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海の雫、街の灯り

作者: 久遠 睦
掲載日:2025/12/04

第一章 風の色


島袋しまぶくろ なぎが運転するコンパクトカーの左手には、どこまでも広がるターコイズブルーの海があった。国道58号線。窓から差し込む南国の太陽が、腕をじりじりと焼く。東京にいた頃の、ビル風の無機質な冷たさとはまったく違う、生命力に満ちた熱だ。クライアントとの打ち合わせを終え、那覇市内にある小さなオフィスへ戻る途中だった。

25歳。沖縄で生まれ育ち、大学の4年間を東京で過ごした。就職活動では都内の大手広告代理店からも内定をもらったが、卒業を目前にして、すべてを断り、故郷へ戻ることを決めた。Uターン。友人たちは「もったいない」と口を揃えたが、凪に後悔はなかった。

現在の職場は、県産の食品や雑貨を取り扱う小さな専門商社。営業からマーケティング、販促企画まで、凪はたった一人で担当している。デスクに座っている時間よりも、生産者の元を訪ねたり、売り場を走り回ったりしている時間の方がずっと長い。多忙だが、自分の仕事がダイレクトに地元の商品を動かしているという確かな手応えがあった。

もちろん、現実的な問題もある。通帳に記帳される給与は、東京の友人たちのそれと比べると見劣りする。25歳の女性の平均年収は、沖縄では約270万円。一方、東京で働く大学の同期たちは、軽く350万円は超えているだろう 。この差額は、選択の対価だった。

しかし、凪はその対価と引き換えに、お金では買えないものを手に入れたと確信している。満員電車に揺られることのない短い通勤時間。仕事の後にふらりと立ち寄れる、夕陽が水平線に溶けていくビーチ 。心の奥底から湧き上がる、ここにいる、という安堵感。それは、将来への漠然とした期待よりも、今この瞬間を充実させたいという、彼女自身の価値観の表れでもあった 。

ふと、大学4年生の冬を思い出す。渋谷のスクラブル交差点。雪崩のように押し寄せる人の波の中で、自分という存在がどんどん希薄になっていく感覚。誰もが同じようなリクルートスーツに身を包み、一流企業への切符を求めていた。あの巨大な海流の中で、自分は息をすることもままならない、小さな魚でしかなかった。

オフィスに戻り、自分のデスクの前に座る。壁に貼られた日本地図を眺めた。彼女の野心は、沖縄の産品を「沖縄で」売ることではなかった。この島の宝物を、日本全国の食卓へ、暮らしの中へ届けたい。それが、凪が故郷へ戻ってきた本当の理由だった 。風の色が違うこの島から、新しい風を吹かせてみせる。凪は静かに、しかし強く、心に誓った。


第二章 縁の交差点


「凪、今夜付き合ってよ。オキコネ」

先輩から半ば強引に誘われたのは、沖縄県内の中小企業や個人事業主が集まるビジネス交流会、通称「オキコネ(OKINAWA CONNECT)」だった 。正直、気乗りはしなかった。名刺交換と当たり障りのない会話に終始する集まりは、どうにも苦手だったからだ。

しかし、会場に足を踏み入れた瞬間、その先入観は心地よく裏切られた。場所は那覇市内の古い倉庫をリノベーションしたお洒落なイベントスペース。堅苦しい雰囲気は皆無で、あちこちで活気のある会話の輪が生まれている 。東京で参加した、序列と探り合いに満ちた交流会とはまるで違う、オープンで協力的な空気感がそこにはあった。沖縄のビジネス文化が持つ、独特の温かさとエネルギーが渦巻いていた。

先輩に促されるまま、いくつかの輪を渡り歩いていた時だった。少し離れた場所で、一人、手元のグラスを所在なげに揺らしている男性が目に入った。

金城きんじょう まことです」

凪が声をかけると、彼は少し驚いたように顔を上げた。歳は20代後半だろうか。実直そうな瞳が印象的だった。彼の家は、首里で代々続く小さな泡盛の酒造所を営んでいるという。

「泡盛の販路拡大ですか?」

凪が尋ねると、誠は静かに首を横に振った。 「いえ、そうじゃないんです。実は、厄介なものがありまして…」

彼が語り始めたのは、「泡盛粕」の話だった。泡盛を蒸留する過程で、大量に発生する副産物。栄養価が非常に高いことは分かっているが、そのほとんどが有効利用されることなく、産業廃棄物として処分されているという 。

「宝の山のはずなのに、うちにとっては悩みの種なんです」

その言葉を聞いた瞬間、凪の頭の中で何かが閃いた。マーケターとしての直感が、けたたましく警鐘を鳴らす。ウェルネス、サステナブル、自然派化粧品。市場のトレンドが、パズルのピースのようにはまっていく。

「それ、化粧品にできませんか?」

凪の口から、思わず言葉が飛び出した。沖縄には、地元の素材を活かした化粧品ブランドが既に成功を収めている例がある。同じく泡盛の酒造所とコラボレーションした「SuiSavon-首里石鹸」のように 。伝統的な産業の副産物を、現代的な価値を持つ商品へと生まれ変わらせる。それは単なる商品開発ではない。持続可能性、伝統の継承、そして沖縄の美という、強力な物語を秘めている。

誠の目が、驚きに見開かれた。彼は素材の専門家であり、その可能性を信じている。一方、凪は市場への道筋を描ける戦略家だ。静かで実直な職人と、ダイナミックで未来を見据えるマーケター。

その夜、那覇の喧騒の中で、二つの才能が交差した。それは単なる偶然の出会いではなかった。沖縄の持つ、異業種を結びつけ新たな価値を創造しようとする土壌が生んだ、必然の出会いだったのかもしれない 。


第三章 夢の種子


数日後、凪は誠に招かれ、首里にある彼の家族が営む酒造所を訪れた。石垣に囲まれた古い木造の建物。扉を開けると、麹の甘く、どこか土の匂いがする芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。ここで、二人の夢が具体的な形を取り始める。

役割分担は自ずと決まった。誠が泡盛粕という原料の供給と品質管理、そして製品の処方開発を担当する。凪は、それ以外のすべて。事業計画の策定、ブランディング、マーケティング戦略、そして販売チャネルの開拓。

最初の大きな壁は、化粧品の製造を委託するOEMメーカー探しだった。凪はインターネットでリストを洗い出し、片っ端から電話をかけた。しかし、返ってくる答えはどこも同じだった。「最小ロットは数千個からですね」。実績のない小さなスタートアップにとって、それはあまりにも高いハードルだった。在庫リスクを考えれば、到底受け入れられる条件ではない。

諦めかけた時、ある言葉が目に留まった。「小ロットOEM」。数百個単位からの製造に対応してくれるメーカーが存在することを知ったのだ 。これなら、初期投資を抑え、市場の反応を見ながら事業を進めることができる 。凪は、天然由来成分の扱いに長けた本土のメーカーを見つけ出し、粘り強く交渉を重ねた。彼らの挑戦的なアイデアと、泡盛粕というユニークな原料に興味を示したメーカーは、ついに協力を約束してくれた。

製造の目処が立つと、凪はブランドの構築に全精力を注いだ。

ブランド名は「しずく」。

一滴の泡盛から、そして肌に落ちる一滴の潤いから。その名前には、二つの意味が込められていた。パッケージデザインは、沖縄の海と大地を思わせるアースカラーを基調とした、ミニマルで洗練されたものに。そして、何よりも大切にしたのはブランドの「物語」だった。

これは単なる化粧品ではない。廃棄されるはずだったものに新たな命を吹き込む、サステナブルな取り組みであること。誠の家族が守り続けてきた、伝統的な泡盛造りの歴史。沖縄の豊かな自然が育んだ恵み。凪は、消費者が製品そのものだけでなく、その背景にあるストーリーに価値を見出す時代であることを見抜いていた 。彼らの最大の資産は、資本力ではなく、物語の持つ「本物」の力なのだ。

小さな酒造所で生まれた夢の種子は、確かな物語という土壌を得て、静かに芽吹こうとしていた。


第四章 試行錯誤の一年


「雫」の開発は、沖縄の季節がひと巡りするほどの時間を要した。それは、地道で、焦燥感に満ちた、しかし希望を失わない一年間だった。

最初の半年は、処方開発と試作品作りに費やされた。誠は何度も本土のOEMメーカーの研究所に足を運び、研究員と膝を突き合わせた。泡盛粕の成分を安定させ、効果を最大限に引き出すための試行錯誤が続く。送られてくる試作品は、数十種類に及んだ。テクスチャーがべたつきすぎるもの、原料由来の独特な香りが残ってしまうもの。理想には程遠いものが、何度も二人の元へ届いた 。

彼らは、香りや使用感を補うために、他の沖縄県産素材を加えることにした。月桃ゲットウの葉から抽出した精油で爽やかな香りをつけ、シークヮーサーの果皮エキスで肌の透明感を引き出す 。沖縄の恵みを凝縮した、唯一無二の製品を目指した。

開発開始から7ヶ月後、ようやく納得のいく試作品が完成した。凪はすぐに友人や家族に配り、モニターテストを実施した。「保湿力は素晴らしいけど、もう少しテクスチャーが軽いと嬉しいな」。フィードバックは、まさに「まずまず」といったところだった。

ここで発売に踏み切ることもできた。しかし、二人は立ち止まることを選んだ。中途半端なものは世に出せない。さらなる改良を加えるため、追加の費用と時間を投じる決断を下した。この品質への妥協なき姿勢こそが、後に彼らのブランドの核となる誠実さの証となることを、この時の二人はまだ知らなかった。

誠が最後の改良に取り組む傍らで、凪はパッケージデザインの最終決定、ウェブサイトの構築、そして化粧品を販売するために不可欠な薬事申請の準備に奔走した 。煩雑な書類の山と格闘する日々が続いた。

そして、最初の打ち合わせからちょうど一年が経ったある日。ついに、完成した製品の第一弾が、段ボール箱に詰められて酒造所に届いた。凪と誠は、息を飲んで箱を開ける。そこには、美しいデザインの小箱に収められた「雫」が、整然と並んでいた。二人は言葉もなく、製品を一つ手に取った。ずっしりとした重みが、この一年間の苦労と、これから始まる挑戦の大きさを物語っていた。


第五章 最初の一滴


「雫」のローンチは、静かに、しかし戦略的に始まった。大規模な広告を打つ資金はない。凪が選んだのは、ターゲットを絞り込んだ、超ローカルな展開だった。

販売場所は、那覇空港の土産物店、国際通りの洗練されたセレクトショップ、そして数軒の高級リゾートホテルのギフトショップ。それに加えて、シンプルな自社ECサイトを立ち上げた。まずは、沖縄の価値を理解してくれるであろう顧客層に、確実に製品を届ける戦略だ。

しかし、現実は厳しかった。最初の1ヶ月の売上は、想定を大きく下回った。ECサイトにはぽつぽつと注文が入るものの、実店舗ではなかなか手に取ってもらえない。棚に並んだ「雫」が、ただ静かに客を待っている。凪の胃がきりきりと痛んだ。

「このままじゃダメだ」

凪は、受け身の販売から攻めのマーケティングへと、大きく舵を切ることを決意した。彼女の武器は、スマートフォン一つで始められる、デジタル・マーケティングだった。

まず、Instagramのアカウントを本格的に始動させた。単に商品を並べるのではなく、「雫」が生まれた世界観そのものを発信することに注力した。泡盛が発酵する酒蔵の薄暗い空気、原料を真剣な眼差しで確認する誠の横顔、窓から見える沖縄の青い海。製品の背景にある物語を、美しいビジュアルで丁寧に紡いでいった 。

ハッシュタグ戦略も練り上げた。「#沖縄コスメ」や「#サステナブルビューティー」といった一般的なものに加え、「#泡盛粕」という専門的なタグ、そして「#島袋凪の挑戦」というパーソナルなタグを組み合わせ、共感を呼ぶ仕掛けを作った 。

そして、最も効果的だったのが、地元のインフルエンサーへのアプローチだった。凪は、フォロワー数は数千人規模でも、地域に根ざした誠実な発信を続けているライフスタイル系のブロガーを数名リストアップした。広告費を払って依頼するのではない。製品に手書きの手紙を添えて送った。彼女たちの活動への敬意と、「雫」に込めた想いを、自分の言葉で伝えたのだ 。

数週間後、そのうちの一人が、ブログとInstagramで「雫」を取り上げてくれた。それは、広告臭のまったくない、心からの言葉で綴られたレビューだった。「雫」の誕生秘話、最後の最後で改良を加えたこだわりの軽いテクスチャー、そして肌が喜んでいるという実感。

その投稿がきっかけだった。ECサイトの注文通知が、ぽつり、ぽつり、から、とん、とん、とん、と規則的なリズムを刻み始めた。最初の一滴が水面に落ち、確かな波紋となって広がり始めた瞬間だった。


第六章 満ちてくる潮


一人のブロガーの投稿から始まった波紋は、瞬く間に大きなうねりへと変わっていった。

その投稿を見たユーザーが「雫」を購入し、今度はその人自身が「#雫コスメ」のハッシュタグをつけて使用感を投稿する。その輪は次々と広がり、価値あるUGC(ユーザー生成コンテンツ)がSNS上に増殖していった。それは、凪が計算した以上の、自然発生的な口コミの連鎖だった。

沖縄という比較的狭いコミュニティでは、良い噂も悪い噂もすぐに広まる。「あの酒造所の息子さんが作った化粧品、すごく良いらしいよ」。そんな会話が、カフェや職場で交わされるようになった 。

オンラインでの盛り上がりは、やがてオフラインのメディアの目にも留まった。地元のフリーペーパーが、「Uターンした若き女性起業家と、老舗酒造所の跡継ぎが起こした化学反応」という切り口で、凪と誠の特集記事を組んでくれたのだ。この記事は、普段SNSをあまり見ない層にも「雫」の存在を知らせ、ブランドの信頼性を一気に高めた 。

ECサイトの売上は急増し、商品を卸している店舗からは、毎週のように追加発注の電話がかかってくるようになった。凪は在庫管理と発送作業に追われ、嬉しい悲鳴を上げた。創業以来、初めて事業は安定した黒字に転じた。

ある晩、オフィスで売上データを見つめていた凪は、誠に大胆な提案をした。

「東京で、ポップアップストアを開かない?」

それは、彼女の長年の夢だった「沖縄の宝を全国へ」という目標を実現するための、大きな一歩だった。そして、かつて自分が何者でもなかったあの街へ、事業主として凱旋するという、個人的な挑戦でもあった。

誠は一瞬、言葉を失った。成功しているとはいえ、彼らの事業規模はまだ小さい。東京での出店にかかる莫大なコストを考えると、あまりにもリスクが高い。しかし、凪の瞳に宿る確信に満ちた光と、彼女が示す売上データやSNSでの反響という客観的な事実に、彼の不安は少しずつ溶けていった。

「わかった。やってみよう」

誠のその一言で、彼らの船は、沖縄という穏やかな湾を出て、東京という未知の大海原へ向かうことが決まった。満ちてくる潮が、彼らの背中を力強く押していた。


第七章 大都市への船出


東京でのポップアップストア計画は、興奮と緊張の中で目まぐるしく進んでいった。凪は、かつて自分が暮らした街の地図を広げ、戦略を練り上げた。スプレッドシートを作成し、タスクを洗い出し、業者との電話交渉に明け暮れる日々。彼女は水を得た魚のようだった。

最初の課題は、場所の選定だった。凪は週末を利用して東京へ飛んだ。高級ブランドが立ち並ぶ銀座は、彼らのブランドイメージとは違う。若者でごった返す渋谷は、あまりに騒がしすぎる。彼女が探し求めていたのは、モノの背景にあるストーリーやデザイン性を重視する、感度の高い人々が集まる場所だった。

何軒も見て回った末、彼女は代官山の路地裏にある、ガラス張りの小さなギャラリースペースに心を決めた。洗練されていながらも、どこか温かみのある空間が、「雫」の世界観にぴったりだと感じたのだ 。

次なる課題は、予算。凪はノートパソコンを開き、誠と二人で画面を覗き込んだ。そこには、彼女が算出した現実的な数字が並んでいた。

カテゴリー

項目

概算費用

会場費

代官山スペースレンタル料(7日間)

280,000円

人件費

アルバイトスタッフ(2名、7日間)

123,200円

什器レンタル費

陳列棚、テーブル、ミラー等

50,000円

物流費

商品・資材輸送費(沖縄-東京往復)

30,000円

販促費

Instagram広告(都内ターゲット)、チラシ

100,000円

予備費

雑費、交通費等

100,000円

合計



683,200円


合計金額、約70万円。それは、彼らがこれまでこつこつと積み上げてきた利益の大部分を吐き出す、あまりにも大きな金額だった。画面に表示された数字を前に、二人は言葉を失った。一瞬、恐怖が胸をよぎる。しかし、それはすぐに、武者震いのような高揚感へと変わった。

これは、単なる販売イベントではない。デジタル上で築き上げてきたブランドが、現実世界でどれだけ通用するのかを試す、壮大なテストマーケティングだ 。そして何より、学生として東京を去った凪が、事業主として再びこの街の土を踏む、決意の表明でもあった。

「大丈夫。絶対に成功させる」

凪は、自分と、隣にいるパートナーに言い聞かせるように、強く頷いた。彼らの小さな船は、いよいよ大都市へと向けて、錨を上げた。


第八章 信じられない光景


ポップアップストアの初日。代官山の柔らかな光が差し込む店内は、凪のイメージ通りに仕上がっていた。ミニマルな空間に、沖縄から取り寄せた琉球ガラスの一輪挿しが彩りを添えている。完璧に整頓された商品を、凪と誠は落ち着かない様子で何度も並べ直した。

開店から2時間。客足はまばらだった。興味深そうに店内を覗き、商品を手に取る人はいるものの、購入に至るケースは少ない。凪は平静を装いながらも、焦りで心臓が早鐘を打つのを感じていた。SNSでの告知は万全だったはずだ。事前に連絡した東京在住のインフルエンサーたちも、まだ姿を見せない。

午後2時を回った頃だった。凪がふとガラス張りの店の外に目をやると、一人の若い女性がスマートフォンと店構えを交互に見比べながら立っていた。やがて、その隣に友人が一人、また一人と加わる。

気づけば、店の前には10人ほどの列ができていた。

「嘘…」

凪の口から、かすれた声が漏れた。オンラインで見ていた熱気が、今、目の前の現実になっている。列は途切れることなく、少しずつ長くなっていく。店内は、商品を手に取り、その香りとテクスチャーを確かめる客たちの、楽しげなざわめきで満たされていた。

「これ、インスタで見て、絶対に来ようって決めてたんです!」

レジに並んだ客が、興奮した様子で話しかけてくる。スマートフォンの画面には、「雫」の投稿が映し出されていた。凪が沖縄の小さなオフィスで発信し続けた物語が、海を越え、確かにこの東京のど真ん中に届いていたのだ。

凪がレジ作業に追われていると、隣にいた誠が、はっと息を飲んで彼女の腕を掴んだ。彼が指差す店の入り口。今や30人近くに伸びた行列の最後尾に、信じられない人物が立っていた。

何百万人ものフォロワーを持つ、日本で最も有名な美容系インフルエンサーの一人だった。彼女のレビュー一つで、無名のブランドが一夜にしてスターダムにのし上がることもある、業界の誰もが注目する存在だ。

その彼女が、スマートフォンを片手に、楽しそうに店の行列を撮影している。

「すごい行列!ずっと気になってた沖縄のコスメ、やっと来れたー!」

彼女の声が、店内にまで微かに聞こえてくる。

凪と誠は、顔を見合わせた。言葉はなかった。ただ、互いの瞳に映る、驚きと、喜びと、そしてこれまでの全ての苦労が報われた瞬間の、言葉にできないほどの感動を分かち合った。

沖縄の小さな酒造所で生まれた一滴は、長い旅を経て、今、この大都市の真ん中で、光り輝く大きな波を起こそうとしていた。それは、二人が夢にも描かなかった、信じられない光景だった。


エピローグ 一年後の光


あれから一年。凪は銀座の百貨店の化粧品フロアに立っていた。きらびやかな外資系ブランドのカウンターが並ぶ一角に、「雫」の常設コーナーはあった。沖縄の海を思わせる深い青と、琉球石灰岩をイメージした白で統一された空間は、凛とした存在感を放っている。

「このブランド、沖縄の泡盛から作られてるんですって」 「ポップアップの時に買って、すごく良かったのよ」

聞こえてくる会話に、凪はそっと笑みを浮かべた。代官山での奇跡のような一週間は、彼らの運命を大きく変えた。ポップアップの成功はすぐに業界内で話題となり、複数の百貨店から声がかかったのだ。D2Cブランドが成長戦略として百貨店と手を組むのは、今や珍しいことではない 。彼らにとってそれは、オンラインだけではリーチできなかった新しい顧客層と出会うための、最高の舞台だった 。

「凪さん」

声のする方へ振り向くと、スーツをスマートに着こなした誠が立っていた。一年前の、どこか朴訥とした面影は薄れ、今は自信に満ちた事業家の顔をしている。

「すごい人だね。今日も」 「ええ。銀座のお客さまは、本当に良いものを知っているわ。私たちの物語を、ちゃんと聞いてくれる」

彼らの成功は、沖縄のスタートアップ界隈でも大きなニュースとなっていた 。今では、後に続こうとする若い起業家たちから相談を受けることも増えた。

誠が凪の隣に並び、カウンターの向こうの喧騒を眺める。 「あのポップアップがなかったら、今の俺たちはないな」 「本当にそうね。あの時、勇気を出してよかった」

凪はスマートフォンを取り出し、一通のメールを開いて誠に見せた。差出人は、シンガポールの高級セレクトショップのバイヤーからだった。

「アジアでの展開に、非常に興味があると…」

誠が息をのむ。凪は静かに頷いた。沖縄の特産品が、アジア市場で大きな可能性を秘めていることは、彼女もリサーチ済みだった 。

学生時代、人の波に飲まれそうになっていたこの街。今は、自分たちの力で作り出した新しい波の中心に立っている。凪は、ガラス窓の向こうに広がる銀座の街並みを見つめた。

沖縄の小さな酒造所で生まれた一滴は、東京という大きな川に合流し、今やアジアというさらに広大な海へと流れ出そうとしていた。旅は、まだ始まったばかりだ。


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