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08 白布

 空の底まで乾いているような日が続いた。雨雲は東へ西へと居場所を変え、どこにも滴を落とさぬ。丘の粟は葉を巻き、麦は軽い。畦の土はひび割れ、そこへ熱が吹き込んで、亀裂は日ごとに広がった。川の流れは糸のように細り、石は焼け、魚の影は途絶える。子らは木陰に集まって、乾いた舌で唇をなめ、道を行く者も帽を深く引いて影を求めた。


 宛の市も活気を名に残して、実は痩せていた。荷車は水路の干上がりで遅れがち、運べぬ間に品は減り、値も定まらぬ。薪は山から下りず、束は半端になり、布は擦れた襟や肘を繕うために細切れで売られる。銭の袋を握っても、求める物が手に入らぬ日が続くにつれ、人は自然と物を差し出し合った。大路の片隅では、古い鍬と麻の端切れ、干した豆と小さな壺を前に、互いに首をかしげては差し替え、また差し替える。秤の皿は鳴るが、その音に張りはない。声は抑えられ、笑いはすぐに解けて消える。


 張機は、王誼と肩を並べてその流れを眺めた。市の匂いは濃いのに、腹へ落ちるものが薄い。人の眼が、品の欠けを埋めようとして鋭く動く。


 張機は往来の先を見た。師の伯祖は郡の命で都に呼ばれ、今は災いの地を巡っている。頼みの綱の手が遠くにあると、人の胸は重くなる。張家では張靖が簿を守り、麦も粟も、誰にどれほど渡すかを痩せた筆で刻んだ。


 倉の前に並ぶ影は、日に日に増えていく。門口の土は踏み固められ、足跡が重なって乾き、粉となって舞い上がった。張靖はそれを見て、ある朝、迷いのない声で告げる。


 「倉を開ける」


 錠が外れ、倉の扉がゆるんだ。穀物は小分けの袋に詰め直され、人々の腕へ渡っていく。


 「次はいつだ」

 「子が待っている」


 言葉は同じだが、並ぶ顔は毎日違った。張靖は咳を忍ばせながら、ひとりひとりの掌を見てうなずく。掌の荒れ具合、指の割れ、爪の汚れ、それがその家の底を告げていた。張靖はそれを数えず、ただ受け止めて、袋を渡す。


 張機は兄の背を見守った。汗がうなじを伝い、麻の衣に細い影を描く。背は真っ直ぐだが、以前より軽い。


 「兄上」


 呼びかけて、張機は呑み込んだ。今は、声を掛けるより記憶に刻む時だと知っている。倒れてゆくものを支えるには、まず目を曇らせぬことだ。飢えが長く続くと、別の顔で人を襲う。


 はじめ、村外れの子どもが倒れた。次に、荷を担いだ若者が道端に膝をつき、額から熱を噴いた。赤い痢が布を汚し、夜半のうわ言が続き、朝、物言わぬ身体に変わる。


 「ただの飢えではない」


 張機が言った。王誼は額の汗を拭き、息を荒げる。


 「熱と腹だ。水を飲ませても戻す。起こしても崩れる。どうしようもない」


 張家の親族からも、床につく者が出た。年寄りから始まり、働き盛りが続き、従姉の腕に抱かれた幼子が、夜明け前にうわ言を止めた。内室は急ごしらえの寝台で埋まり、盆と布と水の碗があわただしく行き交う。伯祖の名が出る。けれど今は、遠い。


 「名医といえど人ひとり。今は私たちの手を動かすしかない」


 張靖はそう言って、胸を押さえ、しばし目を閉じた。閉じた瞼の裏で何を数えたかは口にせぬ。だが、その沈黙が決めたものの強さは分かった。


 昼下がりの庭を、干した衣が白く渡っていく。日陰に坐る端女の肩が小さく上下し、井戸の桶は軽くなる一方であった。張機は濡らした布を絞り、寝台の間を移る。王誼もまた出入りした。


 「仲平、あちらの室を頼む」


 張機が声をかけると、王誼は任せろと短く返し、両手に布を提げた。歩みは早い。だが、戻るたびに少しずつ背が丸くなる。それでも翌日も来る。翌々日も来る。


 「続けるには、続けるための嘘が要る日もある」


 王誼がぽつりと漏らした。


 「今日は持ち直す、明日は楽になる。そう言って、俺は自分に言い聞かせている」

 「嘘でも、嘘のままでも、誰かの足を一歩前に出せるなら、意味はある」


 張機は盆を受け取り、布を替える。


 「あいつも、生きるための沈黙は許すと言ってくれるはずだ」


 友の名を、二人は深く口に出さぬ。獄に消えた何顒の声は、いまだ胸の内に熱く、触れれば痛む。


 生きよ。


 あの日、自分は叫んだ。声は届いたのだろうか。後に残された自分は、覚えていくしかない。見るもの、聞くもの、匂い、汗、震え、指の温度。全て。


 日ごとに、空は白く高く、地は色を失った。市の片隅では、木工が古い几の脚を切り、薪の代わりに売る。女は襤褸ぼろを裂いて布に見立て、子の袖をつぎ足した。男は壊れた鍬の柄を短く削り直し、畑の表土も掻き起こす。物々の手は、ためらいとため息を交互に運ぶ。


 「この壺は、母の形見だ」

 「その布は、妻の帯だ」


 それでも差し出される。人は、捨てる順番を決めていく。


 張家の夜は、油の匂いが濃い。張靖は簿に筆を置き、灯芯を小箸でそっと摘む。炎は丸くなり、また細くなる。


 「倉を開ければ、明日は軽くなる。閉じれば、誰かの明日がなくなる」


 張靖は独り言のように言い、咳を堪えた。


 「父上も、同じことを考えたはずです」


 張機が応じる。


 「だから守る」


 張靖は短く言った。


 やがて、邸の空気に別の重さが加わった。母が厨で碗を持つ手を、ふと止めたのである。大丈夫と言って、すぐに動き出した。だが夜には額が熱を帯び、翌朝、その熱は胸に落ちる。


 張機が脈を取り、額に布を当てた。母は、よいよいと笑い、薄い帛を肩にかける。笑みは柔らかい。けれど、柔らかいからこそ薄れるのが早い。張機は笑みの端を追い、止められぬと知りながら、目を逸らさぬことにしがみついた。


 その間にも、遠縁の老人が床につき、従兄の妻が子を抱いたままうわ言に沈む。家じゅうの足音が速まり、声が細り、盆の水はすぐにぬるくなった。王誼は昼と夜の境目をなくして出入りする。


 「仲景、食え」

 「あとでいい」

 「あとで、は食べないの言い訳だ」


 短いやりとりの末、王誼はむりやり麦餅を割って、張機の掌に押しつけた。


 「俺も、折れたくない」


 そう言って、王誼はまた別の寝台へと向かう。


 夜の湿りが室に満ち、油灯の火が短くなっていく。張機は縁へ出て一息吸った。庭に渡した帛が月に鈍く光り、干した麻が細い風に鳴る。何顒の眼差しが、ふと胸裏に浮かぶ。烈しさは炎のまま、しかし輪郭は遠い。


 「声を絶やすな」


 今は熱い言葉より、冷たい現実が身を刻む。


 「学び、忘れぬ」


 張機は小さく口の中で言い直し、室へ戻った。


 母の熱は、下がらなかった。日を追うごとに、言葉の数が減る。それでも耳はよく通るらしく、張機が衣ずれの音を立てるたび、目がやわらかく動いた。


 「覚えておいで」


 母は、その一言を唇で形作る。覚えることは、悲しみの始まりでもあった。けれど、忘れるよりは確かである。張機はうなずき、手の温かさを掌で受けた。


 村の外れでも、市の片隅でも、同じような光景が連なっている。小屋の戸口に帛が結ばれ、道を行く者は視線を落として通り過ぎる。


 「明日は自分の家かもしれぬ」


 誰もがそう思っている。伯祖はなお戻らぬ。戻れぬほどに、郡の外でも病が広がっているのだろう。この地に残された手は、いまある手だけだ。張機はそれを、良い言葉にも悪い言葉にもせず、ただ事実として胸に置く。


 やがて、母の呼吸に小さな段ができた。浅い息が三つ、間がひとつ、また浅い息が二つ。王誼がそっと入ってきて、縁に膝をつく。


 「仲景」

 「なんだ」

 「すまぬ。俺は、ここにいることしか出来ぬ」

 「それで十分だ」


 二人は、それ以上、言葉を積まなかった。言葉には限りがあると知る者同士、限りを超えた静寂で、枕元の時間を支える。


 朝の光が屏風の端を白く舐め、油灯の芯がひとつ音を立てて落ちた。母の指が袖の中で、ひとつ握り、ひとつほどける。張機は手をとった。温もりは、ゆるやかに去っていった。


 その日、庭に白布が掛けられた。


 哭の声が長く尾を引き、敷石に沁み込む。張機は木主を見据え、香の煙の流れを目で追い、喪の重みを胸に置いた。泣かぬのではない。泣くより深く刻むのだ。母が言い残したとおりに。



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