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第4話 接触

 ヴィディチはベオグラード中心からやや東、ズヴェズダラ地区に一軒家を借りており、彼はそこにニーナという妹と二人で住んでいた。

 いや、今も名義人は彼のはずだから、住んでいると言うべきかもしれない。

 三十年ほど前にセルビアが独立して、市が発展し始めた頃に建てられたその家は、古くて少々手狭ではあるが、二人で暮らすには十分であり、外観もヴィディチ自身が手を加えたお陰で、家の周りの生垣は青々としており、屋根瓦は一枚も欠けておらず、壁も白さを保っている。そうする事を条件にして、安く借りる事ができたのだと本人が言っていた。


 戦争で右足を失った男がそのような日曜大工をするのは、実際に目にしていなくとも相当に困難な事業だということは容易に想像がつく。しかしそれを彼は一人でやり遂げてしまった。

 オシッチも知っていればもちろん手伝ったのだが、彼は誰にも手伝いを頼まなかった。そういうところに彼の性格が現れている。

 ゾラン・ヴィディチという男は決して人当たりの悪い男ではない。むしろ誰にでも気さくに話しかける、話しかけられる男であり、軍隊にいた頃は、部下の信頼の厚い優秀な下士官として知られていた。どこの酒場に行っても笑顔で迎えられるし、街の女たちにも人気があった。

 だがよくよく思い直してみると、彼は滅多に自分の事をしゃべったりしないし、彼が笑顔で話している最中でも心はどこか別の場所に行っているような、よそよそしさを感じる事がたまにある。気さくで誰とでもお近づきになれるが、一定のラインを越えると薄い丈夫な壁にぶつかり、それ以上踏み込む事を許さないという感じである。

 ある意味で彼はスパイに最も相応しい男なのかもしれない。



 だがその事も今は大した問題ではない。問題なのは、彼の家の前に妙な自動車が一台停まっているということだ。

 別に自動車自体に奇妙なところはない。しかし玄関を半ば塞ぐように停められた黒い車体の脇に、濃い灰色のジャケットを着た男が一人立っていて、タバコをふかしながら通りに目を配っているのを見れば、スパイとしては警戒心を抱かざるを得ない。

 家の中で何かが行われているのは明らかだ。おそらく男は見張り役だろう。服装から察するに、ただの強盗とは思えなかったが、どちらにせよ放っておくわけにもいかない。


 オシッチは人目のつかないところに隠れ、ピーターからもらったリボルバーをポケットから抜き出し、撃鉄を起こしてズボンの腰の後ろの部分に突っ込んだ。上着を着ていないので後ろから見ればすぐにバレてしまうが、緊急の場合にポケットからリボルバーを抜き出す難しさを考え、オシッチは人に見られるリスクを選ぶことにした。どのみち正面からは分かるはずもないし、相手に背を向けるつもりもない。

 次にオシッチはゴミ置き場に近づいて喉に指を突っ込み、無理やり吐いたあと、ゴミの山からブランデーの空き瓶を一瓶掴み、ヨロヨロと灰色ジャケットの男に近づいていった。


 男はオシッチに気づくと、不審に思うような目でこちらを睨みつけてきたが、タバコを手放すことはせず、車の脇から動かなかった。


「なぁアンタ、いい車乗ってるじゃないか。ついでに俺ん家まで乗っけてってくれよ」

 普段、正体を無くすほど酔っ払うことの少ないオシッチではあったが、酔っ払いの真似事なら得意だった。「さっきそこで目を覚ましたんだけどよぉ、ここがどこだか分かんねぇんだ」

 

「消えろ酔っ払い、こっちはお前の相手をしてるヒマなんか――」


 言い終わるか終わらないかの内にオシッチは、倒れ込むようなフリをして相手の懐に入り、右手に握った瓶の口を敵のみぞおちに突き刺す。男はウッと呻いて体を折った。

 オシッチはすかさず左のフックで相手の顎を殴りつけると、瓶を捨ててリボルバーを抜き、相手に突きつけた。しかし思いのほか当たり所が良かったらしく、男は顎への打撃で気を失っており、それ以上騒ぐことはなかった。


 オシッチはすかさず男の持ち物を調べて銃がないことを確認し、男を車の後部座席に放り込むとリボルバーを持ったまま、音を立てぬよう静かにドアを開け、慎重に家の中へ踏み込んだ。

 

 

 家の間取りは何度か来ているので既に知っている。玄関を入って真っ直ぐ伸びた廊下の右側が居間とキッチン、左の二部屋がそれぞれヴィディチとニーナの寝室だった。

 自動車の搭乗可能人数を考えれば、敵は見張りの男を除いて三人から四人。もし彼女を拉致する事を考えているのであれば、そこからマイナス一人ということになる。もっとも、ただの物盗りという線も否定しきれないし、その場合、連中は彼女をどうするか――

 思考が逸れた。

 敵がいる可能性が最も高いのは二つの寝室どちらか、あるいは両方だろう。家探しするのが目的だとしても、三つの部屋にそれぞれ三人バラバラにいる可能性は少ないが、一度に相手にするのはせいぜい二人、多くても三人のはず。イギリス人にもらったリボルバーには弾が六発、少なくとも数は足りる。早撃ちの名人ではないが、立ち回りをしくじらない限りは何とかなるだろう。


 忍び足を止め、オシッチは考えを振り払うように首を振った。


 ――ダメだ、考えすぎている。


 どう思案したところで、行く以外に選択肢はない。ならば考えすぎて出足が鈍るよりも、想定外の事が起こると覚悟して行く方がマシだろう。

 オシッチは歩度を早めて、まずは手前にあるヴィディチの部屋の扉を開けた。


 ――いない。


 となると、後は妹の寝室か居間、それか廊下の奥の便所になる。

 先ほどの優先順位からすれば次はニーナの寝室になるが、扉を開けた音に気づかれているかもしれないので、急いで事を進めなければならない。


 隣の部屋から人の声が聞かれ、次いで男が一人出てきた。見張りの男よりも少し年配で、あごひげを生やしているが、それ以外に違って見えるところはほとんどない。辺りを窺うような表情から服装まで同じに見える。

 そして廊下に出た瞬間、こちらの存在に気がついた。


「貴様! 一体どこから――」


 オシッチの手のリボルバーに気がつき、言葉が途切れる。

 男が驚きに硬直している間にオシッチは走り出し、その勢いのまま男のみぞおちを狙って前蹴りを食らわせた。いわゆる“喧嘩キック”だ。


 男が仰向けに倒れ込んでいる隙に、開いたドアから寝室に目を走らせる。

 また同じような年格好の男が(ヒゲは生えてなかった)ベッドの脇に立っており、部屋の中央に置かれたベッドには、よく見えないが誰か、おそらくニーナが寝ているようだ。

 たぶんベッドに縛りつけられているのだろう。もしくはベッドで殺されたか。



 ヒゲの男の右手が上着の懐に伸びるのを見るというよりは感じ、オシッチは室内の観察を中断して倒れた男の顔をつま先で蹴る。男がウッとうめき声を上げてひるんだ隙にリボルバーの銃口を額に突きつけ、上着に手を入れて相手の拳銃を奪った。

 ベルギー製の自動拳銃(オートマティック)で、この辺りではよく見かけるタイプの拳銃だ。男の所属を示すようなものではない。


「動くな!」

 寝室内の男が叫ぶ。歳は自分よりも若く、20代の前半といったところだろう。男の手には同じ拳銃が握られており、銃口はこちらを向いていた。


 オシッチは若い男の言葉を無視し、ヒゲの男に突きつけた銃をそのままに、ゆっくりともう一方の拳銃を持ち上げて若い男に向けた。

「銃を捨てろ、さもなきゃお前もこの男も死ぬ」


 若い男は長い逡巡のあと、ヒゲの男にチラッと目をやった。おそらくヒゲの男がリーダーなのだろう。若い男の方は、あまりこういう修羅場の経験は浅いように思われた。


「貴様…… ハルコフ中尉をどうした?」若い男が絞り出すような声で言う。ヒゲの男からの指示がないので、とにかく時間を稼ごうというのだろう。

 視界の隅でヒゲの男が顔をしかめて言った。「キッチンにいた男だ、殺したのか?」


「俺を担ごうったってそうはいかないよ、外にいた男の事だろう? だがこれでお前たちの人数が分かった」オシッチはフンと鼻をならして言う。「なかなかのフォローだけど相手が悪かったな。ちなみにハルコフ中尉は生きているよ。もっとも、早いとこ病院に連れてった方がいいと思うけどな」


 あまり若い男にプレッシャーをかけすぎてもいけない。彼の指は引き鉄にかかったままだ。しかしのんびりされたらこちらが不利になる恐れもある。ハルコフとやらが目を覚ませばこちらの負けだ。

「あんまり時間をかけるなよ。警察が来た時、面倒な事になるのはむしろそっちだということを忘れるな。あとハルコフの事もな」


「君は一体何者だ?」ヒゲの男が呻くように言う。いつの間にか『貴様』が『君』になっていた。「何故我々の邪魔をする」

「アンタらのやり方が気に食わなかったからさ」オシッチは若い男から目を離さずに言った。「おそらくアンタ達もヴィディチを探しに来たんだろう? 俺もそうだ。しかし目的が同じでも、立場が違えば仕事のやり方も変わってくる。 ――さあ、拳銃を捨てて外に出るんだ」

 最後の一言は若い男に向けた言葉だった。


 若い男はヒゲの男に了解をとるように視線を動かし、拳銃をベッドの上に放ると、両手を上げて出口に近づいていく。


「君たちが先に出るんだ。まずは若い君から、アンタは俺のすぐ前だ」


 廊下を三人連なって歩いていく光景はなんだか滑稽なものだったが、オシッチは探索する間のなかった居間が気になり、緊張が表に出ないようにと祈った。幸い手元には銃が二つあり、撃つべき目標は二つあるわけだが、もう一つ増えることになれば、相当厄介と言わざるを得ない。


「そうか、君はミハイル・オシッチだな」

 ヒゲの男が突然言い出し、オシッチは飛び上がらんばかりに驚いた。

「びっくりさせないでくれ、引き鉄に指がかかってるんだ」


 男は聞いているのかいないのか、オシッチの言葉に反応もせず、平静な調子で続ける。

「君の噂は聞いている、戦時中はだいぶ活躍したそうじゃないか。だが彼と知り合いだったとは知らなかったな」

「今ではアンタ達とも知り合いだ。嬉しくはないけどな」



 男二人を玄関まで見送り、外に人がいないことを確かめるとオシッチは銃を突きつけたまま二人を外に追い出す。車の中では相変わらず中尉殿が夢の世界で安らかなひと時を過ごしていた。


「なあ、一つ聞いていいか? 何で彼だけ銃を持っていなかったんだ?」

 言ってしまってからオシッチは、その質問をしたことを後悔した。もしかしたら彼だけ車の中に拳銃を置いていた可能性もあったのだ。

 もしそうなら、こちらの手に渡っていない銃が向こうに一つあることを知らせてしまった事になる。 


 若い男が緊張を隠せないまま運転席に乗り込むのとは対照的に、ヒゲの男はゆっくりと助手席側に回ってドアに手をかけると、平然と言った。

「私が取り上げたのだ。彼は何と言うか―― 武器を持たせると必ず試し撃ちをしたがるタイプの男でね。以前もカフェで撃ち合いになりかけた事がある。私としては武器を取り上げて見張りに出すしかなかったのだ。今回はそれが裏目に出たという事になるのかな?」


「そうは思わない。仮に彼が何か持っていても、どうしようもなかっただろうね。 ――さあ、行ってくれ」 



 車が騒々しい音を立てて離れていくのを見送ると、オシッチは家の中に引き返してニーナの寝室に戻る。

 正直なところ、オシッチは彼女の生死に望みを持っていなかった。

 しかしベッドの上で手足を縛られ、ご丁寧に猿ぐつわと目隠しまでされた人間の女性らしきものが、室内に入ってきたオシッチの気配を察知したのか、急にもぞもぞと動きだすのを見て、彼女がどうやら生きているだけでなく、まず無事と言って差し支えない状態にあるのを知り、安堵したこともまた事実だ。


「俺だ、ミハイル・オシッチだ。今解いてやるから動くんじゃない」


 声をかけると女は動くのをやめたので、オシッチはナイフを取り出してシーツの切れ端で縛られた手を、次に目隠し、猿ぐつわの順で切ってやる。

 目隠しを取り去ると大きな灰色の目が露わになり、くすんだ金色の髪がこぼれた。どうやらそれほどショックは受けていないようだが、まだ不安が抜けきらない表情で彼女はオシッチを見る。口を開放してやると彼女はすぐにしゃべり始めた。

「良かった、本当にミハイルなのね? 一体あの人達は誰なの? 兄さんは一体何をしたの?」


「落ち着け」オシッチはピシリと彼女の質問を封じ、フゥと溜め息をついた。「まずは一杯やろう。あいつは確か、寝室の床板の下に秘蔵のブランデーを隠してたはずだ。 ――そいつを頂く、まずはそれからだ」

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