第一章 悲劇
東京。
世界で最も食文化が発展した都市。
ありとあらゆる料理が集まり、 ありとあらゆる人々が行き交う。
そして。
ありとあらゆる肥満、喰肉ーデーブーが存在する街でもあった。
奴らは人間社会に潜む亜人種。
外見は人間と変わらない。
言葉を話し。
働き。
恋をし。
家族を持つ。
だがひとつだけ決定的に違う点がある。
彼らは異常な食欲を持つ。
その原因は体内に存在する特殊細胞。
KFC細胞。
喰肉の身体能力や再生能力を支える細胞として知られている。
だが同時に。
彼らへ際限のない食欲をもたらす細胞でもあった。
満腹という概念が存在せず、食べても食べても終わらない。
胃ではなく脳が満たされない。
常に飢え続ける。
多くの喰肉は理性によってそれを抑制している。
だが、ひとたび制御を失えば。
人もまた食べ物となる。
それが喰肉。
人類が長年恐れ続けてきた存在だった。
「……またか」
金森硏はスマートフォンの画面から目を離した。
ニュースアプリには見慣れた見出しが並んでいる。
【第20区で行方不明者発生】
【CGC、喰肉による犯行を疑う】
【住民へ夜間の外出自粛を呼びかけ】
テレビでは毎日のように失踪事件が報じられ、ニュースキャスターは深刻そうな顔で喰肉への警戒を呼びかける。
CGCー喰肉対策局ー。
彼らは人知れず喰肉と戦い、人々を守っているらしい。
――らしい。
金森硏にとって、それはどこか遠い世界の話だった。
少なくとも、この日までは。
「見てるなぁ」
向かいの席から声が飛んできた。
硏は顔を上げる。
そこには太近味良がいた。
テーブルの上には空になった丼が二つ。
そして現在進行形で食べているカツ丼が一つ。
さらに運ばれてきた唐揚げ定食。
「何がだよ」
「喰肉の記事」
味良は当たり前のように言った。
「好きだなぁ、お前」
「別に好きじゃない」
「毎日見てるじゃん」
「気になるだけだ」
「それを好きって言うんだよ」
味良は笑った。
硏はため息を吐く。
昔からこうだ。
適当そうに見えて妙に鋭い。
二人がいるのは第20区でも有名な店だった。
大盛り定食屋あんていく。
学生街の外れにある古びた店だが、その人気は高い。
理由は単純。
安くて美味くて量が多い。
学生の味方だった。
「そういやさ」
味良がカツを頬張りながら言う。
「今日も来てるぞ」
「何が」
「何がじゃねぇよ」
味良は箸で店の奥を指した。
窓際の席。
そこには一人の女性が座っていた。
艶のある長髪は黒く見える。
だが陽の光を受けると、その髪はどこか紫色にも見えた。
喰代梨世。
整った顔立ち。
落ち着いた雰囲気。
大学内でも有名な存在だった。
「見てるなぁ」
「見てない」
「いや見てる」
「見てない」
「見てる」
「……」
図星だった。
喰代梨世。読書家。成績優秀。
そして大食家。
彼女があんていくへ来る理由も、おそらく最後の一点が大きいのだろう。
テーブルには定食が三つ並んでいた。
味噌カツ定食。
生姜焼き定食。
唐揚げ定食。
すべて一人前である。
「相変わらずすげぇな」
味良が感心したように呟く。
「お前が言うな」
「俺でもあんなには頼まないぞ」
「説得力がない」
味良の前には四杯目のご飯があった。
その時だった。
ふと。
梨世が読んでいる本が目に入った。
「ん?」
硏は思わず目を細める。
見覚えがある。
あの表紙。
あの装丁。
『孤独の特盛』
著者・飛虎摩呂
「あっ」
思わず声が漏れた。
「どうした?」
「飛虎摩呂先生だ」
「飛虎摩呂?」
「知らないのか?」
「名前くらいは聞いたことあるけど……」
硏は少しだけ身を乗り出した。
「グルメエッセイの人だよ」
「へぇ」
「月刊もぐもぐの連載で有名な」
「へぇ」
「すごく面白いんだ」
「へぇ」
「興味なさすぎだろ」
「だって本は食えないし」
硏は呆れた。
だが。
視線は再び梨世の本へ向いてしまう。
飛虎摩呂。
食について語りながら人生を描くコラムニスト。
硏が最も好きな作家だった。
その時。
梨世がふと顔を上げる。
目が合った。
心臓が跳ねる。
慌てて視線を逸らす。
しかし。
梨世の視線は硏ではなく、その手元へ向いていた。
テーブルの上。
そこには一冊の雑誌が置かれている。
『月刊もぐもぐ』
飛虎摩呂の連載ページが開かれていた。
梨世の目が少しだけ見開かれる。
そして。
静かに席を立った。
硏の心臓が跳ねる。
まさか。
いや、そんなわけがない。
自分の方へ向かってきている気がする。
気のせいだ。
きっとそうだ。
そう思っていた。
だが。
喰代梨世は真っ直ぐこちらへ歩いてきた。
そして。
テーブルの前で立ち止まる。
「飛虎摩呂先生、お好きなんですか?」
優しい声だった。
硏は一瞬何を言われたのか理解できなかった。
「え……?」
間の抜けた声が漏れる。
梨世の視線は雑誌へ向いていた。
飛虎摩呂の連載ページ。
ようやく状況を理解する。
「あ、はい」
慌てて頷く。
「好きです」
言った直後に後悔した。
もっと気の利いた言い方があっただろう。
だが梨世は微笑んだ。
「私もなんです」
その一言で。
硏の頭が真っ白になった。
「え?」
「飛虎先生の文章って素敵ですよね」
梨世は雑誌へ目を落とす。
「料理の話なのに、読んでいるとそのお店に行った気分になるというか」
「わ、わかります」
即答だった。
「特にこの前のチャーハン特集とか」
「わかります!」
声が大きくなった。
梨世が少し驚く。
硏は慌てて咳払いした。
「すみません」
「ふふっ」
梨世は小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間。
硏は自分の顔が熱くなるのを感じた。
向かいでは太近味良が面白そうに眺めている。
「よかったな」
「黙れ」
小声で返す。
「……月刊もぐもぐは毎月買ってます」
「私もです」
「えっ」
「今月号はもう読みました?」
「もちろん」
気付けば会話は止まらなくなっていた。
好きなコラム。
好きな店。
飛虎摩呂の独特な表現。
話題はいくらでも出てくる。
まるで昔から知り合いだったみたいに。
自然に。
心地よく。
時間だけが過ぎていった。
「これ、見ました?」
梨世が雑誌のページを指差した。
今月号の特集記事。
【第20区新規オープン】
【フライドチキン食べ放題フェア開催】
【制限時間九十分】
「ああ」
硏も見覚えがあった。
駅前に新しくできるレストランだ。
飛虎摩呂もコラムで取り上げていた。
「行ってみたいんです」
梨世が呟く。
「フライドチキン、お好きなんですか?」
「好きです」
即答だった。
「すごく」
なぜか少しだけ迫力があった。
「飛虎先生も絶賛してましたし」
梨世は記事を眺める。
「揚げたての狼煙が店中を満たし、気付けば骨の姫路城やぁ――でしたっけ」
「はい」
硏は思わず笑った。
飛虎摩呂らしい表現だった。
「美味しそうですよね」
「そうですね」
少しだけ沈黙が流れる。
やがて梨世は困ったように笑った。
「でも、一緒に行く人がいなくて」
「え?」
思わず聞き返す。
誘う相手なんていくらでもいるだろう。
「みんな断るんです」
「どうしてですか?」
梨世は少しだけ視線を逸らした。
「私と行っても元が取れないって」
一瞬。
硏の脳裏に、今テーブルの上に並んでいる三人前の定食が浮かんだ。
「ああ……?」
思わず考えてしまう。
「ひどいですよね?」
梨世が少しだけ頬を膨らませる。
「いや、その……」
否定しづらかった。
「やっぱりそう思います?」
「いえ!」
慌てて首を振る。
梨世はくすりと笑った。
「冗談です」
どうやら少しからかわれていたらしい。
「金森くんは?」
「え?」
「食べ放題とかよく行くんですか?」
「いや……あんまり」
硏は苦笑した。
「友達少ないので」
言ってから少しだけ後悔した。
だが梨世は笑わなかった。
「そうなんですか?」
「はい」
「太近くんは?」
「彼と行くと食べすぎて出禁にされるんです」
ちらりと味良を見る。
味良は既に五杯目のご飯へ突入していた。
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言ったんだよ」
「ひどいなぁ」
味良は楽しそうだった。
梨世が小さく笑う。
「仲が良いんですね」
「腐れ縁です」
「なるほど」
そして。
少しだけ。
本当に少しだけ寂しそうな顔をした。
「よかった」
「え?」
「私も、あまり友達が多い方じゃないので」
意外だった。
大学では有名人だ。
話しかけられている姿もよく見かける。
そんなことを考えていると。
「知り合いはたくさんいるんですけどね」
梨世は静かに笑った。
「友達って難しいです」
その言葉に。
硏は少しだけ共感した。
「そうかもしれませんね」
気付けば。
もっと話したいと思っていた。
飛虎摩呂のこと。
好きな店のこと。
好きな料理のこと。
もっと。
この人のことを知りたい。
そんなことを考えていた時だった。
「もしよかったら」
梨世が言う。
「今度、そのお店に一緒に行きませんか?」
時間が止まった。
「え?」
間の抜けた声が漏れる。
「フライドチキンのお店です」
梨世は少しだけ不安そうに続ける。
「ご迷惑でしたか?」
「い、いえ!」
反射的に答えていた。
「ぜひ!」
梨世の表情がぱっと明るくなる。
「よかった」
硏は、自分が今とてつもなく幸せな状況にいることだけは理解していた。
それからもしばらく。
二人は飛虎摩呂の話で盛り上がった。
気付けば閉店時間が近づいていた。
「じゃあ、来週の土曜日で」
連絡先を交換しながら梨世が言う。
「はい」
硏は頷く。
夢じゃない。
本当に連絡先を交換した。
「楽しみにしてます」
梨世はそう言って立ち上がった。
「私もです」
言ってから恥ずかしくなる。
梨世は小さく笑った。
「それじゃ」
店を出ていく。
扉のベルが鳴る。
硏はしばらく動けなかった。
「行ったぞ」
味良の声で現実へ引き戻される。
「……」
「おーい」
「……」
「魂抜けてるぞ」
「うるさい」
顔が熱い。
「まさか連絡先まで交換するとはなぁ」
味良は感心したように言う。
「奇跡か?」
「うるさい」
「明日雪降るかもなー」
「黙れ」
味良は楽しそうだった。
「でもよかったじゃん」
「何が」
「お前ずっと気になってたろ」
硏は返事をしなかった。
否定できなかったからだ。
「可愛いしな」
「……」
「美人だし」
「……」
「少食だと言ってる割にはいっぱい食うし」
「そこ重要か?」
「重要」
即答だった。
硏は呆れた。
だが。
不思議と悪い気はしなかった。
胸の奥が少し温かかった。
帰り道。
夕暮れの第20区。
硏は一人で歩いていた。
スマートフォンを取り出す。
喰代梨世。
登録されたばかりの名前。
何度も画面を見てしまう。
頬が緩む。
馬鹿みたいだ。
だが。
嬉しかった。
そんな時だった。
ふと。
視界の端にニュース映像が映る。
電気店のテレビ。
『第20区で発生した連続失踪事件について、CGCは本日――』
スーツ姿の捜査官が映し出される。
画面の下には。
【喰肉による犯行と断定】
という文字。
硏は足を止めた。
またこの話題か、とは思ったもののやはり実感はなかった。
その頃、第20区の裏路地では人気のない路地に一人の男がいた。
コンビニ袋を提げた会社員。
残業帰りなのだろう。
疲れた足取りだった。
ふと。
足音が聞こえる。
後ろから。
ゆっくりと。
重い足音が。
男は振り返る。
誰もいない。
「気のせいか……」
再び歩き出す。
だが。
足音は消えない。
ひとつ。
またひとつ。
距離が近づいてくる。
男の額に汗が浮かぶ。
そして。
路地の奥。
街灯の下に。
一人の女性が静かに笑っていた。
男は立ち止まった。
街灯の明かりが届く場所。
そこに立つ女性を見つめる。
「……喰代さん?」
どこかで見た顔だった。
大学の広告。
雑誌のインタビュー記事。
街中で見かけることもある。
有名人だった。
だから。
男は少し安心した。
少なくとも。
路地裏で出会う相手としては。
「こんばんは」
梨世は微笑む。
いつもと変わらない。
穏やかな笑顔。
「こんばんは」
男も会釈を返した。
それだけ。
本来ならそれだけで終わるはずだった。
だが。
梨世は動かなかった。
ただそこに立っている。
まるで。
何かを待つように。
「……?」
男は首を傾げる。
その時だった。
ぐぅぅぅぅぅ。
腹の鳴る音。
異様なほど大きかった。
男ではない。
梨世だった。
一瞬。
その表情が歪む。
苦しそうに。
悲しそうに。
何かを耐えるように。
「大丈夫ですか?」
男が尋ねる。
梨世は答えない。
代わりに。
男の持つコンビニ袋へ視線を向けた。
唐揚げ弁当。
焼き鳥。
フライドチキン。
ポテト。
コンビニで買った夜食だろう。
梨世の喉が小さく鳴った。
「美味しそうですね」
「え?」
「それ」
男は袋を持ち上げる。
「ああ、残業帰りで腹減っちゃって」
「そうですか」
梨世は微笑む。
だが。
その視線は袋から離れない。
「私も」
小さく呟く。
「お腹が空いているんです」
男は苦笑した。
「はは、喰代さんでも腹減るんですね」
「はい」
梨世は答える。
「ずっと」
一歩。
前へ出る。
「ずっと」
また一歩。
「お腹が空いているんです」
男の笑顔が消えた。
何かがおかしい。
距離感がおかしい。
空気がおかしい。
目の前の女性がおかしい。
なのに。
梨世は笑っている。
とても優しく。
とても穏やかに。
「食べても」
一歩。
「食べても」
また一歩。
「食べても」
さらに一歩。
「満たされないんです」
その瞬間だった。
街灯の光が揺れる。
男の顔から血の気が引いた。
梨世の右目。
そこに浮かんでいたものを見てしまったからだ。
黒目の奥。
わずかに滲む。
濃い飴色は揚げたての角煮のような光を放っていた。
喰肉の証。
「ひっ……」
男が後退る。
梨世の表情が歪んだ。
悲しそうに。
苦しそうに。
そして。
「ごめんなさい」
その一言に男は逃げようとした。
だが足が動かない。
街灯の下。
喰代梨世は俯いている。
肩が震えていた。
「本当は」
ぽつりと呟く。
「我慢しようと思ってたんです」
震える声だった。
「今日も」
「明日も」
「ずっと」
ぎゅっと拳を握る。
爪が掌へ食い込む。
「でも」
梨世が顔を上げる。
その笑顔はどこか寂しそうで。
そして。
どうしようもなく飢えていた。
「もう限界なんです」
次の瞬間。
男の悲鳴が第20区の夜へ溶けた。
数日後の土曜日。
金森硏は鏡の前に立っていた。
「おかしくないよな……?」
三回目だった。
シャツを替える。
五分後。
「やっぱこっちか……?」
また替える。
十分後。
「いや待て」
また替える。
結局最初の服に戻った。
「何やってるんだ俺……」
スマートフォンを見る。
喰代梨世
登録された名前を見るだけで心臓が跳ねる。
待ち合わせは十一時。
現在十時十分。
家を出るにはまだ早い。
だが落ち着かない。
その時だった。
スマートフォンが震える。
メッセージ。
太近味良
『告白してこいよ』
「違うから」
即返信。
『じゃあ結婚してこい』
「違うから」
『子供の名前は俺が考える』
「黙れ」
『飛虎摩呂』
「絶対嫌だ」
既読が付く。
『じゃあ飛虎二郎』
「ブロックするぞ」
返信は止まった。
数秒後。
『楽しんでこい』
それだけだった。
硏は少しだけ笑った。
「ほんと適当だな」
スマートフォンをポケットへしまう。
そして家を出た。
第20区駅前。
休日ということもあり人通りは多い。
待ち合わせの十五分前。
硏は既に到着していた。
落ち着かない。
周囲を見回す。
深呼吸する。
また周囲を見る。
完全に不審者だった。
「金森くん」
声がした。
振り返る。
喰代梨世が立っていた。
黒を基調とした落ち着いた服装に紫がかった長髪。
控えめなアクセサリーは彼女をより一層輝いて魅せた。
派手ではない。
それなのに目を引く。
綺麗だった。
「お待たせしました」
「い、いえ!」
思わず声が裏返る。
梨世が小さく笑った。
「その服、素敵ですね」
「え?」
予想外だった。
「似合ってます」
「あ、ありがとうございます」
心臓がうるさい。
梨世は自分の服を見下ろした。
「私、黒い服が好きなんです」
「そうなんですか?」
「はい」
一拍置く。
「油染みが目立ちにくいので」
「……油染み?」
「食べ歩きとかよくするので」
なるほど。
納得しかける。
だが。
よく考えると。
そんな理由で服の色を選ぶ人は初めて見た。
「そういう理由なんですね」
「大事ですよ?」
梨世は真面目な顔だった。
「白い服だと一回の食事で終わることもありますから」
硏は少しだけ笑った。
やっぱり。
この人は面白い。
「じゃあ行きましょうか」
「はい」
二人は並んで歩き出した。
今までにない緊張に硏はどうしていいか分からなかった。
何か話さなければ。
そう思うほど頭が真っ白になる。
「飛虎先生の新刊、来月らしいですね」
梨世が口を開いた。
「えっ」
「出版社のインタビュー記事で見ました」
「本当ですか!?」
食いついた。
「やっぱり知らなかったんですね」
「初耳です」
梨世は少し得意そうだった。
「題名は確か――」
『孤独の追い飯』
「買います」
「まだ発売前ですよ?」
「予約します」
即答だった。
梨世が笑う。
「本当に好きなんですね」
「好きです」
今度は迷わなかった。
「飛虎先生の文章を読むと、心地よくお腹が空くんです」
「わかります」
梨世は嬉しそうに頷いた。
「私もです」
その言葉が妙に印象に残った。
私もです。
たったそれだけなのに。
なぜだろう。
少しだけ寂しそうに聞こえた。
やがて。
目的地が見えてきた。
巨大な看板。
『センタッキー・フライドチキン』
店の前には長い行列ができていた。
「人気なんですね」
「みたいですね」
梨世の目が輝く。
まるで遊園地へ来た子供みたいだった。
「楽しみです」
「そんなにですか」
「はい」
即答だった。
「昨日から何も食べてません」
「えっ!?」
硏は思わず振り返った。
「だ、大丈夫なんですかそれ」
「大丈夫ですよ」
梨世はにこやかだった。
「今日を最高の状態で迎えたかったので」
「最高の状態」
「食べ放題に対する礼儀です」
真剣な眼差しだった。
冗談ではないらしい。
硏はなんと返していいか分からなかった。
やがて順番が回ってくる。
店員が笑顔で説明を始めた。
「九十分食べ放題になります!」
「はい」
「チキンはお一人様一バケツからのスタートになります!」
「はい」
「追加注文は食べ切ってからお願いします!」
「はい」
梨世だけ返事が異様に良かった。
席へ案内される。
数分後。
最初のバケツが運ばれてきた。
揚げたての香り。
黄金色の衣。
食欲を刺激する匂い。
「美味しそうですね」
硏が言う。
「はい」
梨世が答える。
そして。
チキンを一つ手に取る。
一口。
二口。
三口。
骨だけになった。
「え?」
早い。
とにかく早い。
だが梨世は平然としている。
「どうしました?」
「い、いえ」
気のせいだろうか。
今。
一瞬で消えたような。
そんな気がした。
最初のバケツが空になった。
硏はまだ二本目だった。
梨世は骨を綺麗にまとめている。
「美味しいですね」
「そうですね」
硏は頷いた。
確かに美味しい。
衣は軽い。
肉も柔らかい。
飛虎摩呂が絶賛していたのも分かる。
だが。
何かがおかしい。
「梨世さん」
「はい?」
「もう無いですよね」
「何がですか?」
「チキンです」
梨世は空になったバケツを見た。
「ああ」
納得したように頷く。
「食べましたから」
「そうですね」
そうじゃない。
店員がタイミングよく現れる。
「おかわりお持ちしますねー」
慣れた様子だった。
数分後。
二つ目のバケツ。
硏は自分の手元を見る。
まだ二本目。
梨世を見る。
もう十本目だった。
「……」
「どうしました?」
「いえ」
早い。
とにかく早い。
だが下品ではない。
綺麗なのだ。
骨にはほとんど肉が残っていない。
食べ終えた骨が整列している。
その美しさは博物館のようだった。
「食べるの上手ですね」
思わず口に出た。
梨世が少しだけ笑う。
「そうですか?」
「はい」
「慣れてるだけですよ」
その言葉が妙に引っかかった。
慣れている。
何にだろう。
「子供の頃から食べるのが好きだったんです」
梨世は骨を皿へ置いた。
「気付いたら周りより食べるようになっていました」
「大変そうですね」
「はい」
梨世は微笑む。
だが。
その笑顔は少しだけ寂しそうだった。
「食べても」
ぽつりと呟く。
「食べても?」
梨世は我に返ったように顔を上げる。
「いえ」
そしてまた笑った。
「なんでもありません」
その時。
店員が新しいバケツを運んできた。
三つ目だった。
硏は固まる。
「頼みましたっけ?」
「頼みました」
梨世が答えた。
「いつの間に」
「さっきです」
全く気付かなかった。
梨世は嬉しそうにチキンを手に取る。
その瞳は。
まるで恐竜の化石を見る子供みたいに輝いていた。
店内は相変わらず賑やかだ。
あちこちでチキンの追加注文が飛び交う。
揚げ油の香りが漂う。
骨の山が築かれる。
飛虎摩呂の言葉通り。
骨の姫路城だった。
ふと。
梨世が窓の外を見た。
夕暮れが近づいている。
「もうこんな時間なんですね」
「本当だ」
硏も時計を見る。
九十分。
あっという間だった。
「楽しかったです」
梨世が言う。
その一言だけで。
硏の胸は少しだけ高鳴った。
「俺もです」
自然に言えた。
梨世は少しだけ目を細める。
「よかった」
店を出る。
外はすっかり夕方だった。
オレンジ色の光が街を染めている。
二人は駅へ向かって歩き始めた。
だが。
途中で。
梨世が足を止める。
「金森くん」
「はい?」
振り返る。
梨世は少しだけ迷うような表情を浮かべていた。
そして。
「見せたい場所があるんです」
静かに言った。
「場所?」
「はい」
梨世は微笑む。
いつもの優しい笑顔。
けれど。
なぜだろう。
ほんの少しだけ。
寒気がした。
「よかったら、一緒に来ませんか?」
断る理由なんてなかった。
「行きます」
即答だった。
梨世は嬉しそうに笑う。
「ありがとうございます」
そう言って歩き出す。
硏も後を追う。
夕暮れの第20区。
人通りは徐々に少なくなっていく。
駅前を離れ。
住宅街を抜け。
さらに奥へ。
人気のない道へ。
やがて。
古びた工事区域が見えてきた。
高いフェンス。
立入禁止の看板。
解体途中のビル群。
再開発予定地なのだろう。
人の気配はほとんどない。
「ここですか?」
硏が尋ねる。
梨世は少しだけ微笑んだ。
「もう少し先です」
そう言って歩き続ける。
夕陽は既に沈みかけていた。
空は赤く染まり。
長い影が地面へ伸びる。
不思議だった。
楽しいはずなのに。
どこか落ち着かない。
胸の奥がざわつく。
理由は分からない。
だが。
今さら引き返す気にもなれなかった。
「金森くん」
不意に梨世が立ち止まった。
「はい?」
振り返る。
梨世はこちらを見ていた。
真っ直ぐに。
じっと。
その視線に思わず心臓が跳ねる。
「私のこと、どう思いますか?」
「え?」
予想外の質問だった。
「どうって……」
言葉に詰まる。
そんなこと急に聞かれても困る。
だが。
梨世は答えを待っていた。
「綺麗だと思います」
言ってしまった。
顔が熱くなる。
何を言ってるんだ僕は。
だが梨世は笑わなかった。
ただ静かに聞いていた。
「優しいですし」
「……」
「一緒にいて楽しいです」
風が吹く。
梨世の黒紫の髪が揺れた。
しばらく沈黙が続く。
やがて。
梨世は小さく笑った。
「そうですか」
どこか嬉しそうに。
そして。
どこか寂しそうに。
「ありがとうございます」
そう呟く。
その時だった。
ぐぅぅぅぅぅ。
低い音が響いた。
硏は目を瞬かせる。
腹の音だった。
異様なほど大きい。
「り、梨世さん?」
梨世は俯いていた。
肩が小さく震えている。
「すみません」
小さな声だった。
「実はまだお腹が空いていて」
硏は苦笑する。
「さっきあれだけ食べたじゃないですか」
「はい」
「八バケツは食べてましたよね」
「はい」
「それでも?」
「それでもです」
即答だった。
だが。
その声は少しおかしかった。
震えている。
苦しそうだった。
まるで。
何かを必死に我慢しているみたいに。
「梨世さん?」
硏が一歩近付く。
その瞬間。
梨世の肩がびくりと震えた。
そして。
ゆっくりと顔を上げる。
梨世は微笑んでいた。
「金森くん」
優しく名前を呼ぶ。
「はい……」
「私ね」
一歩。
梨世が近付く。
「あなたみたいな人」
また一歩。
「好き」
硏の鼓動が跳ね上がる。
告白。
そう思った。
頭が真っ白になる。
何も考えられない。
梨世が目の前まで来る。
近い。
甘い香りがした。
「梨世さん……」
次の瞬間。
ふわりと。
身体が包まれた。
抱きしめられていた。
「え……」
思考が止まる。
温かい。
柔らかい。
夢みたいだった。
心臓の音がうるさい。
顔が熱い。
だが。
どこか違和感があった。
梨世の身体が。
妙に熱い。
抱きしめる力が強くなる。
ぎゅっ。
と。
その時だった。
ぼこり。
奇妙な音がした。
梨世の肩が膨らむ。
「え……?」
ぼこり。
また音がする。
腕が太くなる。
背中が盛り上がる。
服がきしむ。
硏は目を見開いた。
理解できない。
ぼこり。
ぼこり。
ぼこり。
身体が膨らむ。
みるみるうちに。
人間ではあり得ない速度で。
「っ……!」
梨世は笑っていた。
幸せそうに。
恋人を見るように。
そして。
空腹の人間が食事を見るように。
次の瞬間。
左肩に激痛が走った。
「ぁ――ッ!!」
何が起きたのか理解できない。
熱い。
痛い。
頭が真っ白になる。
視界が揺れる。
梨世の顔が目の前にあった。
その口元から赤い液体が滴り落ちている。
それが何なのか、察するのに時間はかからなかった。
梨世は、自分の肩に食らいついていた。
「がぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
硏は悲鳴を上げた。
本能のまま梨世を突き飛ばす。
よろめく。
足がもつれる。
そのまま地面へ倒れ込んだ。
肩を押さえる。
温かい。
手が濡れている。
見たくない。
だが見えてしまう。
左肩。
服が裂けていた。
赤く染まっていた。
「ひっ……」
喉が鳴る。
息ができない。
痛みよりも先に。
恐怖が押し寄せてきた。
食べられた。
自分は今。
食べられたのだ。
「金森くん私ね、エッセイよりも好きなものがあるの。それはね沢山食事した後の人間の肉を全部引きずり食うこと」
梨世はゆっくり立ち上がる。
幸せそうに微笑みながら。
「ああ、素敵よその表情」
うっとりと。
愛おしそうに見つめていた。
硏は這うように後退った。
左肩が焼けるように痛む。
呼吸が上手くできない。
逃げなければ。
そう思うのに。
身体が言うことを聞かなかった。
やっとの思いで足に力を込めて立ち上がる。
だが。
足がもつれた。
「がっ……!」
よろめく。
その瞬間だった。
目の前の影が大きくなる。
梨世だった。
膨れ上がった巨体が。
一直線に突っ込んでくる。
避けられない。
次の瞬間。
凄まじい肉塊の衝撃が硏を襲った。
「かはっ!」
肺の空気が一気に吐き出される。
身体が宙を舞う。
背中から地面へ叩き付けられた。
視界が揺れる。
何も見えない。
何も聞こえない。
ただ。
身体だけが痛かった。
霞む視界の向こう。
何倍にも大きく膨れ上がった梨世がいた。
笑っていた。
幸せそうに。
心の底から嬉しそうに。
まるで長年探し続けたご馳走を前にしたように。
「お腹、ちゃんと無くなるまで食べ尽くしてあげますからね……」
その声に悪意はなかった。
だからこそ恐ろしかった。
硏は理解する。
本気で自分を食べようとしている。
「あら」
梨世が首を傾げる。
角煮のように反射する茶色の眼が鈍く輝いていた。
「死んじゃいました?」
くすり。
笑う。
楽しそうに。
愛おしそうに。
「残念」
ゆっくりと近付いてくる。
「本当に好きだったのよ?」
その顔は恋する少女そのものだった。
だが。
瞳の奥にあるのは恋情ではない。
食欲だった。
「程よく脂ものってるし」
舌が唇をなぞる。
「柔らかくて」
一歩。
「食べやすそう」
もう一歩。
硏の意識は薄れていく。
恐怖も。
痛みも。
徐々に遠くなる。
その時だった。
頭上で。
みしり。
何かが軋む音がした。
梨世が顔を上げる。
硏も霞む視界で追う。
クレーン。
巨大な鉄骨。
それを支えるワイヤー。
そして。
ぱんっ。
乾いた破裂音。
ワイヤーが弾けた。
一瞬だった。
ガシャーン
巨大な鉄骨が大きな音をたてて落下する。
梨世の笑顔が消える。
初めて浮かぶ困惑。
「なんで……」
轟音。
地面が揺れる。
「がっ……!」
鉄と巨大な肉が潰れる音。
「あぁ……」
梨世の声だった。
それが最後だった。
土煙が舞う。
何も見えない。
何も分からない。
硏の意識も限界だった。
視界が暗くなる。
遠く。
本当に遠く。
どこか近いようで。
どこか遠いような。
救急車のサイレンだけが聞こえていた。
暗い。
何もない。
上も。
下も。
右も。
左も。
境界が分からない。
水の中に漂うような、そんな感覚だった。
冷たいような。
温かいような。
不思議な感覚。
「なんだ……」
声が漏れる。
泡になって消えた。
「ここは……」
身体が浮いている。
力が入らない。
痛みもない。
恐怖もない。
ただ。
ぼんやりしていた。
「確か……」
記憶を辿る。
あんていく。
飛虎摩呂。
センタッキー。
梨世。
「梨世さんと……」
その先が曖昧だ。
「デートしていて……」
思い出せない。
思い出したくない。
そんな気もする。
『血圧低下しています!』
『急げ!』
誰かが叫んでいる。
遠くで。
とても遠くで。
「なんだ……」
言葉がまとまらない。
『臓器の損傷が酷い!』
『移植準備!』
『この女性との適合率は!?』
『しかし遺族と連絡が……!』
『今は一刻を争う!』
聞き慣れない言葉が耳を流れていく。
「臓器……?」
意味が分からない。
「遺族……?」
誰の話だろう。
「なんの話だ……」
ぼんやりと呟く。
その時。
背中に温もりを感じた。
柔らかい。
温かい。
誰かが抱きしめている。
「……」
ゆっくり振り返る。
そこには。
喰代梨世がいた。
静かに微笑んでいる。
だが、何も答えない。
ただ。
優しく抱きしめる。
その温もりが心地よかった。
「温かい……」
意識が沈んでいく。
深く。
もっと深く。
暗い水の底へ。
遠くから。
まだ誰かの声が聞こえていた。
『心拍確認!』
『持ち直しました!』
『手術を続行します!』
『死亡者の臓器を移植します!』
その声を最後に。
金森硏の意識は再び闇へ沈んだ。
見ての通り東京喰種のパロディです
久々に書きましたがまあ続きは書くかどうか不明です




