
どうやら抑止を兼ねた監視を命じられているらしい。
何か面倒を起こさない限りは邪魔しないが、その何かがあれば当局が黙っていない。という事だろう。
「それからさっきの話だが、お前はここでは寝ない。もし敵方の人間がここを嗅ぎつけたら…… と言うより必ず嗅ぎつけるだろうが、その時にお前がいたんじゃ足手まといになる。ピーターが安全な隠れ家を教えてくれたから、お前はしばらくそこにいてもらうぞ」
ニーナは再び不満そうな表情でオシッチを睨んだ。