一言目 コトノハノロウゴク⑵
――言葉を司るこの街には、言葉の雨が降る。
言葉は、人のすべてだ。
誰から聞いたわけじゃないけど、そう思う。
さっきの彼だって、言葉を誤れば立場が消し飛ぶと自覚しているから、僕を見上げたままだったんだ。
たった一言で人生は変わる。失くす。終わる。だから言葉を吐くのは、この世で一番怖い武器なんだ。
僕がそう悟ったのは、いつだったろう。思考を変えられてしまった出来事があったはずだ。
それが何だったか、正確には思い出せない。
おそらく「ムサシノ」に来てからだったような、いや、もっと前からな気もする。
というか、ムサシノに来たのはいつ頃だったか。つい最近な気がするのに、馴染みがある気もする。
何もかもが“気もする”でしかない。
思い出そうとすると、海馬に規制がかかる。
脳が「思い出すな」と靄をかけ、過去に触れぬよう誤魔化されるような……。
結局、胃液が込み上げてくるのを飲み込んで現実に戻る。わからないと気持ちが悪い。それが体へ露骨に出てしまう。
僕にとってこの街はストレスだ。それはどこに居ても同じ。
牢獄を抜け、長い廊下をいくつも渡り、重厚な木の扉が僕の本当の職場。
扉の上に大きく掲げられた銀のルームプレートには、「法廷」の文字。
睨まれるような凄みのある達筆で書かれている。
ノックを二回。そして、息を吸って名乗る。
「裁判官補佐、文月朔詞です」
「どぉぞぉ」
なんて気の抜けるような返事。
居るんだ、と訳もなしに落ち込む。小さなため息一つ、同じくして真鍮のドアハンドルに手をかけた。
この瞬間が一番緊張する。今日一番、吐きそうでたまらない。
なんせ扉の向こうにいるのは、ムサシノの頂点。
この街を統べる、裁判官なのだから。
扉を開ければ、革の椅子から見える後頭部の一部。長い赤髪の後ろ姿がすぐ目についた。
そして、ぐるりと椅子を回し、湯呑みを片手に僕を見る女性こそが――
「見回りは君の仕事じゃないよ、文月くん」
「裁判長、お疲れ様でございます。それで……あの……見回りは自主的なものであり……規則にそぐわないのであれば、改めます。申し訳、ありません……」
裁判長だ。
僕と大して変わらぬ年齢だというのに、感情的にならず、次々と言葉に関する案件を裁いていく。
人離れした赤い髪に赤い目。罪人の中には、その目と視線がぶつかっただけで謝り倒す者もいるほど、強烈で逃げ場のない色をしている。
瞳に地獄があるようだ、なんて誰かが言っていたっけ。
「目を逸らさないで」
「あ、もっ、申し訳がありません……」
僕もこの目が、あまり得意じゃない。
けれど、この人は僕の上司。
裁判長補佐の任に就いている、「睦月陽」さんだ。
補佐に選ばれた理由は教えてもらえないまま。荷が重すぎて、この部屋に入るだけで息苦しくなる。
言葉で罪を犯した者を裁く場所。嫌でも全身が強張り、言葉に詰まって謝るしかなくなる。
そんな僕に裁判長が呆れてしまうのも、いつもの流れだ。
「まあ……規則ではないけどね。でも、これだけは嫌。裁判長って公務以外で呼ぶのやめてくれないかな。君と私、同い年でしょう」
裁判長は、肩の力が抜けるよう気を遣ってくださった。
僕が先程、隊員に言ったこととほぼ同じ。ここで彼の気持ちが、痛いほどわかってしまった。
これは気遣いと受け取れない。逆らえない圧だ。
「え……あ、しかし……それについては、規則ですので。役職の序列があり……それに、同い年といえど、裁判長の方が一ヶ月先に出生していらっしゃいます」
「……」
ムサシノは縦社会にも厳しい。目上の者への言葉遣いや態度も、厳しく取り締まられる。
罰が怖いのもある。
それより、なんとなく裁判長を見ると……靄が、濃くなるのだ。
得体の知れない緊張に襲われる。それが怖い。
「あ……いえ、申し訳ありません。出生についての一言は、さすがに余計でした。デリカシーがない……でも、あの……しかし、やはり規則ですから」
「いや。公務以外での“裁判長”呼びは禁止する。補佐の君だけ特例だ。わかったね」
「あ……」
裁判長は、ムサシノの掟すべてが記された法典に、今の言葉を綴る。
その法典に書かれてしまえば、僕の遠慮は処罰対象だ。
今から公務以外で裁判長と呼ぶことは、一切禁止になる。
ペン先が法典から離れれば、もう規則だ。




