第2話 組織
1914年、バルカン半島。
オスマン帝国の支配からの脱却を求めて行われた第一次バルカン戦争と、2ヶ月しかもたなかった平穏の後の第二次バルカン戦争を経てなお、支配者たるハプスブルク・オーストリア帝国や、その支援を受けたオスマン帝国に対する諸民族の反感は消えず、複雑なヨーロッパ諸国の利害・同盟関係も相まって、かの土地は“火薬庫”と呼ばれるほどに緊張の度合いを増していた。
第二次バルカン戦争においてブルガリアを破り、影響力を増したセルビア、ギリシャ。
そして敗戦によってヨーロッパに所有する土地の大部分を失ったオスマン帝国。
ボスニア・ヘルツェゴビナを併合したものの、民族問題を抱えて対応に追われるオーストリア・ハンガリー帝国、そして同盟関係にあるドイツ帝国。
ドイツの侵略を警戒するイギリスやフランス。西方に影響力を拡大したいロシア帝国。
誰もが戦争の気配を感じ取っていた。
そんな中、セルビア人には、一つの願いがあった。
それはオーストリア・ハンガリー帝国に併合されたボスニア・ヘルツェゴビナを取り戻し、再びバルカンに広範なスラブ人生活圏を構築することである。そしてそれはセルビア民族主義とも繋がり、やがてセルビア国内でその為の秘密組織が生まれることとなった。『黒手組』である。
オシッチやイヴェリッチ中尉らが所属するその組織は、当世風に言えば“テロリスト集団”という事になるのだろうが、その性格は反政府的というわけではなく、組織の構成員もセルビア軍に所属している、或いはしていた者が圧倒的多数だ。
彼らは考え方に違いはあれど、全員がセルビア民族主義を奉じ、セルビア政府から離れたところで活動している。
その創始者が“アピス”であり、彼はその暗号名に隠れて組織を指揮していた。
そしてその男が、オシッチを名指しで呼び出したのだ。
彼の待つタンコシチ大佐の私邸はベオグラードの参謀本部に近くにある、一将校の邸宅にしては少々上等過ぎる建物であり、オシッチはその奥に潜む秘密の会議室でオシッチはアピスと会うはずだった。
しかしその会合は思ったほどスムーズにいかず、玄関ホールに入ったオシッチを二人の近衛兵が身体検査行い、尚悪い事にコートのポケットから一本、ブーツの中から一本、計2本のナイフが発見された事によって、謁見は更に遅れる事となり同行していた中尉はますます苛立ちを募らせた。
ナイフを取り上げられて書斎へ入るとタンコシチ大佐が待っていた。今日は非番らしく、仕立ての良いグレーのスーツに身を包み、安楽椅子にかけてタバコをふかしている。彼はタバコをもみ消し立ち上がると、ジロリと横目にこちらを見やった。
「遅かったなミハイル・オシッチ、アピスがお待ちかねだ」
いきなり人を呼び出しておいて、この態度である。
反感を示すように口をつぐんでいると、大佐は同行していたイヴェリッチ中尉に下がるように命じ、書斎の奥の扉へ入るようオシッチに促した。
「なぁ、一体俺が何したって言うんだ?」ぞんざいな口ぶりで言うと、部屋を出かけていた中尉がギクッと振り返る。しかしオシッチはそれを無視して続けた。「いい加減、用件を教えてくれないか? そうすればこのアホみたいな芝居に付き合おうって気にもなるんだけどな」
「ミハイル・オシッチ…… 元、曹長」中尉は“元”を強調するように言った。「君は我々が遊びでこのような事をしているとでも?」
「そうじゃない、ただいたずらに物事を面倒にしているような気がしているだけさ。答える気がないならさっさと出ていけよ」
中尉は顔を赤くしてこちらに歩み寄ってきたが、大佐がそれを手振りで制した。
「中尉、下がっていなさい。私が話すから」
大佐が言うと中尉は憤懣やるかたないという表情で、足音も高く書斎を去っていく。その後ろ姿を見送ると彼は、モノを知った老人のような態度でこちらに語りかけた。
「君の言う事ももっともだが、中尉の言うとおり我々は遊びでこうしているわけじゃない。アピスはこの事を秘密裏に行う事を望んでいる。そしてこれは非常に重要な問題なのだ」そう言いながら彼は奥の扉を開き、再びオシッチを促した。「用件はアピスの口から直接聞いた方がいいだろう、入り給え」
別に大佐の言葉に納得したわけではないが、オシッチはこれ以上続けても無意味だと判断して扉の中へ足を踏み入れる。
扉の向こうは地下に続く階段だった。石を組んだ壁で覆われた通路は暗く、階段の底に見える部屋から漏れる光がなければ何も見えない。
一体タンコシチはこの地下室を造る時、大工に何と言って造らせたのだろうか。
地下室と言えば貯蔵庫とかワインセラーとかが一般的だが、その入口を書斎に持ってくるというのは妙な話である。これを造った者は、大佐のことを余程の呑んべえだと思ったかもしれない。
だが乱痴気パーティーを開いていると思われるよりは、その方がマシだろう。
地下室は狭かったが、燭台に灯る明かりでは照らしきれない程度の広さがあった。中央には仰々しく大きな円卓が置かれ、既に3人の男が席についている。これから秘密の交霊会を行うと言われたら、たぶん信じていた。
テーブルの一番奥には牡牛の仮面をつけ、黒いローブに身を包んだ男が座っている。この男こそ秘密組織の長であり、オシッチを呼び出した張本人、アピスだ。
他の二人は顔は知っているが名前が思い出せない組織の幹部で、その内の一人は確か組織の資金係をやっていたはずである。
タンコシチ大佐が進み出て、仮面の男の脇にある空いた椅子に座る。辺りを見るがオシッチの座る席は見当たらない。仕方がないので、円卓の端のポツンと空いたスペースに進み出て立った。
そうするのが自然だと思ったからだが、何だか判事の審問を受ける被告人のような気分になった。
「ミハイル・オシッチ、我が同志、よく来た」アピスは感情の混じらない声で迎えた。「急な呼び出しですまなかったな、少々聞きたい事があったのだ」
中尉や大佐と違い、アピスの声からはさっさと本題に入りたそうな雰囲気が感じられる。奇妙な出で立ちとは裏腹に、オシッチはアピスの事を軍人、それもそれなりの地位にある将校だと思っていた。
「構いません。あなたが望むなら、こちらはいつでも応じる用意はできています」オシッチはできる限り本心で言っているように聞こえるよう、声の調子に気をつけて言った。イヴェリッチ中尉が聞いたら涙を流して喜ぶだろう。「それで聞きたい事というのは何です?」
アピスはオシッチのおためごかしに満足そうに頷くと言った。
「実は君の友人、ゾラン・ヴィディチに関する事なのだ。彼について、何か聞いているかね?」
ゾランはオシッチと同じ黒手組に属する元軍人であり、オシッチにとって唯一、親友と言える男だ。
彼とオシッチはオスマン帝国との戦争で一緒の中隊に配属された。ベオグラードの同じ街区に住んでいたこともあって、二人はすぐに軍隊生活の様々な事柄を分かち合うようになり、その後のブルガリアとの戦争、そして今に至るまで交流が続いている。
彼はブルガリアとの戦争で片足を失い、軍籍を離れたが、戦争中にオシッチと共に参加した黒手組の活動は続けている。 ――はずである。
だがここ数日、彼の姿を見てはおらず、オシッチの方でも不思議に思っていたのだが、彼だって子供ではないし、特に心配するほどの事ではないと思っていた。
オシッチが何も言わないでいると、タンコシチはそれを不従順と受け取った様子で声色を低くして言った。「これは重要な事なのだ、ミハイル・オシッチ。黙っていると君のためにならんぞ」
「別に隠し事をしようってんじゃない、何も言う事がないだけだ。彼とは先週、一緒にメシを食ったが、そんな事が聞きたいわけじゃないんだろう?」オシッチはアピスに向き直った。「彼が一体どうしたと言うんです?」
「同志ヴィディチは秘密の任務中、突然消息を絶った。一昨日の事だ」アピスに先んじて資金係の男が口を開く。やたらと声の高い、とても軍人とは思えないその男は、顔に緊張の色を滲ませて言った。「彼には同行していた仲間一人とロシア秘密情報部員を殺害した容疑がかかっている」
オシッチは驚きを隠せず、何も言えないまま、ただ血の気が引いていくのを感じた。
まるで後ろからいきなり殴りつけられたかのような気分だった。
空中に放り出された言葉がしっかりと脳に刻み込まれたのを確かめると、アピスは重々しい口調で言った。
「我々は絶対に裏切り者を許さない。もし君が何か知っていて隠しだてするようであれば、君も同罪だ」
当時の政治状況についての言及がありますが、正直なところ複雑すぎて、自分でも理解が追いついていません。なので誤りなどもあるかと思いますが、ご容赦下さい。