第5話 列車
ヴィディチ宅への侵入者騒動の翌日、オシッチとニーナの二人は汽車に揺られ、南へと向かっていた。
ドイツからバルカン半島を縦断してコンスタンティノープルへ至る鉄道、通称『バルカン列車』に二人は乗っていた。
彼が行方を絶ったサロニカにニーナを向かわせるのは、彼女をこの件に深入りさせる事になり、オシッチとしてもあまり気の進まない選択だったが、それ以上にベオグラードに留まる危険を感じていたため、やむを得ない判断であった。
そこに加えてオシッチは、出発前にイギリス人と会った事で一層暗い気分にさせられている。
襲撃のあと、二人はイギリス人スパイのピーターの家に身を寄せた。
ピーターは口では迷惑だと言いながらも、ニーナと顔を合わせて内心では喜んでいるように見え、居場所を敵に知られて帰る家のないニーナと、おそらく知られているであろうオシッチを快く迎え、二人を一泊させてくれた。
彼のニーナへの歓待は知らない者から見れば、彼女に気があるようにも見えただろう。しかしピーター・マーチヘアという人間は、そんなに甘い男でない。
彼は今までヴィディチに妹がいることすら知らなかった。知らされていなかった。
スパイからすれば、他人の隠し事を暴く事は飯の種を拾うようなものであり、何物にも代えがたい魅力である。言うなれば金そのものを見つけたのではなく、金鉱脈へ至る坑道の入口を見つけたと言ったところか。
それを垣間見た喜びが、彼女への歓待という形で現れたのだ。
弱味を握ったとまでは言わないが、きっと次にヴィディチが彼に会うとき、今までよりも彼の頼みごとを断りにくくなっているだろう。
それはオシッチも同じで、二人分の一泊料金とサロニカまでの旅費、そして出国するための二人分の偽装身分をピーターに用意させたために、彼に大きな貸しを作ってしまった。
「ねえ、さっきから何でそんなにため息ばっかりなのよ」
向かい合わせの席でニーナが言う。オシッチとは対照的に、彼女は初めて乗る汽車に少々はしゃぎ気味だった。
「お前こそ、昨日の今日であんな事があったっていうのによく平気だな」オシッチはぶっきらぼうに言い返す。「だいたい誰に狙われているかも分からないんだぞ」
「昨日の人たちはあなたや兄さんの知り合いじゃないの? でなければ組織の人とか?」
「あんな奴ら、知らん。俺やヴィディチだって組織の人間全員知ってるわけじゃないんだ。 ――しかしあれは多分、外国人だ。おそらくロシアから来たんだろう」
「なんでロシアの人が兄さんを探してるのよ?」
「知らん」
オシッチはプイと顔を背けて窓の外を見た。
昨日の襲撃者たちはセルビア語を話していたが、イントネーションなどからおそらくロシア人である事は間違いない。しかしロシアのどちら側か、つまり陸軍情報部か秘密情報部であるかについては、オシッチとしても確証の足りないところだ。
そして彼らが何故、ヴィディチを探しているかについても――。
「そんな顔してないで景色を見てみなさいよ。ほら、あれは何ていう川かしら」
オシッチの思案をよそに、ニーナは嬉しそうに窓の外を指差して言った。
窓から差し込む陽光が彼女の金色の髪に当たってキラキラと輝いている。
縮れて茶色がかった黒髪を短く刈っているオシッチは、同じような金髪のヴィディチの髪を見て、いつも羨ましいと思っていたものだ。
「あれはモラヴァ川だ。しばらくこのまま川に沿って進む事になるな」
「じゃあサロニカまで続いてるの?」
「いや、このままだとこの列車はブルガリア領に入ってしまうから、俺たちはその手前のニシュってとこで降りなきゃならない。そこからスコピエに行って、ギリシャ国境を越えてサロニカに行く。丸一日列車だから結構きついぞ」
「贅沢ね、たった一日汽車に乗っているだけできついだなんて」ニーナは平気そうな顔で言う。
初めて乗るので、いかに列車に乗るだけとはいえども、長旅というものがどれほど消耗するか、知らないのだ。
だがどうせ知る事になる。オシッチはそれに反論せず、黙って尻をもぞもぞと動かした。
「わたしはそれよりも言葉の方が心配よ。ギリシャ語なんてできないもの」
「ギリシャ語は俺もできない。けど向こうに組織の連絡員がいるはずだから、言葉のことで面倒はないはずだ。それにお前はトルコ語ができるだろう?」
サロニカは五百年近くオスマン帝国の支配下にあったため、文化的にも影響を受けており、トルコ系住民も少なからずいる。おそらく通じるはずだ。
「もう随分長いことトルコ語は使ってないわ。兄さんは戦争中に役に立ったって言ってたけど、わたし達がムスタファおじさんから―― ムスタファおじさんっていうのは昔隣に住んでたトルコ人のお医者さんなんだけど、その人からトルコ語を習ったのは、わたしがまだ八歳か九歳の頃よ、もうあんまり覚えてないわ」
「ムスタファおじさんの事ならヴィディチから聞いて知ってるよ。どのみち俺がしゃべれるから問題はない、お前は大人しくしてるんだな」
ニーナはムッとしてオシッチの顔を見る。
オシッチは視線をそらし、なるべく大事な話のように聞こえるよう、声を低くして言った。
「なにもお前を子供扱いしているわけじゃないんだ。どういう訳かお前は妙な連中に狙われている。そんな時に人目を引くような事はしたくないし、してほしくない。サロニカは港町だから外国人なんて珍しくないだろうが、向こうの情勢がどうなってるか、俺にも分からないからな」
「ずいぶんと他人事じゃない。あなただって向こうでは外国人なのよ」
「俺はちゃんとしたトルコ語が話せる。人目につかない方法も知ってるし、そうしながら人を探す事だってできる。それに俺はお前ほど人目につくナリをしてないからな」
「どういう意味よ?」彼女が口を尖らせる。
服装から言えば、彼女の白いブラウスも灰色がかった黒のロングスカートも、セルビアの伝統的な柄のスカーフも肩掛けも、ピーター宅で着替えたオシッチのグレーのスーツと変わらぬくらいには目立たないだろう。
しかし問題は彼女自身で、すれ違う男が皆振り返るような顔では、いくら隠れようと努力しても限界がある。特に海上勤務明けで、色々と持て余している海兵や船乗りの多い港町では尚更だ。
オシッチはいっそのこと、彼女の顔をヒジャブ(アラブの伝統的な衣装でスカーフのようなもの。顔や頭髪を隠すのに使う)で隠してアラブ女で通そうかとも考えたのだが、いくら地中海沿岸と言えどヨーロッパ大陸でその格好をするのは、それはそれで目立つことになるのでやめる事にした。
「とにかく、目立つような事をしなければいいんだ。ヴィディチの事がなくても、俺たちの周りで火種に欠くような事はないからな」
「……それって、戦争の事?」
ニーナの顔が不安で曇る。
彼女だけでなくこの国やその周辺、ヨーロッパ全体が来るべき戦争を予感していた。
そもそもこの国が前の戦争を終えてから、まだ一年と経っていない。その戦争でヴィディチは片足を失い、今度始まる戦争では命さえもどうなるか分からないのだ。 ――オシッチも、ニーナも。
総力戦が始まれば誰がどうなってもおかしくない。
二人も他の乗客も見慣れてしまっているが、窓の外には水をたたえた川や青々とした山の風景に混じって砲撃戦の跡が残っており、崩れかけた民家や橋、戦火の爪痕を見ることができる。
オシッチは軽く頷いて言った。
「オーストリアにはセルビアを攻めたがってる連中がいて、俺たちはオーストリアを憎んでる。トルコはギリシャを取り戻そうとしてるし、ロシアは半島のスラブ系民族を足がかりに勢力を伸ばそうとしてる。フランスはアルザス地方を取り返したがっていて、ドイツはオーストラリアと同盟を結び、自国の防衛圏を広げようとしている。
誰も彼もが戦争をしたがってる。そんな時に俺たちが妙な行動をとれば、誰かが過剰に反応しかねない」
ふと目を上げて見ると、ニーナは大きな目を見開いてこちらを見つめている。
こちらの視線に気づくと彼女は恥ずかしそうに目を逸らして呟いた。
「そう…… そんな事を考えてたのね……」
青白く血の気の引いた彼女の顔を見て、オシッチはこの話題を出した事を後悔した。警戒はもちろん必要だが、あまり怯えさせるのも良くない。かえって余計な行動をしてしまうからだ。
――だからと言って何ができる?
いまさら彼女の不安を消し去る事などできないだろう。
戦争を止める手立てがないように。
二人ともにしばらくの間、黙って列車の外の風景を眺めていると、突然視界が開けて風景が広がった。
山間部を抜けて平野部に出たのだろう。ニシュまではもう一息というところか。
視界の広がりが何かのきっかけになったのだろう。ニーナは話題を変えて口を開いた。
「ねえ、あなたはどうしてトルコ語がしゃべれるの?」
「これのお陰さ」
そう言いながらオシッチは足元を指差した。「俺の父さんは鉄道技師で、ドイツから来た技術者と一緒に仕事してた。その人の周りにはドイツの技術を学ぼうと色んな国の人がいて、その内の一人からトルコ語を、技術者本人からはドイツ語と鉄道の事を習ったんだ」
オシッチは懐かしむように窓の外を見た。
「母さんが早くに亡くなったから、父さんは仕事中、俺を一人にしないように色んな所へ俺を連れて行ってくれた。このバルカン列車も父さんの仕事の一つで、父さんやドイツ人と一緒に乗ってコンスタンティノープルまで行ったりもしたんだ」
だがその父も、もうこの世にはいない。ニーナの両親同様、戦争で亡くなってしまったのだ。
ニーナもその事を知っているはずだが、ありきたりなお悔やみの言葉を口にしたりはせず、ただ一言「素敵なお父さんね」とだけ言った。
「昔の話さ――。 そろそろニシュに着く、乗り換える準備をしておけよ」