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第3話 間諜

 オシッチがタンコシチ邸を離れた頃には日はもう高く昇っていて、暗さに慣れたオシッチの目は強い日差しを受けて鈍い痛みを感じた。後ろからは先ほどのやり取りを根に持ったイヴェリッチ中尉がこちらを睨みつけている。だがそんな事は些細なことだ。


 来たときよりも活動的になった街の通りを歩き、オシッチは家に向かおうと歩き出すが、アピスに言われた事が胸につっかえるような気がして足が思うように動かない。何だか地に足が付かないような気分だ。

 フラフラと歩き回っていると、十字軍の時代からやっているという噂の酒場が目に入ってきた。今の気分にはピッタリの居場所に思えたが、まだ日のある内から酒を出してはくれないだろう。そうなると後は教会くらいしか行くところはないのだが、酒場の代わりになるような場所ではない。

 二十分ほど酒場の前をうろつき、やっと決心がついてオシッチはサヴァ川沿いの高級住宅地の方へ足を向けた。


 一度行き先を決めてしまえば足取りは軽い。だが用心のため同じブロックを二回ほど周り、尾行の有無を確かめてから住宅街に足を踏み入れる。

 

 歴史を感じさせる重厚な造りをしているが、古めかしいように見えてさほどの年月を経ていないアパートに入り、とある部屋をノックして年配の使用人に訪いを告げる。部屋の持ち主は英国人ビジネスマンという触れ込みの、三十歳代の男だ。

 居間に通され、ソファに腰掛けてしばらく待っていると、不機嫌な様子で主人がやってきた。


「ミハイル、君がここに来るのは緊急の時だけと説明したはずなんだがね」

 男は流暢なドイツ語で話す。だがどこか妙なイントネーションが混じっていた。


 彼らはロンドン仕立てのスリーピースに身を包み、プレッピースクール流の話し方で話す。どこへ行っても英国人で通し、彼らはそれを他の者が真似するまで止めないだろう。もっとも英国人以外で、そんな事をしたがる酔狂がいるとは思えないが。


「緊急の事態が起きたんだ。いいから座って話を聞けよ」

 オシッチはイライラと椅子の上で足を組みかえながら、まずまずのドイツ語で返し、そしてタンコシチ邸でアピスに会った事、そこで話した事を簡潔に説明した。「アピスはヴィディチを疑っている。奴が姿を消したのはアンタの指示じゃないよな? ピーター・マーチヘア」


 なんという間抜けな名前だろうか。

 三月兎(マーチヘア)と言えば、気狂いの事を指す。ある意味では英国人に相応しいと言えるが、偽名を付けるにしても、もう少しマシなものを考えてもらわなければ、呼んでるこっちがバカみたいだ。


「俺たちはアンタのスパイごっこに協力してやるとは言ったけど、アピスに狙われるなんて冗談にもならないぜ。 ――待てよ、今思いついたがアンタがヴィディチを消したんじゃないだろうな?」


「落ち着けミハイル、そんな事をしても私に何の―― いや英国海軍や女王陛下に何の得があるというのだ」

 当然、そんな事は分かりきっている。ただ言ってみただけだった。

「そもそも私は彼がどこにいたかすら知らなかったのだ」

「俺だって知らなかった。奴はサロニカに行くなんて事、一言も言わなかったし、アピスに言われて初めて知ったんだ」


 サロニカは先のオスマン帝国との戦争でギリシャ軍が取り返した、エーゲ海沿岸にある港町だ。良港として知られ、ギリシャ人は長年オスマン帝国の支配下にあったこの町を取り戻す事を熱望していたが、実はギリシャと共に戦ったセルビアやブルガリアも、この町に目を付けていたという。


 ピーターは真面目くさった顔つきで腕を組むと、考え込むように黙り込む。時折チラチラと移る彼の視線をたどり、オシッチは彼の不機嫌の原因に気づいた。チェストの上に置かれたスコッチの瓶には、まだ半分ほど中身が残っている。

 迎え酒には遅い時間だし、飲み始めるには早過ぎる、中途半端な時間なので躊躇しているのだろう。

 ややあって彼は口を開いた。

「彼は一体、何をしにサロニカへ行ったのだ?」


「アピスの言う事が本当だとしたら、奴はあそこで武器を受け取ってマケドニアの連中に渡すつもりだったらしい。計画ではフランス製の武器をセルビア軍の名前で買い、ギリシャ陸軍の護衛付きでシュティープの前線まで運ぶ、その付き添いをやるはずだったんだ」


「何だか妙なやり方だな。ギリシャ陸軍がそこまで便宜を図ってくれるとも思えないし、第一マケドニアに武器を持っていくなら、ギリシャまで持って行かなくてもアルバニアの港で荷揚げすればいいじゃないか」

「俺もそう思う、ヴィディチの奴もそう思っただろう。だが奴は行った」


 アピスが嘘をついている可能性は充分にある。しかしヴィディチにも同じ嘘をついたかどうかは、ヴィディチに聞かなければ分からないだろう。


 ピーターはスコッチの瓶に色目を使うのをやめ、胸ポケットから紙巻きタバコを取り出して一本咥える。彼は火をつける前にオシッチにも一本すすめたが、オシッチは断った。


「俺は自分で巻いたやつしか吸わないんだ。何ならこれをやるよ」そう言ってオシッチは尻のポケットからタバコ入れを取り出し、ピーターに放った。「タンコシチの家でくすねてきたんだ。ちょっとムシャクシャして奴の財産をちょろまかしてやろうと思ったんだが、別にいらないからな」


 タバコ入れを手に取ったピーターは値踏みするように外観を眺めまわし、中を開けて顔をしかめた。

「なんだ、名前が入ってるじゃないか。これじゃいくら値のはるものでも、質屋に持っていけないぞ」そう言ってオシッチにタバコ入れを投げ返す。「スパイ行為に比べれば、窃盗なんて大した事ないと思うかもしれないが、君がもしその些細な犯罪によって警察に捕まる事があれば、私は君の正体が警察に知られたと考えなくてはならない。もう少し自重してくれ」


 ポケットにそれを戻しながら、オシッチは彼の忠告を聞いてはいたが、実際にはそれほど危険な事だとは思っていなかった。もし質屋に持っていったとしても、金に困った軍人が外聞を憚って、使用人に金に変えるよう指示したと思われるくらいだろうし、疑われたとしても官憲に通報するかどうかは別問題だ。


「それよりも、もう少し俺を喜ばせるような話はないのか? 何でもいい、奴の居所について関係がありそうな話とか、サロニカに関する噂話でもいい」

「噂話ならたくさんあるさ、去年あそこの国王が暗殺されたからな。犯人は捕まったが、その糸を引いていたのが誰か、未だに諸説入り乱れているよ。トルコ人とかブルガリア人とか、ロシアの秘密情報部員だとか。その中に君たちの組織も含まれているし、我々英国人がやったのだと言う者もいる。しかしそれは全て噂にすぎない」

「武器取引の件ではどうだ? あるいはロシア人の件で、何か面白い話は?」

「特にないな。ただロシアは、君たちや他のスラブ系民族にいい顔をしたがっているし、フランスに対しても味方にしておきたがっているはずだから、さっき君が言ったような取引に首を突っ込みたがっても不思議はない。 ――ところで殺されたロシアの情報部員というは、どっちの情報部のなんだ?」


秘密情報部(オクラナ)だ」

 オシッチは渋顔を見せ、吐き捨てるように言った。


 ロシア帝国にも他の国と同様、外務省を含めて海外の情報収集にあたる機関がいくつかある。だがバルカン半島で殊更話題に挙がるのは、帝国陸軍に所属する陸軍情報部か、便所コオロギにも劣る良心の持ち主と評判の秘密情報部の二つだ。

 彼らは表面上、皇帝に忠誠を誓っているが、実際には各地の革命派を支援するような行動をとっているらしく、その両天秤にかけるような態度は一部に反感を抱かれていた。


「オクラナが絡んでるとなると、事はだいぶキナ臭く思えるな」ピーターの口ぶりから察するに、彼らに対する考え方もオシッチと同様らしい。

「それで君はどうするつもりなんだ?」


「アピスは俺に『ヴィディチを探せ』としか言ってない。もちろんそこに言外の意味が含まれているのは間違いないが、俺の知った事か。とにかく奴を探し出して事情を聞かないことにはな」

「だがどうやって探す? 組織をアテにはできないだろうし、私にこれ以上の情報を求められても困るぞ」

「とにかく奴の足取りを追うしかないだろう、まずは奴の妹にあたってみる。それからサロニカだ」


 ヴィディチがいなくなったと聞いた時も、事件にオクラナが関わっていると聞いた時にもピーターは大して驚きを表情に出さなかった。しかし今の彼は、驚愕を全面に表していた。

「彼に妹なんかいたのか?」


「いくらアンタのスパイだと言っても、何もかもを教えるってわけにはいかないって事さ。それよりも銃をくれ、足が付かなくて簡単に隠せるようなやつだ」

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